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第13話 触れて、赤くなるまで
土曜日の夕方。
「こだま」の厨房には、出汁と醤油の香ばしい香りが立ちこめ、鍋の中からコトコトと心地よい音が響いていた。
味見係として立っていた雫に、朔がぽつりと呟く。
「なぁ、今度は雫さんが作ってくれてもいいんじゃないですか」
その一言に、雫の手がぴたりと止まる。
「えっ……私が、ですか?」
心臓が、不意に跳ねた。
「……たまには、俺も食べる専門でもいいかなって」
「い、いや、それは……」
うまく返せず、顔が熱くなる。
火でも浴びたみたいに、じわじわと頬が火照っていく。
「……まあ、俺もたまには、誰かの手料理を食べてみたいなって思っただけで。……深い意味はないんで」
「……深い意味、ないんだ」
雫がぽつりとつぶやくと、その声に気づいたのか、朔が慌てたように続けた。
「いや、ちょっとはあるけど……いや、なんでもないです」
ほんの一瞬、本音を漏らした朔がそっぽを向く。
その姿がなんだか可愛くて、雫はつい笑ってしまった。
その時。
同じタイミングで、鍋の蓋に手を伸ばした指先が、ふと朔の手に触れる。
ぴたり——
時間が止まったように、二人とも動けなくなる。
ほんの一瞬、指先が重なっただけ。
それなのに、触れた指先からじんわりと熱が伝わってくる。
朔は固まったまま、そっと息をのんだ。
そして、静かに手を引く。耳の先が、しっかり赤い。
「……すみません、邪魔しちゃって」
「いや……全然。……あの、熱くなかったですか?」
そう言って、朔ががちらりと雫を見た瞬間、視線がぶつかった。
一秒もない時間が、やけに長く感じる。
「……大丈夫です」
気まずいような、でもどこか心地よい静けさが二人の間を満たしていく。
その空気を切るように、大将がひょいと厨房に顔を出す。
「お、いい匂いだな。……しかしまあ、お前ら、いいコンビだなぁ」
「なっ……何言ってんだよ、親父!」
朔があからさまに動揺し、雫も「そ、そんな!」と手をバタバタ振る。
大将はニヤリと笑いながら、味見用の箸で一口すくって言った。
「うん、美味い。……じゃあ次は、雫ちゃんがメインで作ってみろよ。朔に口出しさせずにな」
「ええっ!? 私、味見係なんですけど……!」
「俺は黙ってるつもりだけど……でも、ちゃんと食べますよ」
朔が静かに笑ってそう告げた瞬間――
胸が“トクン”と跳ねる。
彼の視線は優しくて、でもどこか特別を宿していて。
その一言に、何よりも強く背中を押された気がした。
エプロン姿の雫が、緊張した面持ちでカウンター越しに目をやる。
そこには、腕を組み、壁にもたれて静かに見守る朔の姿。
「俺は何もしませんから。口出しもしないし、手も出さない」
「……それが、一番プレッシャーなんですけど」
彼の存在を感じながら、包丁を手に取る。
まな板に触れる“トン、トン”という音が、やけに大きく響いた。
作るのは、肉じゃが。王道だけど、難しい。
湯気が立ち昇る中、にんじんの色、玉ねぎの甘さ、じゃがいもの煮崩れ具合――全てに神経を注ぐ。
やがて完成した肉じゃがを、朔の前に出す頃には、緊張と手汗で指がじんわり湿っていた。
「……はい、できました。たぶん……」
朔は無言で箸を取り、じゃがいもを一口。
咀嚼する音が、心臓の鼓動と重なる。
そして――
「……しょっぱい」
「えっ……」
雫の顔がカァッと熱くなる。
やっぱり、ダメだった――。
思わず引っ込めかけた皿に、朔の手がふわりとかぶさる。
大きくて、あたたかい手。
添えるだけのその仕草に、息が詰まる。
「でも、嫌いじゃないです。出汁の香りもちゃんとある。……多分、味付けのタイミングが少し早かっただけですよ」
「……それ、フォローになってます?」
「なってます。俺の最初の肉じゃがなんて、“肉の味しかしない”って言われたんですから」
言いながら、今度は人参を口に運ぶ。その表情は真剣で、どこか柔らかい。
「……あの。手直し、してもいいですか?」
「もちろん。俺、助手やります」
「助手?味見係じゃなくて?」
「助手で、味見係。特別仕様です」
その“特別”という言葉に、少しだけ胸が鳴った。
並んで鍋に向かい直すと、朔がふいに、雫の手元をそっと支える。
「手の角度、こうすると安定しますよ。……そう、そのまま」
耳元で響く低い声。
近すぎる距離に、息が止まった。
──顔、見られたら赤くなってるの、絶対にバレる。
みりんのまろやかな香りと、彼の気配。
指先から、鼓動がせり上がる。
「……これなら、食べてもらっても大丈夫かな」
そして再度味見をした朔が、ふっと笑った。
「うまいですよ、これ。……なんか、もっと食べたくなります」
「……認めてくれたってことで、いいんですか?」
「うん。雫さんの味、ちゃんと覚えましたから」
その言葉に、胸の奥がきゅっと音を立てる。
──この人に、もっと「美味しい」って言われたい。
ただの味見係じゃ、もう足りない。
そう感じた瞬間、雫の中で何かが、音を立てて動き始めていた。
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