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第21話 嫉妬と決意、ほろ酔いの夜
翌日
朔はこだまの勝手口を開けたところで、足を止めた。
いつもなら、そのまま仕込みに入る。
なのに今日は、体が動かなかった。
——昨日見た光景が、頭から離れない。
雫の表情。
その向かいに立っていた、男。
彼女を射抜くように見下ろしていたあの視線に、朔の奥底に眠る感情が、ざわりと波打った。
訊くまでもないだろう。あれは――元婚約者だ。
彼女の顔は、どこか張り詰めていた。
それでも毅然とした姿勢で男の言葉を受け止めていて。その強さが、逆に痛々しかった。
あの時、雫の腕を掴んだのは、衝動じゃない。
怒りでもなかった。ただ——どうしようもなく、奪われたくなかった。
(“ただの料理教室の先生”が、何言ってんだ)
自嘲するように笑ったけれど、それでも構わない。
(放っておけるわけ、ないだろ)
ようやく前を向きかけた雫が、また立ち止まってしまったら——
想像するだけで、胸の奥がぐつぐつと煮えたぎる。
それが嫉妬だと、朔はまだ明確には言葉にできなかった。けれど、確かに「好きだ」という気持ちの、輪郭だった。
守りたい、笑顔でいてほしい。誰にも触れさせたくない。
(……雫さんにとって、そんな存在になれるかなんて分からない。でも……)
包丁を握る手に力がこもる。
(もう……遠慮はしない)
静かに、朔は決意した。
料理人として、隣人として。
そして、一人の男として。
「朔、なんかあったのか? 顔、怖ぇぞ」
ふと、大将の声が背中越しに響く。朔はハッと我に返り、無言のまま手元に目を落とす。
「……なんでもねぇ」
包丁を握り直し、魚をまな板に乗せる。けれど、刃先に宿る力加減が、わずかに乱れていた。
かつての雫。
婚約破棄の直後、どこか空っぽの目で、うつむきがちに定食を選んでいた姿を思い出す。
「……絶対に俺が守ってやる」
声にはならなかったその言葉は、湯気に紛れて消えていく。
でもその想いだけは、胸の奥で静かに熱を灯し続けていた。
雫の無防備な笑顔に、ひたむきな横顔に、
朔の心は、すでに深く染まっていた。
*
その日の夜。
「こんばんは~……」
ガララッと戸が開いて、こだまの静かな空気に、不意に明るい声が差し込んだ。
「……雫さん?」
朔が眉を寄せると、そこにはふわりと頬を染めた雫が立っていた。
手には小さな紙袋。スカートの裾をひらひら揺らしながら、ほんの少しだけ上機嫌な足取り。
「まだ、やってます?」
「……ギリ。閉店間際っす」
「よかった」
ふっと笑って、カウンター席に腰をかけた雫の頬がほんのり赤い。
お酒が入っていると、香りで分かる。
「飲み会帰りですか」
「はい。ちょっとだけ、同期と……」
朔の目が、無言で「酔ってるだろ」と言っているのが伝わる。
「昨日、言いましたよね? 朔さんの料理を食べると安心するって」
「……酔っ払いが、タチ悪い」
「そんなに飲んでないですよ。ほら」
にこっと笑って、手を広げる仕草。目もすっきりしていて、まっすぐ。
(本当に、酔ってないのか?)
「私……最近、どこでご飯を食べても、朔さんの料理を思い出しちゃうんです」
「……は?」
「これはこだまの方が美味しいなぁ、とか。今度この味、朔さんにリクエストしてみようかなぁ、とか」
カウンターの中の朔は、ぴたりと手を止めた。
「……おま、」
「あっ、赤くなった」
「なってねえ!」
爆笑する大将が横から口を挟む。
「おいおい、朔。胃袋掴むってのはあながち間違いじゃねえな」
「うるせぇ!!もういいから、さっさとこれ食って帰れ!」
朔は慌てて小鉢を差し出す。
……顔だけ、火がついたように真っ赤だった。
雫は目を細めて、楽しげに箸を手に取る。
「ふふっ……でも、嬉しいです。朔さんの料理って、ちゃんと覚えてるから、身体が」
その言葉に、また朔の動きが止まった。
けれど今度は何も言い返さず、ただ下を向いたまま黙っている。
「……それで、」
「まだ何か……?」
「締めの一杯、付き合ってくれませんか?」
「はあ!?」
「だめですか?」
無自覚に、まん丸な瞳を上目遣いで向けてくる。
「……ダメに決まってんだろ。酔っ払いに出す酒はねぇ」
「ぶぅ……」
頬をぷくっと膨らませて抗議する雫に、朔はぎょっとする。
(なんだその顔……かわ……っ)
「お前な……もうちょっと自覚しろ」
「え?」
「……なんでもねぇ」
そう言って、朔は湯呑みを片づけるふりをして視線をそらす。
やがて雫が軽く食べ終え、立ち上がろうとしたその時。
「おーい、朔。店はもう閉めるから、お前は雫ちゃん送ってやれ」
「……言われなくても、そうする」
「え? すぐ近くなので大丈夫ですよ」
「いいから、酔っ払いは黙ってろ」
*
ほどなくして、こだまを出た二人。
「……ちゃんと歩けるんですね」
「だから言ったじゃないですか、そんなに飲んでないって」
風が少しだけ涼しくなってきて、街灯が道の端を照らしていた。
「それにしても、さっきのお味噌汁、すっごく沁みました」
「……そりゃどーも」
「ねえ、朔さん」
「……ん」
「もし、今度また嫌なことがあって……」
「……」
「……その時はまた、“安心するごはん”を作ってくれますか?」
ふと足を止めた雫が、まっすぐに朔を見上げた。
その瞳が、濁らないままに揺れていて。
朔は静かに一歩近づいて、雫の頭に手を置いた。
「……そんなの、言われなくても作る」
「……え?」
「俺の作るもんは、いつでも雫さんのために作ってんだよ」
朔は視線を少し逸らし、髪を指先ですくいながら、ぽつりと続ける。
「定食屋の料理人が何言ってるんですか……!」
「……雫さんが食べると思うと、つい張り切っちまうんだよ」
「……っ」
一拍遅れて胸に広がる甘さに、雫は息をのむ。
ほんの少しだけ揺れる心臓。
言葉よりも、熱よりも、真っ直ぐな想いが、空気を震わせた。
「じゃあ、リクエストしてもいいですか?」
「内容による」
「……朔さんの気持ちが、たくさん詰まったごはん」
朔は黙ったまま、雫の頬にかかった髪をそっと払った。
「……まかせろ」
夜風が、優しく通り抜ける。
二人の間には、言葉にならない熱がこもっていた。
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