13 / 104
第12話 惣菜と、赤らむ耳と
雫が「こだま」の裏手にあるアパートに引っ越してきて、数週間が経った。
ふと目を覚ました朝、隣の部屋から漂ってくる味噌汁の香りに、思わず口元が緩む。
――今日も、頑張ろう。
香りひとつで、こんなふうに思えるようになっていた。
仕事を終えて部屋に戻れば、冷蔵庫には朔が届けてくれた作り置きの惣菜たち。
煮物、焼き魚、きんぴら。それから、時々ハンバーグ。
(……そういえば最近、コンビニに行かなくなったな)
あの、パックを開けるだけのごはんの味を、思い出せなくなっていた。
「……こんなふうに暮らせる日が来るなんて、思ってなかったな」
ぽつりとこぼした独り言が、静かな部屋にふわりと落ちる。
婚約していた頃は、常に「理想の自分」でいなければならなかった。
完璧な振る舞いに、完璧な笑顔。
少しでも気を抜けば、すぐに冷たい目で見られて息苦しさを感じていた。
(今思えば……あの時は、本当に苦しかった)
別れたときは正直、少しほっとした。
でもその後に訪れたのは、何もない空っぽの毎日。
その空白を、少しずつ埋めてくれたのが、「こだま」の空気と朔の料理だった。
口数は少ないのに、料理には真っ直ぐな想いが詰まっていて。
(……気づけば、ちゃんと笑えてる。あの頃の私とは、全然違う)
ある日の昼下がり、「こだま」のカウンター席で、大将がふと目を細めた。
「雫ちゃん。最近、顔つきが柔らかくなったなぁ」
「え、そうですか?」
思わず頬に手をあてる。
(柔らかくなったって……どういう意味だろ)
「前は、なんというか……背中まで緊張してるような雰囲気でさ。笑顔もぎこちなかったけど、今は自然に笑えてる。肩の力が抜けてるっていうのかな」
「……自分ではあまり、気づいてなかったです」
「心に余裕ができた証拠だ。人間の表情って、内側のもんが出るからな」
湯呑みを手にした大将が、ゆっくりと頷いた。
「何か、良いことでもあったのか?」
その問いかけに、雫は少しだけ視線を落とした。
言葉にするには、まだ少し照れくさい。
「良いこと……というか。ここに来てから、“日常”を送れるようになった気がするんです。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、笑える。それがこんなにありがたいなんて、前は考えたこともありませんでした」
「……なるほどなぁ」
大将はにっこりと笑い、厨房の奥へ視線をやった。
「あいつ、こっそり雫ちゃんの好物とか聞いてきたりしてさ。……素直じゃないけど、わかりやすいよな」
「えっ……」
朔の姿は見えない。多分、仕込みの真っ最中だ。
「……うちの定食が効いたのか、それとも、誰かさんの手料理が効いたのか。まぁ、どっちにしても、いい傾向だ」
「えっ、どっちって……」
雫の頬が、ふわりと赤くなる。
「べ、別に……その、朔さんの料理がどうとか、そういうのじゃなくて……っ」
「はは、言い訳の仕方が初々しいな!」
「……大将、からかってます?」
「ん?俺は観察眼がいいだけだけさ」
ニヤリと笑った大将に、雫は頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうに笑い返したその時。
奥の厨房から、ちょうど朔が顔を出す。
「親父、さっきの出汁、冷蔵庫に――」
視線がカウンターにいる雫と、大将に向いた瞬間。ぴたり、足が止まった。
「……え、なんか話してました?」
「おお、ちょうど良かった。朔、お前も気づいたか? 雫ちゃん、最近ますますいい顔になったよな?」
「――は? 何の話だよ」
朔は微妙に眉を寄せ、カウンター席に視線を寄こす。
「そりゃあまあ、ちゃんと飯食ってりゃ、元気にもなるし……」
「……それだけですか?」
雫が冗談っぽく聞くと、朔は一瞬言葉に詰まる。
「……他に、何があるんですか」
「ふふ、どうでしょうね」
雫は少しだけ、からかうように笑ってみせた。
すると朔は、ぼそりと呟く。
「……笑うと、雫さんの目、ちょっと垂れるんですね」
「え?」
「いや……なんでもない、忘れてください。次の仕込みやります」
そう言い残して、朔は厨房に戻っていく。
だが、その耳の赤さは、最後まで隠しきれていなかった。
「……本当、分かりやすいよな」
と、大将がくくっと笑う。
雫は、湯呑みに視線を落としながら、胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じていた。
(……なんか、最近、ちょっとした会話にときめいてる)
そんなふうに思った自分に、驚きながらも頬が自然とほころぶ。
戸惑いながらも、胸の奥はしっかりと熱を帯びていた。
夕方の「こだま」
ランチタイムの喧騒が去り、ディナータイムまでの短い休憩。
朔は仕込みを終えた厨房で、使い込まれた包丁を無意識に磨きながら、ふと思い出す。
――最近の雫さん、よく笑うな。
少し前までは、無理して笑ってるんじゃないかって思うこともあった。
丁寧すぎる言葉に、遠慮がちに笑う目元。どこか張りつめたものがあって。
でも今は、ふとしたときに見せる表情がやわらかくて……あたたかい。
それが、無性に嬉しい。
理由は、深く考えたことないけど。もう、考えなくてもわかっている。
『最近、顔つきが柔らかくなったな』
大将のその言葉に、カウンターの向こうで照れ笑いする雫を見て、少しだけ胸がきゅっとなった。
(……あの笑い方、ずるいんだよな)
無防備に笑われると、心臓が勝手にうるさくなる。
「ああいうの、前は見せなかったのに……」
言葉にすると、妙にこそばゆくて、すぐに唇を噛んで押し殺す。
それに、あの笑顔を引き出したのが、自分だったら――って。
そんなことを考えている自分にも、驚く。
(……バカか。俺は)
うっかり彼女の名前を呼びそうになって、あわてて唇を引き結んだ。
……言えるわけないだろ、こんなこと。
でも、それでも。
少しでも、笑ってくれるなら。
自分の料理で、また笑ってくれるなら。
それだけで、明日もここに立ちたいと思える。
あなたにおすすめの小説
優しいマッチョ先輩とみたらし
羽月☆
恋愛
マッチョの松田先輩ときれいだけど実は腹黒毒舌の百合先輩。
同期のいない私 鴻島みどりはふたりに仲良くしてもらってます。
会社でも並びの席で、飲み会でもたいてい三人一緒にいて。
優しい松田先輩にはお酒を勧められます。
飲み足りない顔をしてると思います。だって私は飲めるんです!
