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子母神 姫子(こもがみ ひめこ)の場合(◇ホラー)
子母神 姫子(こもがみ ひめこ)の場合
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朝は、嫌い。
だって眠いから。
いつもは目覚ましアプリが音楽を鳴らして、隣の部屋の弟がそれを止めに来るまで起きない私が、今日はなぜだか目が覚めた。
スマホを見るとまだ5時半。
私はカーテンの隙間から差し込むお日様の光を睨むと、ボーっとしながら布団の上に広げておいたカーディガンを肩にかけ、もこもこウサギの室内履きをつっかけた。
つい最近まであんなに暑かったのに、今はもうちょっと寒い。
私たちの住んでる鹿翅島は、高い山も無いし四方は全部海だから、季節ごとの寒暖の差が激しいんだって担任の先生が言ってたのを思い出した。
小さくあくびをしながら部屋を出る。
私が部屋を出るのを待っていたかのように、トイレの方から水を流す音が聞こえた。
ふと見ると弟の部屋のドアが開いてる。
弟の武尊もトイレに起きたんだ。
つい最近まで一人でトイレに行けなかったくせに、小学生になった途端に生意気になった5歳下の弟の顔を思い浮かべて、私はちょっと驚かせてやろうと廊下の角で息をひそめた。
「ヴぁあ……アぁあぁァァ……」
トイレの向こう、リビングの方から変な唸り声が聞こえたのはその時だった。
同時に、ずるずると何かを引きずるような音がこっちへ近づいてくる。
トイレのドアが開く音がして、弟の「ん~、ママ?」と言う寝ぼけ声が続いて聞こえた。
……驚かせるのはやめ。ママも起きてるなんて、今日は変な日だわ。
ママもトイレだったら、私の方が先に入らせてもらおう。
そう思って廊下の角を曲がった私は、声を掛けようとしたママが弟の首にかぶりつく姿をまともに見てしまった。
首の半分以上をがぶりと一噛みで。
悲鳴すら上げる間もなく、弟の頭はぐらっと傾いて「ぶちっ」と音を立てて肉が千切れ、「どん」と廊下に転がった。
廊下の窓から差し込むお日様の光の中、弟の目がぐるぐるとものすごい勢いで動く。
頭のない弟の体にかぶりついているママは、いつも着ているグレーのパジャマを赤黒く染めて、無心にもぐもぐと口を動かしていた。
弟の目の動きが止まる。ママを掴もうとしていた手もぶらんと落ちる。
そこまで見て、初めて私の時間が動き出した。
「マ……マ?!」
……時間なんか動き出さなきゃよかったのに。
思わず声を出してしまった私に向かって、ママの顔がぐるんとまわる。
自分の唇や頬の肉も食べてしまったその顔は、ハロウィンの骸骨みたいに剥き出しになった歯が並んでいた。
弟の首から勢いよく噴出した血が目に入っても、ママは何も感じないように瞬きもしないから、血糊で濁った眼玉は、白目も無く真っ黒。
たぶん、見えてないと思う。
ただ、私の声だけは聞こえたみたいで、そのママだったものはのそりと立ち上がって、あの恐ろしいうなり声をあげながら、ずるりずるりと歩き出した。
「ヴぁあぁぁ……アァァあぁァァアヴァぁ……」
近寄ってくる。
近寄ってくる。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
私はまた時間が止まってしまったみたいにその場に座り込み、ただそれをぼんやりと見ていた。
弟の暖かい血で化粧をしたママは、湯気を上げながら私に顔を近づける。
その口がぱっくりと開いたのを最後に、私は諦めて目を瞑った。
「姫子!」
ぐしゃ。
パパが私の名前を呼ぶ声と、何かのつぶれる音が一緒に聞こえて、私は生暖かい液体を頭からぶちまけられたのを感じた。
つんと鼻を突く錆の臭い。
口にあふれる血の味。
私は袖で顔を拭って、何とか目を開けた。
パパが自慢のゴルフクラブを両手に持って、何度も何度も振り下ろしている。
壁や窓にもぶつかったそれは、壁をえぐり、ガラスを破り、そして、ママだったものをぐちゃぐちゃにしていた。
「パパ!」
「姫子! 良かった!」
パパがめちゃくちゃに振り回していた手を止める。
ぐちゃ、ばちゃ、と聞こえていた音が鳴りやむと、静かになった室内には、パパのハァハァと荒い息と、外から聞こえる沢山の悲鳴とあの恐ろしいうなり声だけが響いた。
「良くないよ! 武尊とママが!」
「いいんだ。アレはもうママじゃない」
「何言ってるの?! ママだよ?!」
「……おっと、武尊も噛まれたんだったな。頭を潰しておかないと……」
私の話など聴いていない様子で、パパは汗を拭きながら千切れた武尊の頭に近づく。
すうっと息を吸いながら両手に持ったゴルフクラブを大きく振りかぶると、おもいっきり、その血塗れの頭に振り下ろした。
予想外に弟の頭が固くて軽かったのか、それは潰れることなく弾かれてごろんと転がる。
「おっと、……武尊、ダメだよ。待ちなさい」
真面目な顔でパパは弟の頭に何度もクラブを振り下ろす。
何度目かの攻撃でついに頭は「ぐしゃ」と音を立て、水風船みたいに弾けた。
「これでよし。さぁ行くよ」
「……どこに?」
「島はもうだめだ。ゾンビの鳴き声がたくさん聞こえるだろう? ボートで本島に逃げるんだよ」
ガシッと私の手首を掴んで、パパはそのままガレージに向かった。
ママと弟の血に染まったパパが怖い。
私は引きずられるように車に乗り込ませられて、パパはエンジンをかけた。
うちの車はパパの自慢の車だ。
なんかすごく大きくて、4WDって言うゴツゴツしたタイヤの、四角い車。屋根にはボートが逆さまに乗っている。
私はこのエンジンの音がうるさくて、荷物を載せる場所ばっかり広い車があまり好きじゃなかった。
ボートが屋根に乗っかってるのも、迎えに来てもらうときに友達に見られると恥ずかしい。
でも今は、このボートでここから逃げられると思うと、すごく頼もしく見えた。
――ガァン! ガァン!
