異種間交際フィロソフィア

小桜けい

文字の大きさ
上 下
16 / 27
本編

16 凶暴回帰の満月夜

しおりを挟む
「行くぞ、さっさと立て」

 エメリナの上から退き、ジークが轟然と促す。もう勝手に協力を決め付けているようだ。
 腹立たしかったが、ぶつけた頭をさすりながら、しぶしぶ起き上がる。
 床でもがいたせいで、衣服はグシャグシャだった。すっかりめくれ上がっていたスカートを慌てて降ろし、千切れかけているブラウスのボタンを、急いではめる。

「変な心配すんな。クスリと婦女暴行だけは未経験だ」

「あれだけ鮮やかに縛り上げた人が言っても、説得力ないわね」

「信じろとは言わないさ。まともな人生送らなかったのは確かだからな。ああ、これは預かっておく」

 ジークは気にするようでもなく、悠々とエメリナのバッグからスマホを取り上げた。
 そして……

「――絶対いや」

 エメリナはしかめっ面で拒否した。
 記念公園までの道中、逃げ出さないよう、手を繋げと命じられたのだ。

「そーかよ。じゃ、手錠と魔獣用ロープのどっちがお好みだ?好きな方で連行してやる」

 ジークがベルトに下げたその二つを見せた。エメリナはしかめっ面をさらにひきつらせる。
 冗談じゃない。
 退魔士に強制捜査されただけでも危ないのに、手錠で連行される姿なんか晒されたら、間違いなくアパートを追い出される。

「……せめて手袋をさせて」

 口を尖らせて妥協案を提示すと、ジークが思いっきり眉間に皺をよせた。

「お前は相当に失礼だな。俺はバイキンかよ」

 いっそう人相が悪くなった退魔士へ、フンと鼻を鳴らす。
 少しでも時間稼ぎをする口実だが、炊事用ゴム手袋でもしたいのは本音だ。ギルベルトをゴキや蚊に例える奴など、大腸菌に等しい。

「確かクローゼットの奥に……」

 さりげなく離れようとしたが、問答無用で片手首を掴まれた。

「肝が座ってるとこだけは、認めてやるよ。だがな、これ以上グダグダ言うな」

 部屋の壁際に、見慣れない黒いケースが立てかけられていると思ったら、やはりジークのものだったらしい。
 傍若無人な退魔士はケースの紐を肩にかけ、エメリナを引き摺るようにして、さっさと玄関の扉をあける。

「まぁまぁ!退魔士さん、どうでした!?」

 扉を開けた瞬間、鶏のような声がけたたましく響いた。戸口の正面に、一階にすむ大家のおばさんが立ちはだかっていたのだ。

「わわっ、大家さんっ!?」

 噂好きの大家は好奇心で身をのりだしつつ、エメリナへ批判満載の視線を向ける。

「うちはペット禁止よ!それなのに貴女、とんでもない魔獣を飼っているそうじゃないの。事と次第によっては……」

「い、いいえ!誤解です!同姓同名の人違いだったんです!そうですよね!?ね!?」

 大家から見えないよう、ジークをを肘で小突く。
 ジークはエメリナをチロッと見下ろし、非常に嫌な薄笑いを浮かべたが、すぐ表情を改め片手で敬礼した。ポケットから合鍵を取り出し、大家に差し出す。

「とりあえず、部屋にはいませんでした。ご協力感謝します」

 見た目通りの極悪人のくせに、そういう仕草をすれば、一応きちんとした退魔士に見えるのだから不思議だ。妙なところに感心してしまった。

「あらそう……」

 ジロジロと、まだ大家は疑わしげに眼を光らせている。

「どうして退魔士さんに連行されるのかしら?まさか本当は、もっと深刻な……」

「いえいえいえっ!連行じゃありませんよ!仲よくお出かけです!ほらっ!」

 必死で否定し、繋いだ手を振り上げて見せた。

「まぁ、退魔士さんは、お仕事中なのに?」

 ジリジリとしつこく追及する大家は、鼻がくっつきそうなほどエメリナに詰め寄る。

「あ、あの、もうお仕事は、これで終わりだそうで……」

 必死にいい訳するエメリナを、ジークが意地の悪いニマニマ顔で眺め降ろしている。
 いっそのこと、この退魔士こそ非道で下種な悪党ですと、この場で言ってやりたい。
 しかしそうなれば、ギルベルトが人狼であることも暴露されてしまうだろう。

