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第三十五話 誰がために君は笑う
しおりを挟むわたしは私生活の不安を忘れるために仕事へ打ち込んだ。
昨日の夜のことはお互いに触れないことにしたようで、アルは何も言わなかった。
「じゃあそういうことで。あとは頼んだよ」
「えぇ。お任せください」
──だけどわたしたちの距離は、どこかぎこちない。
たった一つ歯車が噛み合わなかっただけでこうなるなんて。
確かにわたしは恋愛初心者だけど……ここまで自分が恋愛下手なんて思わなかった。
(でもあれは、アルが……今日も、夜に出かけて……)
確かに色街の店に入っていくのが見えたから。
そしてアルも本当のことを言ってくれなかった。
「お嬢様、旦那様と何かあったんですか?」
「え?」
使用人たちもわたしたちの変化を如実に感じ取っているようだった。
シェンが不安そうに聞いてくる。
「だって、いつもならもう少し楽しそうなのに、今日は……」
「……ううん、なんでもない」
わたしは微笑んだ。
「ほら、男女なら良くあるやつよ。ちょっとしたことなの」
「……そうですか」
シェンはそう頷いて、
「私はいつでもお嬢様の味方ですからね」
「……えぇ、ありがとう。シェン」
本当にわたしは良い侍従を持ったと思う。
シェンが居なかったらわたしなんてとっくに折れていたもの。
「それにしても……はぁ」
いつもなら喜んで取り掛かる書類仕事の山。
あっという間になくなるのが常だけど、細かいミスを連発して一向に進まなかった。王妃様との面談のことも考えなきゃいけないのに、思考は泥沼にハマって動けない。
「このまま、終わっちゃうのかな……」
オルロー公爵領の経営は黒字回復している。
数年先を見据えればまだまだ打たなきゃいけない手はあるけれど……。
逆に言えば、数年はわたしが居なくても大丈夫なようになって来た。
(いつ婚約解消になってもいいように、準備をしとかないと)
経営が上向きになってからはわたしも給金を貰っている。
公爵夫人のお小遣いとしては申し分ないほどだ。
まったく使っていないから、平民としても三年は働かず生活できる金額になっている。
そうだ。元から望み薄な話だったじゃないか。
アルが想像以上に良い人だったから、ちょっとは幸せになれたけど。
元はと言えば借金のカタに実家に売り飛ばされたのがわたしだったはずだ。
だから、これは元からなかったこと。
今までアルと一緒に仕事してきたことも。
彼とデートしたことも、彼が告白してくれたことも。
全部、なかったことで。
「………………やだ」
あれ?
わたし、何言ってるの……?
「こんな終わり方……いやよ……」
心と言葉が一致しない。
頭では自分を諦めているのに、心は正直だった。
「わたし、まだアルと一緒に居たい……!」
そう、そうだ。こんな終わり方、嫌だ。
だって、アルが告白してくれたのは昨日なのよ?
