23 / 104
第23話 手の届く距離で、あなたと
「……晴れたな」
窓を開けた朔は、まぶしげに空を見上げた。
梅雨の切れ間とは思えないほど、青が澄んでいる。
(市場に行くだけ、料理の勉強の一環。それだけだ)
そう言い聞かせながら、彼は数分前の自分を思い出す。
白Tに作業着──いつもの“厨房モード”になりかけた手を止めて、
最終的に羽織ったのは、柔らかいベージュのシャツ。
「……慣れないな、こういうの」
シャツの胸ポケットが妙にそわそわする。
でも鏡に映ったのは、いつもより少しだけ“普通の青年”の顔をした自分だった。
(……まぁ、悪くないか)
玄関を開ければ、そこには雫が立っていた。
「おはようございます、朔さん」
朝の風がふわっと吹いて、雫のブラウスが揺れる。
淡いブルーに、白いパンツ。
初夏の光にとけこむような、清々しい装い。
「……その、似合ってます」
そう口にした瞬間、彼女の目がぱちりと瞬き、はにかむように笑った。
「ありがとうございます。……朔さんこそ、今日はなんだか……いつもと雰囲気が違いますね」
「あ、そう……か?」
少しだけ視線を逸らす朔。
その仕草がどこか照れくさそうで、雫の胸がくすぐったく跳ねる。
雫も、朝から鏡の前をウロウロしていた。
(……派手すぎる? いや、でも……)
何度も着替えて、最終的に選んだ服。
揺れるブラウスの裾に、ほんの少し背中を押してもらうような気持ちで外に出た。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
二人の歩幅が重なる。
静かな町の中に、足音がふたつ。
並んだ肩が、いつもより近くに感じられて、雫はそっと息を吸い込む。
手を伸ばせば届きそうな距離。
そのたった数センチが、どうしようもなくもどかしい。
そう思った瞬間、自分の心の変化にハッとして、でもその想いがどこか嬉しかった。
商店街に入ると、活気が押し寄せてくる。
「朝からすごい活気ですね……!」
思わず漏れた雫の声に、朔がうなずく。
「ここ、仕入れ先のひとつなんです。朝は特にいいものが揃うんで」
鮮魚店の前に差しかかると、朔の目つきがキリッと変わった。
「──今日のアジ、当たりですね。脂が乗ってる」
店主と手際よく会話を交わしながら、アジを一尾すくい上げる。
朔の横顔はすっかり“職人モード”に切り替わっていた。
(わ……かっこいい)
商店街の喧騒のなかで、彼の周りだけ空気が静かに引き締まっていくようで、雫は思わずその姿に見惚れてしまう。
「雫さん、こっち」
「はっ、はいっ」
不意に名前を呼ばれ、やや裏返った声で返事をしてしまう。
朔はアジを指差しながら、ふっと笑う。
「これでまた、アジフライを作りますよ」
「……嬉しいです」
たったそれだけの言葉なのに、嬉しさが込み上げてくる。
好きなものを知っていてくれて、
それを“ちゃんと用意してくれる”って、なんだか反則だ。
さらに通りを進むと、香ばしい味噌や焼きたての卵焼きの甘い匂いが漂ってくる。
「雫さん、ここの焼き椎茸うまいんですよ。試食、どうぞ」
朔が足を止めたのは、年季の入った小さな屋台。
店のおばあさんが笑顔で串焼きを差し出してくれる。
「……いただきます」
タレの香ばしさ、じゅわっと広がる椎茸のうまみ──思わず目が見開く。
「……すごく美味しい。ジューシーで、甘くて……なんか、癖になりそう」
「でしょ。俺、このタレちょっと真似してるんです」
朔が自慢げに笑う。
普段は見せない、無防備な笑顔。
その無邪気さに、雫もふっと笑ってしまった。
──と、その時。
風がふわりと吹き抜けて、手元の紙ナプキンが、ひらりと宙に舞った。
「あっ……!」
「大丈夫、俺が──」
朔がさっと前に出て、ひょいとナプキンを拾う。
「……はい、どうぞ」
「すみません……ありがとうございます」
そっと差し出された指先に、雫の指が触れた。
(あ……)
お互い、一瞬だけ動きを止める。
目が合ったまま、どちらも逸らせない。
それから朔はパッと手を引き、小さく笑った。
「……風、強いですね。気をつけましょう」
「……はい」
笑い合いながら歩き出す二人の肩が、また自然と並ぶ。
けれどその距離感は──さっきより、確実に近くなっていた。
「そろそろ、こっち側の店も見ますか?」
朔が体を傾けて言うと、雫は微笑んでうなずく。
二人並んで歩き出した、その瞬間。
肩と肩が、そっと触れた。
「……」
「……」
どちらも、なぜかそのまま。
見つめ合って、すぐに目をそらす。
その間に流れる、妙にくすぐったい沈黙。
ぽつりと、雫が口を開いた。
「……なんだか、デートみたいですね。市場だけど」
冗談めかして笑う雫の声に、朔が一瞬だけ、歩みを止める。
「……そっか」
「えっ?」
「じゃあ──次はちゃんと、デートらしいところにも、誘ってみようかなって思いました」
「……っ!」
不意打ちのような言葉に、雫は思わず足を止めた。
顔に熱が集まるのが、自分でもわかる。
朔は正面を向いたまま、いたずらっぽく笑う。
「……今のは、ちょっとだけ、仕返しです」
「し、仕返し?」
「“デートみたい”って、意外と破壊力あるんですよ。……知ってて言ったでしょ?」
「し、知らないですっ」
不意を突かれてうろたえる雫の声に、朔がふっと笑う。
並んだ肩から伝わる、優しいぬくもり。
それが、ゆっくりと心に染みていく。
(今日だけじゃなくて……こういう日が、また来たらいいな)
そんなふうに願う自分が、隠しきれなくなりそうで。それが少しだけ、くすぐったくて──嬉しかった。
あなたにおすすめの小説
優しいマッチョ先輩とみたらし
羽月☆
恋愛
マッチョの松田先輩ときれいだけど実は腹黒毒舌の百合先輩。
同期のいない私 鴻島みどりはふたりに仲良くしてもらってます。
会社でも並びの席で、飲み会でもたいてい三人一緒にいて。
優しい松田先輩にはお酒を勧められます。
飲み足りない顔をしてると思います。だって私は飲めるんです!