「ほら、今日は満月祭で賑やかじゃないですか!私もちょうどヒマだったし、これも何かの縁だから、ご一緒しようかって……さ、行きましょうか!」

 今度はエメリナがジークを引っ張り、そそくさと歩き出す。

「く、くく……ま、そういうことで。んじゃ、失礼します」

 遠ざかる二人を、大家はあんぐりと口をあけて見送っている。

「まったく、最近の若い人は……」と、不服そうな声を後に、大急ぎでアパートの階段を駆け下りた。

「はぁ~……危なかった……」

 表通りに出たエメリナは、深い溜め息をつく。ついでに手を振り払おうとしたが、無理だった。
 ガッチリ手を掴むジークを見上げ、思い切り睨んだ。

「アパート追い出されたらどうしてくれるの。貴方のせいよ」

「知るか。自業自得だろ」

 極悪人は、ニヤニヤと意地悪く笑う。

「手錠で連行されてたら、あんな言い訳も出来なかったんだぜ? むしろ感謝の一つも欲しいとこだ」

「くっ……」

 唇を噛むエメリナを引っ張り、ジークはズカズカ大股で歩きだす。
 アパート前の大通りは、まだまだ賑やかな時間だった。ライトを光らせた車が列を成し、歩道にも大勢の人々が歩いている。
 それでも今夜は、一際輝く満月を楽しもうと、部屋を暗くしている建物が多かった。

 夜の通りを行き交う人々は、心なしかいつもよりカップルが多いようだ。
 歩道のあちこちに設置されたベンチで、恋人たちが夜空の大きな月を見上げ、楽しそうに寄り添っている。素知らぬ顔で通りすぎる者も、楽しげな恋人達に、羨ましげな視線を向ける者もいた。
 しかし、眉間に深い深い立て皺を寄せるエメリナと、その隣りを歩いているジークに向けられるのは、羨望ではなく好奇と非難めいた視線ばかりだった。
 人通りの中でも、長身で悪人面のジークはただでさえ目立つ。
 そのうえ退魔士の制服を着た彼が、どうみても一般市民の女と、しっかり手を繋いで歩いているのだ。

(ったく、退魔士が勤務サボってデートかよ)

(満月祭だからって、彼女がねだったんじゃない?)

(ああ、仕事と私どっちをとるの?ってやつか)

(いるいる、そういう女って!)

 そんなヒソヒソ声が、背中に突き刺さる。
 ――実際は、単にジークがもの凄い握力でエメリナの手を捕らえているだけなのだが、傍からは仲よく手を繋いでいるように見えるらしい。

「……止めたほうが良いんじゃない?すでにメチャクチャ目立ってるし」

 虚ろな無表情で、エメリナはボソっと呟いた。
 コイツの恋人……しかも恋愛脳一直線の迷惑女と決め付けられた心理ダメージで、もう顔をしかめる気力も残っていない。

「だいたい、公園から先生にどうやって連絡とるのよ。携帯にかけても、繋がる確立は十パーセント以下よ。最後まで用件を話せたら、もう奇跡ね」

 エメリナだってギルベルトと電話でまともに話せたのは、面接申し込みの時に、たった一度きりだ。
 それを聞くと、ジークは驚いたように軽く目を見開く。

「おいおい、機械音痴は日記で知ってたけどよ。そこまで酷いのか?よくイラつかないな」

「先生には他に十分すぎるほど、良いところがあるの。それに、先生が機械音痴だからこそ、私は助手になれたのよ」

 迷わず答えた。
 そう、機械音痴でも人狼でも構わない。それらも全部ひっくるめて、ギルベルトが好きなのだ。

「へぇ、これくらいが使えないなんて、不便なこった」

 ジークがポケットから自分のスマホを取り出し、チラリと眺める。時間を確認したのだろうか。
 ふと、彼のスマホについたウッドビーズのストラップが目に入り、エメリナは足を止めた。