ようやくわたしも幸せになれるのかな、なんて期待して。
その翌日に諦めるなんて早すぎる。わたしはそんなに軽い女じゃない。
アルが勇気を出して言ってくれた言葉。
あれに嘘はなかった。わたしの心にまっすぐ届いたのだ。
「アルは、他の人とは違う。話せば、分かってくれる」
外から嘶き声が聞こえて、わたしはドレスの裾を摘まんで執務室から飛び出した。いつの間にか夜も深くなっている。こんな時間に帰ってくる旦那様なんて嫌だ。
どうせ終わるなら、言いたいこと全部言おう。
全部ぶつけて、それで……諦めるのは、いつでも出来る。
「アル!」
「ベティ?」
わたしが玄関に行くと、アルは目を丸くした。
「そんなに急いでどうしたんだい?」
「今日はどちらに行かれていたんですか!?」
「え? えっと……」
アルの目が泳いだ。嘘の予兆。
「わたし、昨日の夜にアルが色街の店に入っていくのを見たんです」
「え」
アルは目を見開いた。
わたしがじっと見つめると、それだけで色々と悟ってくれたようだった。
「アルだって男なんですからそういう衝動があるのは分かります、でも、」
わたしはまくし立てる。
アルはおもむろに膝を突き、頭を地面にこすり付けた。
「──誤解を招くようなことをしてごめんなさい」
「でも、それでもプロポーズしたその日のそういうのは」
わたしは言葉を途切れさせた。
そしてアルの後頭部をじっと見つめ、呟く。
「…………………………………………………………誤解?」
「うん、誤解。いや、誤解でもないか……そう思われても仕方ない」
アルは頭を上げて正座した。
「色街のお店に入ったことは認める。でもそれ以上は決してない。友人と会っていたというのも本当なんだ……その、訳アリの人でね。王妃様への攻め口を探すために、その人に会っていた」
「……どうして、それをわたしに言わなかったんですか?」
「君に内緒にすることが、その人との約束だったから」
「……? 犯罪者な人ですか?」
「ある意味そう。今なお、重罪を犯してる」
良く分からないけれど、ここですぐに分かる嘘をつくアルではない。
色街のお店で聞けば分かることだし、アルの目は嘘を言っていない。
後ろ暗い事情のある人間が色街の店で会談に臨むことはままあることだし……。
「じゃあ、本当に」
誤解。
それが分かった途端、わたしは膝から崩れ落ちた。
「ベティ!?」
「わ、わたし……アルが、その、浮気みたいなこと、したのかと」
「プロポーズしたその日に娼婦と寝るってどんだけクズなの?」
「そう、ですよね。アルはそんなことしないですよね……」
「そうだよ。僕、そんなに信用なかった? ちょっと傷つくな」
「あ、いや、だってアルが誤解させるようなことするから!」
わたしは慌てて言い訳するけどアルを信じきれなかったのは事実だ。
ばつが悪くなって裾を握っていると、彼は「いや」と首を振って、
「君の言う通りだ。今回のは僕が百パーセント悪い」
「……そう、ですよ。わたしだって女ですから。そういうのに敏感なんですよ?」
ここは全力で開き直ろう。うん、アルには反省してほしい。
「わたし、傷つきました。慰謝料を要求します」
「そうだね……じゃあ、こういうのはどうかな」
その時、使用人の一人が玄関からトランクを持ってきた。
わたしが首を傾げると、アルはトランクを受け取って中を見せてくれる。
あ。
嘘、これって。
「わたしの……お母様のドレス……?」
「うん。探すのに苦労したよ」
深い蒼と刺繍が特徴的な、美しいマーメイドドレスだ。
随所にあしらわれた宝石はちょっと減っている気もするけれど、間違いなく。
「その人と会っていたのは、これを売り渡してもらうためでもあったんだ」
「……っ」
あぁ、だめだ。涙がこぼれてくる。
──わたし、こんな人を疑っていたの?
アルはわたしが大切にしていた物を、隠れて取り返そうとしてくれたのに。
王妃様と対抗するために色街のお店で犯罪者まがいの人と話してくれたのに。
誤解を与えるような真似だったことは本当だけど、それでも。
「ごめんなさい……アル。わたし、疑ってごめんなさい……」
勝手に不安になって。
勝手に気落ちして。
「その件は僕に非があるから、君は本当に謝らなくていい。その代わり……」
それでもアルは、
「ねぇベティ。笑って?」
「……っ」
「僕は君の笑顔が大好きなんだ」
涙があふれて止まらなかった。
いつかは逃げ出したけど。わたしはたまらず、アルの胸に飛び込んでいた。
アルを見上げて、微笑む。
「ありがとう、アル」
「どういたしまして。慰謝料はこれで十分……かな?」
「……まだ足りません。ぎゅってしてください」
「いや、ベティ。ここ玄関……」
「……だめ、ですか?」
真夜中だし、ジキルさん以外の使用人たちは別棟で寝静まっている。
誰も居ないことをいいことに上目遣いで要求するわたしに、アルは目を逸らした。
「ベティ。いちおう僕も男なんだけど」
「はぁ。知っていますけど?」
「うぅん。僕の妻が可愛すぎて怖い……」
アルは困ったように笑いながら、わたしを抱きしめてくれた。
ふくよかなお腹は、抱き枕みたいで温かかった。
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