恋するこだま食堂 〜一膳に詰めた想い〜

Sena

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第20話 もう戻らない、あの日には

朔との料理教室が始まってからというもの、雫の日常は、以前にも増して穏やかで満たされていた。
 
二人並んで立つ厨房。
包丁を握る手にも、日々の暮らしにも、少しずつ自信が宿ってきた。

不器用な教え方も、無言でそっと添える手も、
そのすべてが、じんわりと心に沁みていた。

(……私、前よりちゃんと“生きてる”感じがする)

そんなふうに思える日が、少しずつ増えていた。
 
そんなある日の仕事帰り、駅前のカフェの前を通りかかった時——
 
視界の端に、見覚えのある横顔が映った。

まさか。
そんなはず、ない。

けれどその顔は、ガラス越しに確かにこちらを見ていた。

視線が、ぶつかる
 
「雫……?」
 
扉が開く音とともに、空気が変わった。
ゆっくりと出てきたのは、かつての婚約者だった。

「久しぶりだな」

変わらない柔らかな声。丁寧な所作。整った顔立ち。
でも、雫の胸に走ったのは、懐かしさじゃない。
鋭く冷たい何かだった。

「こんなところで会えるなんて……ずっと、どうしてるか気になってたんだ。何度も連絡したけど返信ないし、心配してた」

ああ、そうだった。
この言い回し。間の取り方。どこか芝居がかった口ぶりが、昔の記憶を引きずり出す。

「少しだけ、話せないかな。……時間、ある?」

躊躇いが胸の奥を揺らす。でも、その言葉に身を委ねる自分は、もういない。

「……元気そうで、よかった。でも、私——」

雫がそう言った瞬間——

「雫、俺たち……やり直せないか」

一瞬、息が止まりかけた。
 
彼はいつも、優しくて、無難な言葉でこちらの心を揺らしてくるのだ。

でも、もうわかってる。
彼の隣で生きるには、“都合のいい雫”でいることが求められる。
明るくて、優秀で、文句を言わない女。

笑顔を絶やさず、彼の機嫌を伺いながら生活する日々には、もう、戻れない。

「……ごめんなさい。無理です」
 
「どうして。君は、俺の隣にいるのが一番自然だったじゃないか」
 
自然。――その言葉が、皮肉のように突き刺さる。
 
「私は……今の自分が、好きなんです」
 
胸の奥にある確かな想いを、静かに言葉にする。
これは誰のためでもなく、自分自身のための答え。
 
「あなたといた頃の私じゃなくて、料理を覚えて、仕事をして、自分の手で生活してる今の私の方が、ずっと、自分らしくいられる。だから——もう戻るつもりはありません」

「は……? 料理、って……」

彼が眉をひそめ、口を開いた、その瞬間だった――



「――雫さん」
 
静かで低い、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、朔がいた。

片手に買い物袋を提げ、逆光の中、二人の間にまっすぐ歩いてくる。

「こんなところで油売ってないで、早く帰りますよ。今日の夕飯、何がいいか聞いてませんでしたから」
 
言いながら、片方の手を自然な流れで差し出してきた。そして、彼の大きな手が、雫の腕を包むように取る。

その動きは自然で、強引さはないのに、どこか抗えない引力があった。
手のひらから伝わる熱が、心の奥をじわりと満たしていく。
 
「えっ、ちょっと……朔さん?」
 
雫が慌てて声をあげるが、朔は構わずそのまま背を向け、歩き出す。
 
「……誰だ、お前は」
 
背後から投げられた、低く苛立った声。
朔は一度も振り返らずに答えた。
 

「……ただの、料理教室の先生ですよ」
 
短く。冷静に。
でも、わずかに棘が潜んでいた。

それだけなのに、彼の背中は「近づくな」と語っていた。

黙り込んだ元婚約者の視線が背中に突き刺さる中、朔は何ひとつ気にする様子もなく、雫を連れてその場を後にした。



駅前の喧騒を抜け、住宅街の静けさが戻る頃。
二人の間には、ほんのりとした沈黙が落ちていた。
 
「朔さん……さっきの……」

ぽつりと口を開いた雫の声に、朔はほんの少しだけ視線を逸らした。
 
「何ですか」
 
低く返された声は、いつもよりわずかに荒い。
 
「……どうして、あんなふうに」
 
「あんな顔して、変な男に絡まれてたら、そりゃ……放っておけないでしょう」
 
ぶっきらぼうな口調。

「……平気ですか?」

歩みを緩めながら尋ねる朔の声が、少しだけ、掠れていた。
 
「……うん、もう大丈夫」
 
朔はそれ以上何も聞かなかった。
でも、繋いだ手は、家に着くその時まで離れなかった。
 
アパートの前に着くと、朔はふっと小さく息をついて、ようやく手を放した。

二人の間を一瞬、風が抜ける。

雫の手のひらには、まだ彼の体温がしっかり残っていて——
思わず、そのぬくもりを逃がさぬように、指先をきゅっと握りしめた。

そんな雫の仕草に気づいたのか、朔がふいに声を落とす。
 
「……部屋で待っててください。夕飯、届けますから」

どこか照れ隠しのような早歩きに、雫は小さく笑った。

(……朔さん、そういうとこ……)

雫の胸の奥が、じんわりとあたたかくなっていく。

しばらくして、部屋のインターホンが鳴る。
扉を開けると、手提げ袋を差し出す朔の姿。

「……これ、今夜の分です」

「ありがとう」

「味、ちょっとだけ濃いかもしれないけど……まあ、今日くらいはいいかと思って」

そう言って、朔は目を逸らす。

「うん、いい匂い。……朔さんの料理、食べると、なんか安心するんです」

ぽつりと漏れた雫の言葉に、朔の手がほんの一瞬だけ止まる。
そして視線を外したまま、少しだけ口元を緩めた。

「……安心したいなら、いつでも店に来れば食べられますよ」

「ふふ。そうですね」

雫が笑うと、朔はふと顔を上げた。
その目には、言葉にしきれない何かが宿っていて。

——そして、不意に

「……まあ、隣ですし。どうせなら、またこうやって持ってきますよ」

「え?」

「雫さんが、幸せそうな顔して“美味しい”って言ってくれるの、悪くないんで」

言い終わるや否や、朔はすぐに視線を逸らす。

「……えっと、それって……」

「じゃ、また明日。ちゃんと食べてくださいよ」

話の続きをさせる隙もなく、朔は手を振って足早に帰っていく。

雫はその背中を見送りながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。

(ああ、もう……そういうとこ、ずるい)

手の中の温かい包みが、今夜はなぜだか、少しだけ重く感じた。
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