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第28話 その手に触れて
穏やかな午後の風が、髪をふわりと揺らす。
雫はカフェの窓際の席で、温かい紅茶を手にしながら、目の前のカップの中を見つめた。
(最近の私……変わった気がする)
自分でも気づいてしまうくらい、前とは違う気持ちが芽生えていた。
こだまに通って、朔さんと話すようになって——
たくさん笑って、優しさに触れて。
張りつめていた心が、いつの間にかほぐれていた。
(朔さんに「好き」って言われたとき……嬉しかったな)
あの時の熱が、胸の奥にふわりと広がる。
ちゃんと返事もできなかったくせに、その想いだけは、ずっと消えなかった。
(逃げてばかりじゃ、何も変わらない)
誰かに心を向けることが、こんなにもあたたかいと知ったから。
そして——
(私は、朔さんの隣にいたい)
その想いが胸の奥にすとんと落ちた瞬間、自然と息が深くなる。
まだ少し怖い。けれど、今なら向き合える気がする。
——言わなきゃ。今日こそ、ちゃんと。
雫はカップをそっとテーブルに置いて、立ち上がった。
深呼吸をひとつ。
これまでの自分に、静かにさよならを告げて、一歩踏み出す。
彼のもとへ、自分の意志で——
カフェのドアを開けて、陽射しの中に出たその時。
「……雫?」
背後から聞こえた低い声に、空気が変わる。
(……この声)
まるで何かに捕らえられたかのように、足が止まった。
振り返ると——そこに立っていたのは、忘れようとしていた過去だった。
(……嘘)
元婚約者が、いた。
隣には知らない女性。けれど、彼の視線は雫にまっすぐ向いている。
口元には、あの頃と同じような笑みが浮かんでいた。
「驚いた。まさか、また会うとはな。元気そうで何より。……俺がいなくなって、かえって幸せそうだ」
ぞわりと、背筋を冷たいものが這い上がる。
「連絡もなく消えるなんて。冷たいよな、雫は」
嫌な声が、耳に絡みつく。
「……何の用ですか」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
男は皮肉げに目を細め、意地悪そうに笑う。
「ただ、会えて嬉しくてさ。元気そうな顔、見れて安心したよ」
(やめて……やめて……)
逃げなきゃ。
でも、足が動かない。
声も、出ない。
「ほら、前みたいにさ——」
その時だった——。
「……おい」
低く、静かな声が届いた。
氷のような空気に、熱が差し込む。
振り返ると、そこには朔がいた。
片手にクーラーボックスを持ち、険しい表情のまま立っている。
その視線は、雫を通り越して、元婚約者に向いていた。
「お前、この間も……」
男が眉をひそめて睨んだ瞬間、
朔は静かに一歩前に出る。
無言のまま、雫をその背中で庇った。
「こいつは、あんたとは関係ないだろ」
普段の朔からは想像もできない、鋭さがそこにあった。
「二度と、近寄るな」
その一言に、空気がピリつく。
男が、わずかにたじろいだのがわかった。
「……何だよ。お前、そんなこと言える立場なのか?」
——その言葉が、引き金だった。
雫の中で何かがはじけた。
(逃げちゃダメ……私は、前に進むって決めたんだから)
雫は息を吸い、朔の背中からそっと前へ出る。
そして、彼の隣に並んで立った。
まっすぐ男を見据えて、言葉を吐き出す。
「……この人は、私の恋人です」
一瞬、時間が止まった。
隣で朔がわずかに目を見開いた気がしたけれど、雫は男から視線を逸らさない。
「私はあなたとは、もう何の関係もありません。これから先も。だから——構わないでください」
きっぱりと放たれた言葉に、男の顔が引きつる。
朔が、視線だけで男を射抜くように睨みつけ、低く言い放った。
「……聞こえただろ」
その声には静かな怒気が滲み、男が息を呑んだのが分かった。
何かを言い返そうとしたが、結局は口を噤む。
隣の女性の腕を引いて、足早にその場を離れていった。
気づけば、街の喧騒すら遠のいたような静けさがあった。
朔がそっと手を伸ばし、雫の肩に触れる。
「……大丈夫か?」
その一言に、張りつめていた心の糸が、ふっとほどけた。
「……っ、朔さん……」
堪えていた想いがあふれそうになる。
顔を伏せた雫に、朔は何も言わず、静かにその胸を差し出した。
あたたかくて、守ってくれて、
ただ黙って、受け止めてくれる場所。
「……間に合ってよかった」
かすれた声が、頭の上で小さく落ちた。
「雫さん、トラブルに巻き込まれすぎ」
朔が苦笑する。その声音は、いつもの彼に戻っていた。
「朔さんこそ、どうしてここに?」
「夜営業の前に買い出ししてて。店に戻る途中で、通りの反対側から雫さんを見かけて」
少しだけ息をついてから、言葉をつなぐ。
「最初は、誰かと話してるだけかと思った。でも……顔見て、あの男だって分かった時は……正直、焦った」
雫はそっと笑う。
「でも、ようやく終わりました。朔さんが来てくれたから……ちゃんと、終わりにできた」
顔を上げると、朔は変わらずまっすぐな瞳で見つめ返してくれていた。
「……この後、時間あるか?」
その問いに、雫は迷わず頷く。
「はい。こだまに寄ってもいいですか?ちゃんと……話したいことがあるんです」
朔は目を細めて、そっと微笑む。
「……ああ」
そう言って、雫の手をやわらかく取った。
拒む理由も、ためらう理由も、何一つない。
ただ自然に、指先が重なる。
繋がれた手は、どこまでも優しくて、頼もしい。
少し前まで、過去に囚われていたはずなのに——
今はもう、視線の先には未来しか見えなかった。
(……ちゃんと、伝えたい)
朔さんに出会って、救われたこと。
一緒に過ごすうちに、少しずつ変わっていった自分のこと。
そして何より——
心の奥に芽生えた、この想いを。
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