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第14話 冷たい部屋と、温かい惣菜
味見係のはずが、気づけば料理教室の生徒となり、週末を朔と過ごすようになってから、数週間が経っていた。
最初はぎこちなかった距離も、今ではすっかり自然で──
気づけば雫の日々は、彼の笑顔と手料理に包まれ、優しく色づいていた。
帰りが遅くてクタクタの日でも、こだまへ行けば
彼の「いらっしゃい」と、「ほら、座って。今日はカレイの煮つけです」の声に、疲れた心も体もほぐれていく。
ほんの少しだけ、思っていた。
こういう時間が、ずっと続けばいいのにって。
けれど、幸せというのは、得てして脆いものだ。
「天音さん、次のプロジェクト、メインで動いてもらうから」
室内の空気が、ぐっと重たくなる。
(……私に、できるのかな)
光栄な抜擢。だが、その責任は大きく、雫の心には一抹の不安と、逃げ場のない日々の始まりを予感させる重さがのしかかった。
それからの日々は、息をするのも忘れるほど慌ただしくなった。
終電に滑り込み、間に合わなければオフィスのソファで仮眠。
週末も、紙の資料とパソコンの画面に埋もれて過ぎていく。
ある晩、ふらふらの足取りで帰宅した玄関先のドアノブに、小さな布袋がかかっていた。
(……あれ?)
袋を開けると、ひじきの煮物。厚揚げと根菜の煮物。ほうれん草の白和え。
どれも、朔が作ってくれる“あの味”だ。
そっと手を添えると、まだほんのり温かさが残っている。
「……朔さん……」
名前が、ぽろっとこぼれた。
何も言わず、そっと置いていったのだろう。
押しつけがましくなく、そっと寄り添うような優しさ。
──彼らしいな、と、じんわり胸が熱くなる。
無理に会おうとしない。けれど、雫を放っておくこともしない。それが、朔らしい不器用で優しさに満ちた愛情表現だった。
雫は玄関先の冷たいタイルにしゃがみ込み、袋を抱きしめる。
冷えきった心に、出汁の匂いがゆっくりと染み込んでくるようだった。
(……あぁ、もう……)
何度も救われてきた味。
怒られた日も、泣きたかった夜も、その料理が「おかえり」と言ってくれているようで。
それなのに今の自分は、彼に何かを返せているのだろうか。
忙しさにかまけて、メッセージを既読にすることもできないまま──
『彼の優しさに、甘えてるだけなんじゃないか』
不意にそんな言葉が胸に突き刺さる。
「……会いたいな」
声に出した瞬間、目頭がつんと熱くなった。
……泣くわけにいかないのに。
彼の名前を口にするだけで、涙がこぼれそうだった。
会いたい。顔が見たい。ちゃんと「ありがとう」って伝えたい。
でも、それを言ってしまったら、涙が止まらなくなる気がした。
時計はすでに深夜。
ふとスマホに目をやると、数日ぶりに「朔さん」の名前が画面にあるのを見つけた。
(……返信、ちゃんとしなきゃ)
だけど、メッセージじゃ伝わらない気がして。
思い切って、通話ボタンを押す。
呼び出し音が鳴るたびに、胸の鼓動がひとつずつ跳ね上がる。
──出てくれるかな。
『……はい』
低くて、少し掠れた声。やっぱり、寝ていたのだろうか。
それでも出てくれたことが、嬉しくて。
「あの、遅くにすみません……週末、また行けそうになくて……」
自分でもわかるほど、声が弱々しかった。
『……別に、いいですけど』
一瞬、突き放されたような言葉。
でもそのあと、朔の息が微かに揺れる。
『……体、壊さないでくださいよ』
(……心配、してくれてるんだ)
それが伝わってきて、胸がじんとした。
「ありがとうございます……」
彼に甘えてばかりの自分が、情けなかった。
「お惣菜、ありがとうございます。朔さんが……置いてくれたんですよね?」
『他に誰か、惣菜を持ってくる人に心当たりでもあるんですか?』
「……ふふ、ないです。ないけど……なんか、聞きたくて」
『……そうですか』
小さく笑う声が聞こえた。
その声が、眠気混じりで優しくて、ずるいくらい心に触れてくる。
『まぁ……置いとけば、食べるかなと思って』
「すごく、嬉しかったです」
『まぁ……ちゃんと、食べてくれればそれでいいです』
(でも、できれば会いたかった。顔、見たかった……)
その言葉を呑み込んで、雫はただ「ありがとう」と繰り返す。
通話を切ろうとしたその時、朔の声が重なった。
『……もう少し落ち着いたら、来ますか? 料理教室、俺はいつでも待ってます』
その言葉に、思わず目頭が熱くなった。
待ってる、なんて。そんなの、ずるい。
「……うん。行きます。絶対、また……行きたいです」
心からの本音だった。
それと同時に、「もっとこの人のそばにいたい」と思った自分に、少しだけ戸惑っていた。
でも──
(その日が、一日でも早く来ますように)
そう願いながら、スマホの画面をそっと伏せた。
まだ少し熱の残るタッパーを胸に、雫は深く息を吐く。
それは、ほんの少し前を向くための、小さな小さな決意だった。
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