亀姫様のお輿入れ

小桜けい

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24 不思議で困った問題

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「頼む。教えてくれ、カイ……私は一体どうすれば……」

 そろそろ馬車の窓から屋敷が見えてきてしまい、ベルノルトは苦渋に呻いた。

「それは、こっちが聞きたいですよ、ベルノルト様。どうしてそう不思議な言語能力を発揮しちゃうんですか」

 頭を抱えてしまったカイには申し訳ない気分だが、ギリギリまで粘りたくて、ベルノルトはもう一度挑んでみる。

「シェンリュ」

 愛らしい人の名前は、すぅっと自然に馴染んで声に出た。

「はい、素晴らしいです」

 カイが頷き、目線で続きをと促してくる。
 うむ、と気合を入れてベルノルトは姿勢を正し、改めて彼女の呼び名を口にする。

「シーエンリュ王女」

「…………」

 カイががっくりと項垂れて、失格だと無言で首を横に振った。
 コホンと咳ばらいをし、気を取り直してベルノルトは挑戦を続ける。

「シンリュ殿」

「…………」

「シェンリ様」

「…………」

「シェンリー…………」

「いやいや! ルェイリー様と混ざっています! だいたい、なんで段々と酷くなってくんですか!」

 ついに我慢しきれなくなったらしい。カイが腰を浮かせて盛大に突っ込んできた。

「す、すまん。だが、どうしてシェンリュとだけなら普通に言えるのか、自分でも解らないのだ」

 ベルノルトは額を押さえて溜息を吐く。

 三週間前、上手くトビアスの手から逃れてくれたシェンリュを取り戻さねばと必死になった際、思わず彼女の名を普通に呼んでいた。
 あの時はそれどころではなかったが、カイにもしっかり聞こえていたらしく、いつのまに練習したのかと後で尋ねられて驚いた。
 シェンリュの名を呼ぶ練習など、彼女が屋敷に来てからは一度もしていなかった。

 かつて自分は、イリーナが上辺だけ愛想よくしているのをまるで見抜けなかった。
 それで好意を持たれていると信じ、イリーナには堂々と断る力がないのも見抜けず、うかうかと婚約をしてしまったばかりにあんな悲劇を起こしたと、非常に後悔している。

 だから、シェンリュに対しても同じ恐れを抱いているのだ。
 彼女が愛想よく接してくれるからと言って、馴れ馴れしくしてはいけない。
 でも、シェンリュがとても可愛らしく接してくれるのが嬉しく、つい気を緩めてフラフラ引き寄せられるから、せめて王女殿下と呼ぶことで、一定の距離は保つよう心がけていた。

 ――心の中では、シェンリュと仲睦まじく互いに名を呼び合えればどんなに幸せかと、たびたび夢想していたけれど。

 そんなわけだったから、どうしても上手く発音できなかった彼女の名が、とっさとはいえ自然に出たのは、我ながら意外だった。

 そしてルェイリーは、ベルノルトがシェンリュに『王女殿下』と呼びかけるのを聞き、変だと思っていたという。
 この旅路の道中、ベルノルトがシェンリュの名前を上手く呼べないのだとカイを通して聞かされたルェイリーは、心底呆れたような顔になっていた。

『それ、最速で解決するべき。できなければ、ベルノルト殿、困ります。あなた、これから永遠に、シェンリュを、自分の国の王女と、一緒の呼び方? 宴でも? 絶対、よくないです』

 ルェイリーに片言のラングハイム語で、先延ばしにしていた問題を容赦なく突き付けられた。

 確かに領内では、シェンリュを王女殿下とだけ呼んでも『ああ、竜宮から来た王女殿下ね』で皆が納得して問題ない。
 だが、この先に王城の宴や式典に夫婦揃って招待された時など、ラングハイムの王女もいる場で、シェンリュを『王女殿下』と呼ぶのは困るのだ。