「……やっぱり、こんなのどうかしてる。どうしてそんなに軽々しく命を弄べるの?」

「ああ?」

「現実の死は、幾らでもやり直せるゲームとは違うのよ」

 最後の期待を込めて、真剣に説得する。
 だが、ジークはせせら笑った。

「やり直しの効かない、真剣勝負だからこそ滾るんだろうが。少なくともお前よりは遥かに、常日頃から現実の死と向き合っているさ。退魔士の殉職率がどれほどだと思ってんだ?」

「でも……。貴方だって、もし大怪我したり死んだら、悲しむ人がいるんじゃない?」

 握られていないほうの手で、ジークのストラップを指した。
 この物騒な青年の持ち物として、どうにも異色な代物だった。
 カラフルなウッドビーズの間に、一つだけ他より大きめの平べったいプラスチック板が付いている。中には、いかにも子どもが描いたような絵が挟まっていた。吊り上った目に、ツンツンの金髪と黒い服で、ジークの似顔絵だとすぐわかる。

「……心当たりはねぇな」

 不快そうな声とともに、可愛いストラップつきのスマホは素早くポケットにしまいこまれた。

「それからな、大好きな先生を研究所送りにされたくなけりゃ、もう余計な口は聞くな」

 低い声で突き放すように言い、それきりジークも押し黙ってしまった。

 黙々と歩き続け、逃げ出す余裕もないまま、ついに記念公園にたどり着いた。
 普段なら、記念公園は夜でも各所がライトアップされ、恋人たちの憩いの場となっている。もちろん、不埒な真似をする者がいないように、警備員の巡回もあった。
 しかし、各所の道路工事と平行して、公園の各所も補修作業が始まっていた。入り口には厳重に柵が閉まり、公園のライトは全て消えている。
 美しい並木道や観葉樹の林も、月光の下で黒々とした木々の塊になり、都会の中心に不気味な森が突如現れたようだった。
 ジークは鍵を取り出し、入り口の柵を開けて躊躇わず入っていく。どうせその鍵も、ギルベルトと戦いたいがために、不正に手に入れたものだろう。

 有無を言わせぬ力で、エメリナは結界広場まで連れて行かれる。
 静まり返った広場に、六体の天使像が月光を浴びて佇んでいた。夜露の輝く芝生の上に、薄っすらと長い影が伸びている。
 天使たちはそれぞれ違う顔と服装をしているが、どれも中央を向き、片手を上げて斜め上を指している。
 聞えるのは遠くからかすかに聞える都会の喧騒と、フクロウの鳴き声だけだ。先日の賑やかな大会と同じ場所とは、到底思えなかった。

「ここまで来たら、もういいぜ」

 不意に、ジークが手を離した。そして一瞬も数えぬ素早さで、その手は次の行動を起こした。エメリナの首筋へ鈍い衝撃が走る。

「っ!?」

 視界が揺れ、白く濁った。頚動脈を強打され、エメリナは芝生に崩れ落ちる。

 ***

「俺が怪我をしたり死んだら、悲しむ奴がいる? 萎えそうなアホ抜かすな」

 ジークは足元に倒れるハーフエルフを見下ろし、舌打ちした。
 不良少年の頃、慈善学校のシスターから同じような説教を散々されたが、いつだって鼻で笑い飛ばした。
 一人きりの肉親といえる母親はアル中で絶賛育児放棄であり、シスターだって明らかに上司から「あの子をなんとかしなさい」と言われ、渋々と定型文のお説教をしていただけ。
 本当に、誰一人として心配される心当たりなどなかった。
 それなのに、コイツの言葉が妙に耳から離れず、胸がざわざわして苛つくのは……。


 ジークはスマホをとりだし、ストラップについた小さな似顔絵を眺め、もう一度舌打ちする。
 このストラップは、マルセラから渡されたものだった。夏休みの工作で作った『英雄の勲章』だと、嬉しそうに授与された。

(マルセラ、お前はガキだから夢を見てるだけだ。お前の思う英雄なんか、どこにもいないんだよ!!少なくとも、俺じゃねぇ!!)

