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第15話 残されたレシピ
通話が終わると、朔はソファの背にもたれた。
静かな部屋に、秒針の音が、やけに大きく響く。
「……はぁ」
低く、短い吐息が漏れた。
画面の光が消えると同時に、さっきまで響いていた雫の声も、どこか遠くへ消え去ったように感じた。
(別に……忙しいのは、わかってる)
頭では理解している。
けれど、ここ最近の生活は、まるで何かが抜け落ちたみたいだった。
週末の料理教室。
手取り足取り教えるふりをしながら、間近で見る雫の笑顔が楽しみだった。
彼女の「うーん、ちょっと甘いかも?」という曖昧な味覚や感想も、今となっては懐かしい。
「……なんだよ、それくらいで」
誰にともなく呟き、キッチンの流しに視線を向けた。
今日作った惣菜は、雫が好きだと言っていた煮物と、ほうれん草の白和え。
タイミングが合えば直接手渡せると思っていたが、すれ違いだった。
だから、ドアノブに掛けてきた。
自分の気持ちを押しつけないように。けれど、どうしても何かを伝えたくて。
(……受け取ってもらえて、よかった)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。
しかし、それは安堵と引き換えに、小さな痛みも残した。
会えないことに、慣れてしまいたくない。
けれど、求めすぎるのも違う――そう自分に言い聞かせるたび、胸に歯がゆさが滲む。
(落ち着いたら、また来るって……本当なのか)
誰にも答えのわからない問いを、天井に向かって投げかけた。
今日作った惣菜は、雫が好きだと言っていた煮物と、ほうれん草の白和え。
タイミングが合えば直接手渡せると思っていたが、すれ違いだった。
だから、ドアノブに掛けてきた。
自分の気持ちを押しつけないように。けれど、どうしても何かを伝えたくて。
(……受け取ってもらえて、よかった)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。
しかし、それは安堵と引き換えに、小さな痛みも残した。
会えないことに、慣れてしまいたくない。
けれど、求めすぎるのも違う――そう自分に言い聞かせるたび、胸に歯がゆさが滲む。
(落ち着いたら、また来るって……本当なのか)
誰にも答えのわからない問いを、天井に向かって投げかけた。
そして、小さなメモを取り出す。
雫に教えようと、走り書きした『炊き込みご飯の簡単レシピ』
「今度こそ、自分で作れるようになりたいんです」
厨房で笑っていた雫の声が、ふいに蘇る。
しかし、そのメモは使われることなく折りたたまれたまま、数週間が経っていた。
指先で紙をなぞりながら、朔はぽつりと呟く。
「……覚えるって言ったの、雫さんなのに」
自分でも、卑怯な言い方だと思う。
でも、口にしなければ、込み上げてくる感情を抑えきれなくなりそうだった。
「……ずるいよな、俺」
自嘲ぎみに笑って、俯く。
それでも、心のどこかで──
「また、来る」と言った彼女の声だけは、確かに残っていた。
そして日々は、否応なく過ぎていく。
「朔ちゃん、今日は筑前煮?」
「ああ。根菜たっぷり、塩分控えめ」
常連客に応えながら、カウンターの向こうで
朔は無駄口ひとつ叩かず手を動かし続けていた。
包丁の音、湯気の立つ鍋。店内にはいつもの夕方の空気が流れていた。
「……」
ふと、鍋をかき混ぜる手を止め、朔は入口へと視線をやった。
彼女は来ない。そりゃ、わかってる。
今日も、来ないことくらい。
(……いつまで来ねぇんだよ、あの人)
最後に雫の声を聞いたのは、あの深夜の電話だった。
『今週も行けそうにありません』
たったそれだけ。以来、メッセージも未読のまま、返事はなかった。
「なぁ、朔ちゃん」
不意に、聞き慣れたダミ声がかけられる。
カウンターの一番端にいた常連客が、ニヤリと笑っていた。
「雫ちゃん、最近ぜんっぜん見ないじゃん。どうしたの?」
「……仕事が、忙しいらしいっす」
できるだけ淡々と、努めて無表情で返す。
だが、その表情にピクリと反応した常連の目が、まるで獲物を見つけた猫のように細まった。
「へぇ~~~~。仕事ねぇ。……朔ちゃん、寂しいんじゃないのぉ?」
「はぁ? なんで俺が寂しいんですか」
思わず声が大きくなる。
言ってから、自分でも「やばい」と気づいた。
でも、もう遅い。
「いや~だってさ。雫ちゃんが来てた時はさ、朔ちゃん、ちょ~っとだけ柔らかい顔してたんだよ? 気づいてた? 俺は気づいてた」
「うるさいっすよ」
「なんか知らんけど、雫ちゃんと喋るときは声のトーンちょっと上がってたしな」
「だから、そういうの……」
「朔、図星か?」
くっ、と別の常連客が茶碗片手に笑いをこらえた。
朔の頬がじわじわ熱を帯びていく。
「そ、そんなことないっつってんだろ」
「惣菜届けてんだろ? 気があるとしか思えないよなぁ」
「──あれは、あくまでも体調を気遣って……」
「惣菜な~。わざわざ作って、持って行って、ドアノブにかけて帰るって、どんな配達サービスよ?」
朔は完全に返す言葉を失い、視線を逸らすしかなかった。
そのとき、大将がまな板の手を止めた。
苦笑いを浮かべて、言う。
「朔、別に無理して否定しなくていいんだぞ。……わかるよ、雫ちゃんが来ると、話しかけるの多くなってたしな」
「……親父まで、何言って……」
「天音さん、優しい人だよね~」
「いい雰囲気だったよな、二人」
「ち、ちげぇし!」
笑いと茶化しの渦の中で、朔は完全に包囲されてしまった。それでも、口元だけは必死に引き結んで、取り繕おうと必死だった。
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