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第19話 習いたいのは、あなたの味
数日ぶりに足を踏み入れた「こだま」は、変わらず温かな匂いに包まれていた。
カウンターの奥で鍋を振るう朔の背中を見た瞬間、張り詰めていた気持ちが、ふっと緩んでいく。
「朔さん」
声をかけると、彼は少し驚いたように振り返った。
いつもと同じ表情……のはずなのに、どこか安心したような、ほっとしたような色が見えた。
「……もう、大丈夫なんですか?」
「はい。なんとか」
雫が微笑むと、朔の口元がわずかに緩む。
「朔さんの惣菜のおかげで、乗り切れました」
言葉にすると照れくさくて、でもちゃんと伝えたかった。
朔は一瞬だけ目を伏せたが、次に顔を上げた時、その瞳はやわらかく雫を見つめていた。
「……それは、よかったです」
その言葉だけで、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
──だからこそ、雫はもう一歩、踏み出したくなった。
「……あの」
少しだけ姿勢を正して、朔のほうをまっすぐに見上げる。
「私、やっぱり料理……教わりたいです。朔さんの味、ちゃんと自分の手で作れるようになりたい」
少しだけ、声が震えていた。
けれど、それは迷いじゃなくて──想いの強さだった。
朔は数秒間、静かに雫を見つめていた。
やがて、少しだけ口元を緩めて──
「……いいですよ。その代わり、覚悟してくださいね。俺の料理教室、結構スパルタなんで」
冗談とも本気ともつかない言い方。けれど、そこに滲んでいた優しさを、雫はきちんと感じ取っていた。
くすっと笑って、首をかしげる。
「じゃあ……“地獄の味覚コース”、よろしくお願いしますね」
「そんなコース、開設した覚えないですけど……」
苦笑まじりに視線を逸らした朔の頬が、わずかに赤くなる。
その反応に、雫の胸がほんのり跳ねた。
「はい。ちゃんと、覚悟してます」
その言葉が二人の間に、そっと“約束”のように落ちる。
朔は黙って視線を下げ、何かを飲み込むようにしてから包丁を手に取る。
まな板に向かう背中には、ほんのり熱がこもっていた。
この時間が、ただの「一時」じゃなければいい。
(……こんな日が、ずっと続けばいいのに)
どちらが先にそう願ったのかなんて、もう関係ない。
雫が笑うたび、心がやわらかく満ちていくのを感じていた。
*
ーー数週間後。
「……で、これが出汁の取り方です。覚えました?」
キッチンに立つ朔の声は、いつになく真剣。雫は、目の前の鍋から立ち上る湯気を見つめながら、緊張気味に頷く。
「昆布は……沸騰する前に取り出すんですよね?」
「そう。グラグラ煮たら、苦味が出る」
手際よく火加減を調整する朔の横顔は、料理人そのものなのに、時折、雫の手元に視線を向けて小さく頷いたり、そっと手を添えてくれたりする。その一つ一つの動きが、胸に響く。
「……なんか、ちょっと緊張します。朔さん、思ったより厳しいし」
「手加減したら、覚えないでしょう」
さらっと返す口調は素っ気ない。でも。
雫が焦って包丁の持ち方を崩したときは、なにも言わずにすっと横に立ち、手を添えてくれる。
その指先は驚くほど優しくて、頼りがいがあって
──そして少し、熱かった。
「ゆっくり。力、入りすぎです」
「……はい」
朔の手に自分の手がすっぽり包まれる。
鼓動がひとつ、跳ね上がった。
思わず息を止めた雫に、朔はちらりと目を逸らす。
(……こういうの、ずるい)
朔の仕草や声に、少しずつ胸の奥があたたかくなっていく。
「……なんか、懐かしい匂いですね。出汁の香りって」
ふと雫が呟いた時、朔は手を止めて、彼女の横顔を見る。
「料理って、記憶に残りますから」
「……うん。子どもの頃、風邪をひくと母が雑炊を作ってくれて。ちょっと薄味の、優しい味で。今、その匂いに似てるなって思って」
そう言いながら笑う雫の目が、少し潤んでいることに朔は気づいた。
言葉を選ぶように、彼は静かに返す。
「じゃあ、今日はそれ、再現してみましょうか」
「え……?」
「味、覚えてるんでしょう? 一緒に作ればいい。食べたいと思った時、自分で作れるようになっておいたほうがいい」
その言葉が、何よりも温かかった。雫は、小さく息を呑み、すぐに笑って頷いた。
「はい。……お願いします」
その日、二人で作った雑炊は──優しい出汁の香りに満ちていた。
卵をふわりと落として、仕上げに三つ葉をぱらり。
味見をした瞬間、雫はふっと目を細めて笑った。
「……これ、たぶん、母の味です」
「再現、できました?」
朔は味見用のスプーンを置き、まっすぐに雫を見た。
「……はい。多分、あの時のまま、です」
雫は、笑顔を浮かべながら──そっと口元に手を添えた。
「……って、あれ? なんか私、泣きそうになってる?」
「泣いてるじゃないですか」
朔がタオルを差し出す。
「……雑炊で泣かせる料理人って、なかなかレアですね」
「いや、泣いたのは俺のせいじゃないでしょう」
二人の笑い声が、厨房の中でやわらかく響く。
(ああ、なんか……こういうの、いいな)
教える側と教わる側──その距離じゃ、もうなくなっている気がした。
朔の指先も、声も、いつのまにか“特別”になっていて。
どこかでわかっている。
これは、もうただの「料理教室」じゃない。
「覚えておいてくださいね。次はひとりで、作る番だから」
「……うん」
小さな部屋で、静かに積み重なる時間が、いつの間にか二人の心の距離を縮めていた。
「朔さん」
「ん?」
「……また、一緒に作ってもいいですか?」
ふと口をついて出た言葉に、朔は少し驚いたように目を瞬かせ、ぽつりと呟いた。
「……仕方ないですね」
そのあと、ほんの一瞬だけ、朔の手が雫の指先に触れた。
「たまには、俺に作ってもらってもいいかも」
「え?」
「……気が向いたらでいいです」
照れ隠しのように目を逸らす朔に、雫はふっと微笑む。
「……じゃあ、気が向いたら“特製・雫ごはん”、ごちそうしてあげますね」
「……“あげます”って」
「あ、でもお代はちゃんといただきますよ? 笑顔とか、褒め言葉とか、あと……“また作って”って言ってくれるなら、サービスします」
からかうように告げると、朔はしばし沈黙したあと、小さく咳払いをした。
「なんか、うまく乗せられてる気がします」
「ふふ。気のせい、気のせい」
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