 さっさと大人になれ。どうせ幻滅するなら、一日でも早くしろ。
 ……何度もそう言って突っ返そうと思いながら、結局つけたままでいる。

 腰から魔獣用の特殊ロープを外し、エメリナの両手首を胸の前で縛った。長い端の部分を、天使像の一体にくくりつける。
 それから艶やかな亜麻色の髪を、数本抜き取った。
 ポケットから折り紙で作られた小さな白い鳥を取り出し、折り目にエメリナの髪をこじ入れる。
 夜空に向けてそれを放り投げると、紙製の鳥は生物のように羽ばたき、街の灯りを目指して飛んで行った。

 ****

 大都市の濁った夜空でさえも、一年で最大に輝く満月の魔力は、ギルベルトの体内を耐えがたく疼かせる。カーテンと鎧戸はぴったり閉めているが、ほんの気休めだ。
 ソファーの上でうずくまり、ギルベルトは変身衝動に耐えていた。少しでも気を抜けばあっというまに狼へ変化してしまいそうだ。
 真暗な部屋の中で、琥珀色の両眼は金色の光を帯びて、らんらんとギラついている。
 狼の血脈が全身を激しく駆け巡っている。四足で大地を踏みしめ、思い切り駆け回りたくて仕方ない。
 満月に向けて思い切り咆哮できれば、どれほど気持ち良いだろうか。

 いつもなら、この夜くらいは誘惑に負け、深夜に人通りの少ない場所を選んで走り回っていた。
 しかし、人々がドラゴン騒動をひとまず忘れたとはいえ、まだそう時間が経っていない。うっかり誰かに見られでもしたら、また騒ぎに火がつくだろう。
 伸びそうな牙を押さえ身じろぎした時、鎧戸を突っつくような、かすかな物音に気づいた。
 慎重にカーテンと鎧戸を細く開けると、白い物体がヒラリと部屋に飛び込む。
 紙で折られた鳥は、部屋の中を一度旋回し、ギルベルトの前を飛び回り始めた。

「式紙?」

 珍しいものに首を傾げた。
 数年前に発売された子供向けの魔法玩具で、大陸東で独特に発達した、呪符を使用する式神魔法を、簡略化したものだった。
 鳥やサルに小鬼など、最初から折られた呪符セットで、この鳥形なら数キロ圏内の距離に、ごく簡単な伝言を届けられる。
 簡易的な命を吹き込まれた紙の魔物たちは一度しか使えず、それほどの威力もないが、価格も手ごろで、即座に大人気となった。
 しかしこの玩具は、すぐ発売中止とされたはずだった。

 『人狼、お前と戦ってみたいんだよ。俺に勝てれば、お前の秘密は誰にも知られずに済むぜ。誰にも言わず、一人で記念公園の結界広場まで来い』

 鳥の飛んだ後から、空中に白い文字が浮かび上がる。
全ての文を出し終えると、役目を終えた鳥は、ただの紙切れに戻って床に落ち、文字も程なく消える。

「……っ!」

 ギルベルトは式紙鳥を拾い上げ、中身を開いた。
 内側の宛先欄に、ここの住所が書かれ、受け取り人の写真を貼る部分には、ギルベルトの顔部分を切り抜いた写真が、ちゃんと張付けられていた。
 自分の写真など滅多にとらないから、首もとのネクタイで、ウリセスが会社で撮ってくれたものだと、すぐわかる。
 だが、ギルベルトを硬直させたのは、折り目から零れ落ちた長い数本の髪だった。見慣れた美しい亜麻色と、まぎれもないエメリナの香りに、両眼が大きく見開かれる。
 ギルベルトは、紙の鳥をグシャリと握りつぶした。
 この式紙鳥は、内側に書かれた相手本人しか開封できず、他の人が開ければ消えてしまう。差出人の名前を書く必要はなく、もちろん通話記録も消印も残らない。
そこを突かれ、たちまちいじめや脅迫状などの用途に悪用されたので、即発売中止になったのだ。

「エメリナ……」

 喉奥で唸り、即座に家を飛び出す。脅迫状の最後は、典型的すぎる文章だけに、かえって多弁されなくても、他言したり断れば人質がどうなるかを伝えていた。
 狼になって駆ければ数倍早いが、記念公園までの道は人通りが激しく、誰にも見られずたどりつくのは不可能だ。
 頭に血が昇り、輝く満月が変身しろと強烈に促すのも、気にならないほどだった。
 曲がりくねった石畳の夜道を、信じられないほどの速さで駆け抜けるギルベルトに、すれ違う何人かが驚いて振り返った。
 構わず駆け続け、人工の灯りが煌々と輝く賑やかな駅前を通りぬける。

