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第30話 ずっと、隣にいて
恋人になった朔さんは思っていた以上に、甘かった。
相変わらずぶっきらぼうで、無愛想だけど、時々照れ隠しみたいに舌打ちをする。
それに、こんなにも柔らかな愛情を隠していたなんて、雫は知らなかった。
店に顔を出せば、厨房の奥からさりげなくカウンター席にやってくる。
料理教室でも、包丁を握る手を覗き込まれるたび、背中越しに彼の体温がじりじり近づいてきて──
……たぶん、無意識。
それが余計にずるい。
*
その日も、朔の部屋で料理本を一緒に眺めていた。
ページをめくろうとした瞬間、背後からふわりと腕が回される。
「……朔さん?」
朔の顎が、肩に落ちた。
首筋をなぞるような息が、柔らかくて、くすぐったい。
反射的に振り返る。
「どうしたの……?」
「ん」
何事もない顔で本を覗き込むくせに、耳がほんのり赤い。
「このソース、美味そうだな。今度、雫さんに作ってやる」
さらっと、そんなことを言いながら、腰まで引き寄せられる。
(なにこの朔さん。誰……?)
こんな甘え方する人なんて、聞いてない。
顔が熱くなるのを必死で隠しながら、ぽつりとこぼす。
「……そういうの、反則です」
「普通だろ?」
耳元に落ちた声が、じんわりと肌を這う。
(……全然、普通じゃないですから)
どこまで分かってやってるんだろう、この人。
「朔さん、わざとでしょ」
「さあ?」
肩に乗った顎が、ちょっとだけ重たくなった。
彼が微笑んでいるのが、背中越しに伝わってくる。
(ずるい。ずるいけど……)
でも、こうして“私だけが知ってる朔さん”に触れられることが、たまらなく嬉しい。
胸の奥が、甘く、じんわりと満たされていく。
別の日の夜。
朔の部屋で、映画を観ていた。
部屋の灯りは落としてあって、
スクリーンの淡い光が、二人を照らしている。
静かなBGMと、二人分の吐息だけが流れる中――
ふと、彼の頭がそっと雫の肩に触れた。
「……寝てる?」
小さく問いかけた瞬間。
大きな手が、そっと雫の手に重なる。
指と指を、丁寧に絡めるように。
(……かわいい)
普段はあんなに男らしいのに、ずるい。
ほんと、ずるい。
そんなことを思っていたら──
「……雫さん」
低くかすれた声が、空気を震わせる。
朔はスクリーンに視線を向けたまま、ぽつりとつぶやく。
「俺、こんなにひっついて……重くないか?」
「え?」
意外すぎて、思わず聞き返す。
「それは、物理的にってこと?」
クスクス笑いながら聞き返すと「ちげぇ」と返ってくる。
「俺の、こういうとこ。……嫌じゃないか?」
その横顔には、不安と戸惑い。
どこか子どもみたいな影を宿していて、
思わず胸が、きゅっとなる。
雫はそっと、朔の手を握り返す。
「私ね、こんなふうに大切にされたこと、なかったの」
喉の奥が熱くなる。
それでも、気持ちを伝えたくて。
「だから全然、重くなんかない。……むしろ、すごく嬉しい。……幸せです」
その瞬間。
朔の肩が、すこしだけ震えた。
まるで、その一言を、ずっと待っていたみたいに。
「……そっか」
息のように声が漏れたあと、朔は何も言わずに、雫を抱きしめた。
その腕は、深くて、あたたかくて、優しくて。
何もかも、包み込むようで――もう、何も怖くない。
(……好き。こんなにも、大好き)
耳元に、彼の心音が、優しく響く。
しばらくそのまま、何も言わず、抱き合っていた。
そして──
「……ずっと、俺の隣にいてほしい、雫さん」
ぽつんと落ちたその言葉が、心の奥に届いて、ゆっくり溶けていく。
雫は、そっと頷いた。
「……はい」
たった一言なのに、
胸の奥に、じわりと熱が広がっていく。
朔の腕の中で、静かにまばたきをする。
少し顔を上げると、彼も同じように雫を見ていて――
「……あの、朔さん」
「ん?」
「そろそろ、手を離してくれないと……私、たぶん溶けます」
「……?」
朔がきょとんとした顔をするので、
雫は頬を赤くしながら、小さく言い足す。
「だって……こんなにくっつかれてたら、呼吸できなくなるくらい、ドキドキしてるんですけど……」
一瞬の静寂。
そのあと、ふっと朔の口元がゆるんだ。
「じゃあ、人工呼吸の準備しとくか」
「ばっ……! やめてくださいっ、そういうの心臓に悪い!」
「いや、そっちが“溶ける”とか言うから……」
「そういう返し、ズルいですってば……」
朔はくすっと笑って、今度はおでこにそっとキスをくれた。
「かわいすぎて、油断すると食べそうになる」
「……たまご料理じゃないんですけど?」
「たまご料理なんて比じゃないくらい、好き」
……やっぱり、ズルい。
(……付き合い始めって、こんなに毎日キュンキュンするんだっけ)
気づけばまた、雫の心臓は全力疾走していた。
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