だけど三杯まで、お外では三杯までって決めてます。
今日も部屋で一人二次会。
だって恋活中の私はあふれる期待を胸に参加した飲み会で・・・まったく意識もされず。
なかなかうまくいかない恋活中の私。
どうしてなんでしょうか?
そんなにダメですか?
長い間掲げていた恋活中の看板、やっと下ろすことが出来ます。
緑のちょっと変な恋愛事情の話です。
仮面夫婦のはずが、エリート専務に子どもごと溺愛されています
小田恒子
恋愛
旧題:私達、(仮面)夫婦です。
*この作品は、アルファポリスエタニティブックスさまより、書籍化されることとなりました。
2022/07/15に本編と雅人編が引き下げとなり、書籍版のレンタルと差し替えとなります。
今井文香(いまいあやか) 31歳。
一児の母でシングルマザー。
そんな私が結婚する事に。
お相手は高宮雅人(たかみやまさと)34歳。
高宮ホールディングスの次男で専務取締役。
「君は対外的には妻であり母である前に、僕とは今後も他人だから」
要は愛のない仮面夫婦を演じろ、と。
私は娘を守る為、彼と結婚する。
連載開始日 2019/05/22
本編完結日 2019/08/10
雅人編連載開始日 2019/08/24
雅人編完結日 2019/10/03
(本編書籍化にあたり、こちらは多大なネタバレがあるため取り下げしております)
史那編開始 2020/01/21
史那編完結日 2020/04/01
2019/08/20ー08/21
ベリーズカフェランキング総合1位、ありがとうございます。
(書籍化に伴い、ベリーズさんのサイトは引き下げた上で削除しております)
作品の無断転載はご遠慮ください。
普通のOLは猛獣使いにはなれない
ピロ子
恋愛
恋人と親友に裏切られ自棄酒中のOL有季子は、バーで偶然出会った猛獣(みたいな男)と意気投合して酔った勢いで彼と一夜を共にしてしまう。
あの日の事は“一夜の過ち”だと思えるようになった頃、自宅へ不法侵入してきた猛獣と再会し、過ちで終われない関係となっていく。
普通のOLとマフィアな男の、体から始まる関係。
メイウッド家の双子の姉妹
柴咲もも
恋愛
シャノンは双子の姉ヴァイオレットと共にこの春社交界にデビューした。美しい姉と違って地味で目立たないシャノンは結婚するつもりなどなかった。それなのに、ある夜、訪れた夜会で見知らぬ男にキスされてしまって…?
※19世紀英国風の世界が舞台のヒストリカル風ロマンス小説(のつもり)です。
不遇な令嬢は次期組長の秘めたる溺愛に絡め取られる。
翼 うみ
恋愛
父の会社を立て直す交換条件のため、ほぼ家族に身売りされた形で関東最大級の極道・桜花組の次期組長に嫁入りしたジェシカ。しかし母を亡くして以降、義母と義妹に虐げられていたジェシカは実家を出られるなら、と前向きだった。夫となる和仁には「君を愛することはない」と冷たく突き放される。それでもジェシカは傷つくことはなく、自分にできることを探して楽しんでいた。
和仁には辛い過去がありそれ故に誰のことも愛さないと決めていたが、純真で健気なジェシカに段々と惹かれてゆき――。
政略結婚から始まる溺愛シンデレラストーリー。
なし崩しの夜
春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。
さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。
彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。
信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。
つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。
Wavering Heart ~ 元同級生は別人級に甘すぎる ~
芙月みひろ
恋愛
ある日のランチで一緒になった男性。苦手だと思っていた彼が、ほとんど話したことのなかった中学の同級生だったことが分かり……