 ルェイリーはトビアスに騙されて更に獣人嫌いが酷くなるかと思ったが、意外にもベルノルトやカイに対しては随分と警戒を解いてくれたらしい。
 しかも彼女は基本的に気位が高くても、必要なら礼節正しく振る舞い、非常に勤勉だ。
 カイに、道中で出来る限りラングハイム語を教えて欲しいと丁重に頭を下げて頼み、少しの間も惜しんで熱心に練習を重ねて、あっという間に片言で随分と話せるようになった。

 そんなルェイリーに対し、自分が距離を置く為と言い訳をしてシェンリュとちゃんと呼べるよう練習しなかったのは怠惰としか言いようがない。
 己を恥じ入ったベルノルトは、それから猛特訓を再開したのだが、奇妙なことが判明した。
 なぜか『シェンリュ』とだけなら自然に言えるのに、敬称をつけて呼ぼうとすると、途端に緊張してしまって変な発音になるのだ。

「――もう、いっそのこと奥様に事情を全て打ち明けてお名前だけ呼ぶように頼めばどうですか?」

 とうとうカイに匙を投げられてしまい、ベルノルトは慌てて首を横に振る。

「それは、幾らなんでもいきなり馴れ馴れしくし過ぎではないか。ま、まるでその……夫婦、のような……」

 途端に、ジトッとカイが上目で睨んできた。

「何をおっしゃっているんです。ご夫婦でしょうが」

「いや、だから私と……ええと、あの御方はだな、あくまでも建前だけの夫婦関係で……」

 オロオロと言い訳をしながら、自分が情けなくなって頭を抱える。
 どうしてしまいには、あの御方とか、かえって腫れ物扱いみたいになってしまうのだ。
 せめて『シェンリュ殿』とか、『シェンリュ様』とか、それくらいなら普通に礼儀正しいと、己の中で納得できるのだが……。
 そんな事をしているうちに、馬車はどんどん進んでおり、既に屋敷の門前にまで迫っていた。

「ベルノルト様!」

 少し開けていた窓から、爽やかな風とともに、鈴を転がすような綺麗な声でベルノルトの名が飛び込んで来る。
 馬車が止まり、ベルノルトは大急ぎで彼女の傍に降り立った。

「ただ今戻りました。お身体は回復されたと聞きましたが、もう変わりはありませんでしょうか? ええと、その……王女殿下」

 夏の強い陽射しの中で、シェンリュの愛くるしい姿はいっそう眩しく見え、ベルノルトは赤面しながら視線を彷徨わせる。

「はい。すっかり元通りですわ。ご心配をおかけいたしました」

 頬を染めて微笑むシェンリュの可愛らしさに息を呑み、その場で悶絶しそうになるのを堪えつつも、ベルノルトはホッとした。
 温厚でおっとりしたシェンリュが、まさか暴漢の馬車を丸ごと取り上げたのには仰天したが、金の針を使って大きな品を運んだ負荷から彼女が寝込んでしまった時は、この世の終わりかと思う程に心配になった。

 寝込んでいるシェンリュを一人で領地に置いて行くのは心配だったが、エルケや他の者もいるのだし、ベルノルトは事件の後処理に心置きなく集中して欲しいと言われた。
 常に穏やかな優しい人であっても、シェンリュは紛れもなく竜宮の王女だと確信した。
 そして、竜宮の王女とはかくあるものという噂にたがわず、誇り高く気丈な面も併せ持つ彼女を、いっそう好きになった。

 このまま、いつまででもシェンリュをチラチラ眺めてしまいそうだったが、隣に立ったカイにそっと背中を突かれてベルノルトは我に返る。

「ああ……ところで、早速ですが竜王陛下のご決断についてですが、少々……」

 ベルノルトが言いかけた途端、シェンリュの表情が曇った。

「父は、姉様にどのような処遇をくだされたのでしょうか?」

 よほど姉が心配なのだろう。
 握り合わせた彼女の手が、カタカタと小さく震えている。
 こんな時、肩をそっと抱いて宥めてやれればどんなに良いだろうと思う。
 だが、ベルノルトにできるのはせいぜい、微笑みかけてこう言うくらいだった。

「ご心配なく。他の方がどう思うかは解りませんが、私としては決して悪くない裁量をくだされたと……とにかく、ここでは何ですから居間でお話ししましょう」
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