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第25話 届けたのは、言葉じゃなくて
朔と一緒に市場を歩いて、アジ尽くしの昼食を囲んだ日から、数日が過ぎていた。
仕事帰りにふらりとこだまを訪れると、閉店間際だったが、大将は笑顔で「まだいけるぞ」とカウンターの一席を空けてくれた。
「はぁ……しみる……」
揚げたてのアジフライを頬張りながら、雫は思わず心の声を漏らす。
衣はさくっと軽やかで、中はふんわり。タルタルソースと大根おろしを交互につけながら、最後のひと切れまできれいに平らげた。
「……閉店間際にすみません。しかも、すごい勢いで食べちゃって……」
照れたように箸を置く雫に、厨房から朔がふっと笑いかける。
「ゆっくりでいいですよ。その代わり、店はもう閉めますけど。……片付けながら、話し相手になってもらっていいですか?」
「じゃあ“無愛想な店員と話す練習”の続きをしようかな」
くすっと笑う雫に、朔も小さく笑みを返す。
厨房の奥で洗い物をする朔の背中を見ながら、雫は水をちびちび飲んでいた。
「前から思ってたんですけど」
不意に、朔が口を開く。
「雫さんって、包丁の扱いがすごく丁寧で、段取りも悪くない。昔から料理、してたんですか?」
「……ああ、それは……」
雫は少し目線を泳がせながら、口を開いた。
「昔はけっこう好きで、よく作ってました。凝った料理も、楽しかったんです」
その時、朔の脳裏には、彼女が昔婚約していたという話がよぎる。
「でも、婚約してた人に手料理を出したら『好みじゃない』って言われて」
朔の手が止まった。
「“料理はしなくていい”って。外食とか、テイクアウトで済ませようって。……それ以来、作る気がどんどん薄れちゃって」
雫は微笑んでいた。
しかし、その笑みの奥にあるかすかな痛みに、朔は気づいた。
「今思えば、料理の問題じゃなかったんだと思います。自分の価値が、全部否定されたみたいで……」
「……最低な男ですね」
朔の低く抑えた声に、雫は少しだけ目を見開いて、ふっと笑った。
「今なら思えます。っていうか、言ってやりたいですよ。“味覚の幅、狭っ”って」
「それ、俺からも言いたい」
やや怒りを滲ませた朔のトーンに、雫はまた小さく笑う。
「それ以来、料理からはずっと遠ざかってて。ひとりだし、忙しいし……って、言い訳ばっかりして」
朔は雫の言葉に耳を傾ける。
「でも、偶然こだまを見つけて。外観も、暖簾も、どこか懐かしくて、素敵で……ふらっと入ってみたんです」
「そしたら、お料理もすごく美味しくて……」
雫は少しおどけて言った。
「なにより素敵な大将に、一目惚れしちゃいました」
朔はわざと大げさにため息をつく。
「……途中までいい話だったんですけどね。その“大将”って、まさか親父のことじゃないですよね」
「ふふっ。……料理にも、一目惚れしました」
「……なら許します」
ちょっとだけ拗ねたような、でも安心したような声は、どこか柔らかかった。
けれど、その笑いもすぐに静まり返る。
店内には、洗い物の水音だけが響いていた。
朔は洗い物の手を止め、まな板に触れたまま、ぽつりとつぶやく。
「……雫さん。無理、してないですか?」
「え……?」
「さっきの話。もう大丈夫そうに笑ってたけど……まだ、どこか引きずってるんじゃないかなって」
雫は、一瞬だけ目を伏せた。
「……そう、見えちゃいましたか?なんか、恥ずかしいな」
「恥ずかしがることじゃないです。人ってそんなに、すぐには割り切れないですし」
その言葉は、どこまでも静かで、優しかった。
張りつめていた心の糸に、そっと触れてくる。
「無理して笑わなくていいですよ。辛いときは、ちゃんと……頼ってください」
まっすぐで、誤魔化しのない声。
胸の奥に、じんと沁みてくる。
「俺は、雫さんが笑ってくれるだけで、十分なんで」
ふと、空気が止まったような気がした。
「……朔さん、ずるいですね」
かすかに震えた声。雫が俯いたその目元に、涙がにじんでいた。
ぐしゃぐしゃに泣くでもなく、声を上げるでもなく。
ただ、頬を伝い、ぽろりとこぼれ落ちた一粒の涙。
「……泣くつもりなんて、なかったのに」
そっと袖で拭いながら、雫は照れたように笑う。
