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第17話 澱(おり)が溶ける時
雫は、朔が届けてくれる惣菜のおかげで、どうにか生き延びていた。
朝はコーヒー、一杯。
昼はコンビニのおにぎりを慌ただしく流し込む。
そして、ようやく息をつける夜。
冷蔵庫を開けて、タッパーを手に取った瞬間──ふわりと立ちのぼる香りに、心がほぐれる。
朔の惣菜だけが、自分を“人間”に戻してくれる気がした。
それでも──
鏡に映る自分の顔は、青白さを通り越して、もはや土気色。目の下には濃い隈が居座り、取れない疲れが沈殿していた。
爪の色さえ、くすんでいる気がする。
(このままだと……本当に、倒れちゃうな)
そんな不安が、何度も頭をよぎる。それでも、止まれなかった。プロジェクトは終盤に差しかかっていて、まさに正念場。
ここで休むわけにはいかない。
そんなある日、ついに体が限界を迎える。
激しい頭痛が襲い、目の前の画面が歪んでまともに見えない。
心配した上司に「今日はもう帰れ」と肩を押され、ようやく会社を出た。
フラフラとした足取りでアパートへ向かう途中、駅前のスーパーの前を通りかかる。
何か、口に入れられるものを買って帰ろう。
そう思いながら惣菜コーナーを見つめていた、その時――
「……雫さん?」
聞き慣れた声が耳に届く。
振り返ると、買い物かごを片手に持った朔が、
まっすぐにこちらを見ていた。
「さ、朔さん……?」
最悪のタイミング。
こんな姿、見られたくなかったのに。
でももう遅い。
朔の顔から、さっと表情が消えていく。
その視線は、雫の顔から離れない。
「……なんて顔色してるんですか」
低く、押し殺すような声。
叱るようでいて、でもそれ以上に心配しているのが見て取れた。
「ち、違うんです、これはその……」
言い訳しようとしても、うまく言葉が出ない。喉の奥が詰まり、ひゅ、と声が漏れるだけ。
その時
朔の手が、雫の腕を掴んだ。
……あつい。
大きくて、火傷しそうなほど熱を持った掌が、迷いなく雫を引き寄せる。
何かを言いかけたけれど、声にならなかった。
「ごめんなさい」も、「助けて」も、喉の奥でくすぶったまま。
「いいから、店に行きますよ」
朔の真っ直ぐな声に、抗う力はもう残っていなかった。
*
次に意識が向いた時には、朔に手を引かれ、すでに「こだま」の暖簾をくぐっていた。
昼営業を終えた店内は静かで、カウンターの奥にいた大将が、少し驚いたように二人を見る。
朔は無言で雫を席に座らせると、大将に向かって一言。
「親父、悪いけど、ちょっと手伝って」
それだけ告げると、奥の厨房へと姿を消した。
やがて、目の前に置かれたのは──
真鯛の塩焼き定食。
ふっくらと焼かれた身、香ばしく焼き上がったつややかやな皮。
彩りのいい小鉢には煮物と卵焼きが並び、湯気の立つ味噌汁が添えられていた。
「いいから、食え。残すなよ」
朔は腕を組み、カウンター越しに言う。
その口調はぶっきらぼうなのに、目は、優しかった。
心配を隠しきれない、不器用なまなざし。
震える手で箸を握り、魚の身を口に運ぶ。
……あたたかい。
味も、気持ちも、優しさが伝わってくる。
たったそれだけで、涙が滲んだ。
「……っ、美味しい……」
──体に沁みるって、こういうことなんだ。
言葉にした瞬間、胸の奥がぐらりと揺れる。
朔はフイと顔を逸らしたが、その頬がほんの少し赤くなっていたのを、雫の目は捉えた。
真鯛を半分ほど食べた頃、ようやく胸のつかえが取れた気がした。
「あの……」
声をかけると、朔が静かにこちらを見る。
「……今、プロジェクトの追い込みで。毎日、朝から晩まで会社にいて……休みもなくて」
少し間を置いて、ぽつりと続けた。
「朔さんの惣菜がなかったら、まともに食べてなかったと思います……」
口にするたび、胸が痛む。
情けなくて、でも少しだけ、楽になる気がした。
「……そうですか」
彼はカウンターから出てくると、雫の隣にそっと腰を下ろす。
「そのプロジェクト、いつまで続くんですか」
「……まだもう少し。今が山場って言われてて」
うつむいた視線の先には、小鉢の煮物。
柔らかく煮込まれた人参が、やけに優しく見えた。
「家に帰っても誰もいないし、電気をつけても虚しくて。お風呂入って、そのまま寝て……朝が来て、また仕事して」
ぽつぽつと、ここ数週間のことを語る。
誰にも話せなかったことが、自然と口から出ていた。
「朔さんの惣菜だけが、支えでした。……玄関で見つけたとき、本当に、泣きそうで」
そう言ったところで、急に恥ずかしくなって口をつぐむ。弱音を吐きすぎた。
朔は少しだけ目を細めて、小さくうなずく。
「……頑張りすぎなんですよ」
その言葉と同時に、朔の手が雫の頭にぽんと乗った。少しだけ大きな、ごつごつした手のひらが、静かに温もりを伝えてくる。
ただ、夜の海みたいに静かで深い、けれど限りなく優しい光を湛えた彼の目が、すべてを見透かしているようで。
ぽた、と、視界の端がにじんだ。
食事を終え、席を立とうとした時、朔が紙袋を差し出した。
中には、何種類もの惣菜が丁寧に詰められていた。
「今日の夜と、明日の朝の分。ちゃんと食って、少しずつ戻していきましょう」
その“戻していきましょう”という言葉に、胸が高鳴る。
まるで、自分ひとりじゃないって言われたみたいで。
「……ありがとう」
雫は紙袋を胸に抱きしめた。
あたたかさが、じんわりと胸に広がっていく。
部屋に戻り、ドアを開ける。
変わらないはずの部屋が、ほんの少しだけ、あたたかく感じられた。
手の中の紙袋は、まだほのかに温かいままだった。
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