 静まり返った記念公園の入り口は、硬く閉ざされていたが、背の高い鉄門の柵を握り、一気に飛び越えた。
 瞬く間に結界広場へ辿りつき、天使像の一つにもたれかかっている若い退魔士を見つける。
 広場の外灯は消えていたが、今夜の月は信じられないほど明るいし、ギルベルトは夜目が利く。退魔士の足元には、細身のロープで両手首を結わえられたエメリナが倒れていた。

「エメリナ!!」

「せ、せんせ……?」

 エメリナは薄っすらと目を開けたが、上手く起き上がれないようだ。芝生に横たわったまま、顔をしかめて小さく呻く。

「流石に街中は狼で走れなかったか?それにしちゃ、随分早かったな」

 金髪を逆立てた退魔士の青年が、満足そうな声をあげた。

「そっちの情報だけ見たのは、不公平だったからな、一応名乗るぜ。ジーク・エスカランテだ。所属は中央西区署の第五部隊」

「エメリナくんは、俺の正体を知らずに雇われていただけだ。罪に問うのは俺だけにして貰おう」

 エメリナの安全を最重要に考えろと、怒りを必死に押し殺す。
 相手がちょっと腕が立つ程度の人間であれば、ギルベルトはとっくに彼女を奪還していただろう。
 だが、この退魔士は妙に隙がないのだ。気負っている様子などまるでないのに、踏み込むきっかけを与えない。

「メッセージをちゃんと見なかったのか?俺は手柄が欲しいんじゃなくて、北国最強の魔獣と戦いたいんだ。でなきゃこんな苦労をするかよ」

 ギラギラと自分を射抜くジークの視線に、あれは本気だったのかと驚き、同時に呆れた。
 てっきり、自分を呼び出し捕らえるための嘘だとばかり思っていた。
 好戦的な琥珀色の両眼が、自分と同じ金色の光を帯びて見える。降り注ぐ月光と相まり、なぜかジークを見ていると全身の血が騒ぎ立てるのを感じた。
 変身衝動が、いっそう強くなっていく。
 今すぐ狼に変身し、コイツの望みをかなえてやりたい気さえした。
 ――全力で戦い、牙を剥き、どちらが勝っても構わない。血みどろの殺し合いをしたい。
 そんなバカげた欲求が競りあがるのを、必死で押し殺して訴えた。

「俺は人間として生きたいんだ。頼むから放っておいてくれないか」

 だが、ジークはギルベルトの訴えなど素知らぬ顔で、傍らの天使像についた扉を開き、数個並んだ魔法文字のボタンを押し始める。

「通信遮断に……最大威力結界のパスワードは……と、俺が言うのもなんだが、役人はつくづく身内に甘いよな。上司の使いだって言えば、一般非公開のパスワードまで簡単に教えちまうんだから」