「ごめんなさい。なんか、いろいろ思い出しちゃって……」
その笑顔が痛々しくて、朔は無言のまま、棚から清潔な布巾を一枚取り出した。
そして、雫の隣に静かに腰を下ろすと──
「……顔、上げてください」
タオルをそっと頬にあてる。
優しく、撫でるような動作。
どこまでも、彼らしかった。
そのぬくもりが、まっすぐ心に届いて、雫は目を伏せたまま、声を震わせる。
「……こんなに優しくされたら、困ります」
朔は何も言わずに、タオルを静かに置いた。
そして、迷いのない手つきで、雫の肩をそっと引き寄せる。
「……っ」
驚いて顔を上げるより早く、彼の胸が、すぐそこにある。
触れ合うほど近い距離に、雫の胸が大きく跳ねる。
「今は……無理に頑張らなくていいですよ」
低く落ち着いた声が、静かな夜に溶けていく。
「泣きたいときは、泣いていい。何も言わなくていい。……俺が、そばにいますから」
雫は、気づけばそっと朔の胸に額を預けていた。
(……どうして、こんなにあったかいんだろう)
体温も、鼓動も、安心感も。
全部が心地よくて、思わず力が抜ける。
──まるで、最初からそこに居場所があったみたいに。
朔は、雫の頭に優しく手を添えた。
そのぬくもりが、どこまでも深く、心に届いてくる。
「雫さん」
「……はい」
「俺、ちゃんと分かってますから。……雫さんが、どれだけ頑張ってるか」
朔は心の奥底で、静かに、強く誓っていた。
(……もう二度と。この人を、一人で泣かせたりしない)
優しさの言葉ではない。
それは、彼女だけに向けた、彼自身の“覚悟”だった。
*
翌朝、雫が出勤前の支度をしていた時だった。
ピンポーン、とインターフォンが鳴る。
朝の光が差し込む玄関先。
そこに立っていたのは、朔だった。
予想外の来訪者に、雫は目を丸くする。
淡い陽射しを背に、エプロン姿のまま片手に包みを提げた彼は、少しだけ照れくさそうに目を伏せる。
「……朝飯、食ってなかったら。これ」
そう言って差し出されたのは、だし巻き卵ときんぴら、小さなおにぎりが入った、手作りのお弁当。
「え……これ、わざわざ……」
驚いたように手を伸ばしながら、雫は自然と笑っていた。
「ありがとう……すごく、嬉しいです」
受け取った包みから、かすかに出汁のいい香りがした。
朔は何も言わず、「じゃあ」とだけ短く言って、くるりと背を向ける。
──でも、黙ってその背を見送るには、何かが足りなかった。
雫は思わず声をかける。
「朔さん」
振り返った彼に、まっすぐ言葉を向けた。
「昨日は……ありがとうございました。本当に」
「……別に。大したことはなにもしてませんよ」
それでも朔の声は、どこか優しくて。
雫はそっと、その顔を見つめる。
「でも……泣いてる私を、何も言わずに受け止めてくれたでしょう」
「……」
「なんだか、あの瞬間……ちゃんと、自分でいられた気がしたんです」
そう言いながら、自分の声がわずかに震えていることに気づいた。
「……あんな泣き方して、恥ずかしかったけど」
すると朔は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「泣くのって、悪いことじゃないですし。……俺は、雫さんが素直でいてくれる方がいい」
その言葉に、息を呑む。
「無理して笑うより……ちゃんと、見せてほしい。そういうのも」
まっすぐで、でも決して押しつけがましくないその言葉に、雫の胸がじわりと熱くなる。
「……しっかり食べてください。あんまり食べてないと、気になるんで」
最後にそう付け足した朔の声が、優しさと照れくささを帯びていて。
胸に染みこむように、そっと残った。
(ちゃんと、見てくれてる……)
涙がこぼれそうになるのを、なんとかこらえる。
そして、胸の奥にある気持ちを、そっと確かめるように思った。
(……やっぱり、この人が、好き)
それは、ただの“恋”じゃない。
自分が、自分でいていいと感じられる、そんな居場所みたいなものだった。
だけど――
その温もりに、触れれば触れるほど、怖くなる自分もいた。
また傷つくのが怖くて、手を伸ばすことさえ、まだできずにいた。
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