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第26話 隣にいてほしい
土曜朝の「こだま」には、出汁の香りと心地よい湯気がゆらいでいる。
「……これ、ちょっと味見、お願いできますか」
厨房から声をかけてきた朔に、雫はカウンター越しに顔を上げた。
「もちろん。任せてください! 今日は料理教室の生徒じゃなくて、味見係ですから」
差し出された器には、アジのなめろうに新たな香味野菜が添えられていた。
早速口に運ぶと、思わず表情がほころぶ。
「……わぁ、これ、すごく美味しい……。香りが爽なのに、コクもちゃんとある……」
「良かったっす。ちょっと薬味変えてみたんですけど」
「正解です。それにしても、休日の朝からこんなに美味しいご飯を食べられるなんて、本当に幸せ……」
素直な言葉に、朔はふっと笑った。
「……雫さんって、本当に、食べてる時はいい顔しますよね」
「えっ……今、褒められました?」
少し照れたように笑いながら、雫が箸を置く。
「朔さんも最近、だいぶ雰囲気が柔らかくなりましたよね。……もしかして私、味見係だけじゃなくて、“接客の練習相手”まで兼任してたりして?」
いたずらっぽく笑う雫に、朔は軽く眉を上げて返す。
「……だったら、俺の成長に、ちゃんと責任とってくださいね」
「え、責任って……?」
「毎週味見だけじゃなくて、もっと色々協力してもらいます。接客の練習相手とか、暇な時の話し相手とか……できれば、長期契約で」
「それ……完全に、ブラックバイトじゃないですか」
それは他愛のないやりとりだったけれど、どこか特別で。
やがて時計の針が開店時間に近づく頃、朔は厨房へと戻り、準備を始める。
雫もタイミングを見て、そっと腰を上げた。
「じゃあ、私はそろそろ……」
雫がそう言いかけたそのとき。
朔の手が、一瞬止まった。
カウンターを挟んで立つ彼女との距離は、ほんの数歩。
手を伸ばせば、届く距離。
(……今、言わなかったら。きっと──言えなくなる)
心の中で、何度も繰り返した言葉。
それでも、実際に声に出す瞬間は──怖かった。
だけど、もう目をそらさない。
「……雫さん、少し……いいですか」
朔の落ち着いた声が、静まり返った空気を震わせる。
雫が顔を上げたその先に──
朔が、まっすぐこちらを見ていた。
緊張をたたえた眼差し。
こんな顔は初めて見る。
胸の奥が、何かに触れたようにきゅっとなる。
朔はカウンターを回り込み、ゆっくりと歩み寄る。
雫の目の前で立ち止まり、一度、深く息を吸い込んだ。
「……ずっと、考えてたんです。けど……どう言えばいいのか分からなくて」
言葉を探すように、一瞬だけ視線が揺れる。
けれどすぐに、またまっすぐ雫を見つめ返す。
「……この前、雫さんが泣いたのを見て、俺、怖くなったんです」
静かで、でもどこか震えているような声。
その一言が、雫の胸の奥にすっと入り込む。
「どうしようもなく苦しくて。……あんな顔、二度と見たくないって、本気で思ったんです」
言葉の一つ一つが、真っ直ぐに届いてくる。
まるで想いの深さそのままに。
「俺は不器用で、うまく言えないことばっかりだし、余裕もない。でも……」
「……それでも、雫さんを守りたいと思った。誰よりも近くで、笑っていてほしいと思ったんです」
ドクン、ドクン、と心臓が鳴る。
手のひらが汗ばむのを感じながら、じっと彼を見つめ返す。
「……俺の隣にいてほしい。雫さんと一緒に、生きていきたい」
朔は、そっと手を伸ばしてくる。
彼の指先が、雫の手にふれた瞬間──
まっすぐで、迷いのない、ぬくもりを感じた。
「……好きです。雫さん」
その声の強さに、思わず目の奥が熱くなった。
「朔……さん……」
雫は、震える指でそっと彼の手を握り返す。
こんなにもあたたかくて、優しくて、それだけで涙が出そうになる。
(……こんな、まっすぐな想い……いつぶりだろう)
心の奥が嬉しくて、苦しくて、いっぱいになる。
だけどそのとき、不意に胸の奥がチクリと痛む。
一歩を踏み出そうとする心を、何かが静かに引き留めた。
「……朔さんのこと、好きなのに」
雫の声は、ほんのわずかに震えていた。
「こんなふうに言ってもらえて、すごく、すごく嬉しいのに……」
──それでも
「……ごめんなさい。今……すぐには返事ができません」
それでも、彼の手だけはどうしても離せなかった。
「……怖いんです。誰かと深く関わるのが。また傷ついて、自分を見失うのが、どうしても怖くて」
声を震わせながら絞り出すと、ぽろりと涙が落ちた。
朔は、静かに頷いた。
その瞳に、責める色はひとつもなかった。
「……分かってます。無理に急がせたくない。雫さんが自分の気持ちにちゃんと向き合えるまで、待ちます」
朔の手が、もう一度そっと雫の手を包む。
「でも……俺は、引きませんよ」
驚いて顔を上げると、朔はまっすぐに見つめ返してきた。
「これからも、想いを伝え続けます。何度でも。雫さんが、俺の隣にいる未来が“当たり前”になるまで」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
自分を守るために固めていた氷が、音もなく、ゆっくりと溶けていくようだった。
「……ありがとうございます」
そっと重なる二人の手。
カウンターの灯りが、その小さな距離を照らしていた。
そして二人の影は──静かに寄り添っていく。
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