 扉が閉まると同時に、天使像たちの指先から、薄緑色の光が発射される。結界広場全体を、一瞬でドーム型の魔法結界が覆った。

「これでどれだけ派手に戦っても、音は漏れないし、外からは中も見えない。普通ならコイツを使えば役所に自動で通信がいくが、それも切った。」

 天使像の扉を軽く叩き、ジークは説明する。

「結界の解除パスワードは、俺の上着に入ってる。勝ったら女を連れ帰って、人間のフリを好きなだけ続けろよ」

 退魔士の青年は、とても楽しそうだ。琥珀の目が、いっそう強烈な金色を帯びている。

「なんでだろうなぁ?写真を見てすぐに、お前が人狼だって感じた。お前の事を考えると、やたらと血がたぎるんだよ」

 ジークが首に下げたゴーグルを目元に引きあげた。

「コイツをかけないとな。俺の武器は、かなり飛び散らかすんだ」

 呟き、黒い大きなケースの留め金を開く。現れたモノを見て、足元のエメリナが大きく目を見開いた。

「な、に、それ……っ!」

「教皇庁の特製武器だ。少しばかり重たいが、ゾンビも骨ごとぶった切れる優れものだぜ?」

 ジークの両手に握られた大降りのチェーンソーが、月光を反射し銀色に輝く。スロットルが引かれ、激しいエンジン音が結界内に響いた。

「どうした?早く変身しろよ!」

 挑発的なジークの声にあわせ、満月の光りも、変身せよと狂ったように叫んでいる。鼓動が早くなり、うなじの毛が逆立ちはじめる。犬歯の根元が牙になろうと疼く。

「……っ!?」

 不意に、周囲の景色が変わったように感じた。懐かしい故郷。白銀の雪に覆われた北国の山脈風景が、ギルベルトを包む。
 夜空一面に星々が煌き、真円の神々しい満月が、白銀の氷雪と周囲の観客を照らし出している。
 無数の狼たちが、じっとギルベルトを眺めていた。

(なんだ……?今のは……)

 幻の情景は一瞬で消え、足元は氷雪から芝生へ戻る。

「ハ、そっちが手抜きすんのは勝手だがな。こっちは全力でやらせてもらうぜ」

 退魔士のブーツが芝生を蹴り、ギルベルトは反射的に身を守っていた。

「っ!!」

 真正面から振り下ろされた武器の中心刃を、とっさに両手の平で挟んで食い止めた。顔のすぐの前で、骨すら断つ鋭利な鎖刃が、激しい勢いで回転している。

「はは!人型のままでも、やるじゃねーか!」

 楽しげな笑い声をあげ、ジークがチェーンソーを押す手に力を込める。

「う、く……」

 電動の武器はけたたましい音を立て、掌から伝わる電磁波が耳障りなノイズとなって、ギルベルトを苦しめる。
 額に脂汗を浮かべ、チェーンソーが押し込まれるのを必死で防ぐ。
 ジンジンと煩いノイズに交じり、幾多の叫び声が聞えるような気がした。


『挑戦者だ!』
『部族同士の決闘だ!』
『満月夜の挑戦を受けてやれ!』
『戦え!!』

 再び氷雪の景色が、ギルベルトを包み込む。
 聞える無数の叫びは、周囲を囲む狼達のものだった。普通の狼よりも、ずっと逞しく大きい。彼らは人狼だ。
 ――満月の見せる、人狼の亡霊だ。

(……挑戦?……部族?)

 祖先のルーディが書き記した、古い書物を思いだす。
 好戦的な人狼たちは、同族同士の戦いを最も好んだそうだ。
 まだ人狼の数が多く、いくつもの部族が存在した頃、満月の夜には、よく他の部族との決闘が行われたらしい。
 部族の全員が見守る中、代表者は一対一で死闘を交わす。

(ああ、そうか、こいつも……)

 ゴーグルのレンズを通しても、ジークの両眼が金色を帯びて輝いているのが、はっきり見える。
 間違いない……ジークもまた、ギルベルトとは違う人狼の子孫だ。

 純粋な人狼は滅んでも、ルーディのように異種族と交わり子孫を残した者が、ほんのわずかでも居たはずだ。
 彼らの記録は残っておらず、どこかにいるとは思っても、今まで出会った事はなかった。
 血の薄まった今では、その殆どが自分に人狼の血が流れていることすら、知らないのだろう。ジークもおそらく無自覚のはずだ。
 しかし、それでも彼がギルベルトへ過敏に反応したのは、きっと彼も先祖返りだからだ。

 身体ではなく、その心だけが祖先の血を濃く反映してしまった、いびつな人狼の先祖返りだ。

 ゾクゾクとした喜びが、ギルベルトの全身に湧き上がっていく。知らずに口元へ凶暴な笑みが浮かんでいた。
 ずっとずっと、これを求めていたのだと、全身の血が叫んでいる。

 たとえ心だけであっても、ジークは立派な人狼だ。これほど濃く血を受け継いだものは、ギルベルトの親族にもいないだろう。

 だからこそ、純粋な子孫たちへ向け、人狼の亡霊はいっせいに咆哮した。


『始まったぞ!満月の決闘祭フォルモント・ドゥエル・フェストだ!!!』

しおりを挟む

処理中です...