だけど三杯まで、お外では三杯までって決めてます。
今日も部屋で一人二次会。
だって恋活中の私はあふれる期待を胸に参加した飲み会で・・・まったく意識もされず。
なかなかうまくいかない恋活中の私。
どうしてなんでしょうか?
そんなにダメですか?
長い間掲げていた恋活中の看板、やっと下ろすことが出来ます。
緑のちょっと変な恋愛事情の話です。
仮面夫婦のはずが、エリート専務に子どもごと溺愛されています
小田恒子
恋愛
旧題:私達、(仮面)夫婦です。
*この作品は、アルファポリスエタニティブックスさまより、書籍化されることとなりました。
2022/07/15に本編と雅人編が引き下げとなり、書籍版のレンタルと差し替えとなります。
今井文香(いまいあやか) 31歳。
一児の母でシングルマザー。
そんな私が結婚する事に。
お相手は高宮雅人(たかみやまさと)34歳。
高宮ホールディングスの次男で専務取締役。
「君は対外的には妻であり母である前に、僕とは今後も他人だから」
要は愛のない仮面夫婦を演じろ、と。
私は娘を守る為、彼と結婚する。
連載開始日 2019/05/22
本編完結日 2019/08/10
雅人編連載開始日 2019/08/24
雅人編完結日 2019/10/03
(本編書籍化にあたり、こちらは多大なネタバレがあるため取り下げしております)
史那編開始 2020/01/21
史那編完結日 2020/04/01
2019/08/20ー08/21
ベリーズカフェランキング総合1位、ありがとうございます。
(書籍化に伴い、ベリーズさんのサイトは引き下げた上で削除しております)
作品の無断転載はご遠慮ください。
普通のOLは猛獣使いにはなれない
ピロ子
恋愛
恋人と親友に裏切られ自棄酒中のOL有季子は、バーで偶然出会った猛獣(みたいな男)と意気投合して酔った勢いで彼と一夜を共にしてしまう。
あの日の事は“一夜の過ち”だと思えるようになった頃、自宅へ不法侵入してきた猛獣と再会し、過ちで終われない関係となっていく。
普通のOLとマフィアな男の、体から始まる関係。
メイウッド家の双子の姉妹
柴咲もも
恋愛
シャノンは双子の姉ヴァイオレットと共にこの春社交界にデビューした。美しい姉と違って地味で目立たないシャノンは結婚するつもりなどなかった。それなのに、ある夜、訪れた夜会で見知らぬ男にキスされてしまって…?
※19世紀英国風の世界が舞台のヒストリカル風ロマンス小説(のつもり)です。
不遇な令嬢は次期組長の秘めたる溺愛に絡め取られる。
翼 うみ
恋愛
父の会社を立て直す交換条件のため、ほぼ家族に身売りされた形で関東最大級の極道・桜花組の次期組長に嫁入りしたジェシカ。しかし母を亡くして以降、義母と義妹に虐げられていたジェシカは実家を出られるなら、と前向きだった。夫となる和仁には「君を愛することはない」と冷たく突き放される。それでもジェシカは傷つくことはなく、自分にできることを探して楽しんでいた。
和仁には辛い過去がありそれ故に誰のことも愛さないと決めていたが、純真で健気なジェシカに段々と惹かれてゆき――。
政略結婚から始まる溺愛シンデレラストーリー。
なし崩しの夜
春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。
さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。
彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。
信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。
つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。
Wavering Heart ~ 元同級生は別人級に甘すぎる ~
芙月みひろ
恋愛
ある日のランチで一緒になった男性。苦手だと思っていた彼が、ほとんど話したことのなかった中学の同級生だったことが分かり……