「ヴぁあぁぁ……アァァあぁァァアヴァぁ……」
――ガァン! ガァン!
突然、ガレージのシャッターがものすごい音を立てる。
体当たりでもしてるみたいな音。それから、ママと同じ、あの恐ろしいうなり声。
パパは「エンジン音で寄ってきたな」とつぶやいて、ブォンブォンとエンジンと、ついでにクラクションも鳴らした。
――ガガガンッ! ゴゴンッ!
その音に、更にガレージが激しくたたかれる。
「パパ! やめて!」
「あいつらの動きは遅い。ここに集めておいた方が……」
まるで近くにカミナリでも落ちたみたいな音を立ててシャッターが引き裂かれ、私たちの車がお日様に照らされた。
パパは一気に足を延ばす。
車は鎖を外されたワンちゃんが走り出すように、タイヤから煙を出して急発進した。
「……逃げるのに都合がいい」
パパはハンドルを右に左に動かして、家の前に行列を作ってる人たち――知ってる顔もあったけど、みんな自分で自分の唇を食べちゃったガイコツみたいな顔の人たち――を弾き飛ばして車を走らせた。
正直言うと、そこから先の事はあまり覚えていない。
私はパパに何度も「やめて!」とお願いし、パパは車を走らせ、唸り声をあげる街の人たちを次々と轢き殺していった。
途中「子母神さんっ! 助けてっ!」と言う声が聞こえたような気もしたけど、そう言っていた人も、パパは躊躇なく轢いていた。
気が付くと、車は港に止まっていた。
いつもはうるさいウミネコの声も聞こえない。
ただ静かに防波堤に打ち付ける波の音だけが辺りに響いていた。
パパが車からボートを下ろし、海に浮かべる。私に先頭に乗るように促して、パパは一番後ろに乗った。
「姫子、いいかい? ゾンビは頭をつぶせば動かなくなる。それから、ゾンビに噛まれたものは同じゾンビになってしまうんだ。ゾンビに噛まれたものを見つけたら、迷わず頭をつぶすこと。分かったね?」
「うん。パパはなんでそんなことを知ってるの?」
「……映画……いや、大人は皆知っているものだよ。それより、ゾンビを見つけたら必ず頭を潰しなさい。たとえそれがママや弟であってもだ。いいね?」
「……うん。わかった」
私はパパからすごく重い銀色の工具を手渡されながら頷く。
パパがオールをこぎ、ゆっくりと水面を走り出したボートの上で、私はほっと肩の力を抜いた。
『そこの船舶! 止まりなさい!』
――ぱしゃあ……ぱしゃあ……
規則正しいオールの音に、いつの間にか眠ってしまっていた私は、その学校の全校集会の時みたいな声に驚いて目を覚ました。
ボートの進む方向を振り返ると、そこにはテレビで見た自衛隊の船みたいな、灰色の大きな船が何隻も浮かんでいるのが見える。
「パパ! やったよ! 助かった!」
思わず立ち上がり、自衛隊の船に向かって大きく手を振る。
パパの返事がないのに気が付いて後ろを振り返ると、パパはゆっくりオールを手に持って立ち上がった所だった。
その顔には、頬の肉がない。
私が思わず叫んだ声に反応して、そのパパだったものは、私に近づき始めた。
「ヴぁあぁアァァぁ……」
あの唸り声をあげて、まっすぐ私に向かってくる顔。私は背中から力が抜けたようにボートに座り込み、ただそれを見ていた。
あと50センチ。あと40センチ。
剥き出しの歯で、まるで笑っているみたいにパパだったものの顔が近づく。
『乗船している人たち! 動くのをやめなさい!』
もう一度、拡声器から鳴り響いたその声にパパの顔がふっと私から逸れた。
ボートの床についていた私の指先に、何か冷たい塊が触れる。
私はパパの言葉を思い出す。
「ゾンビを見つけたら必ず頭を潰すこと。それがママや弟であっても」
だったらそれがパパでもそうすべきだよね?
私は銀色の工具を両手で握りしめて、パパの……パパだったものの頭に向かって、その重い鉄の塊を思いっきり振り回した。
ぐしゃ。
そして、ばっしゃーん。
水しぶきをあげて、頭のへこんだパパだったものが水に落ちる。パパは泳ぎが得意だったはずなのに、それはぶくぶくと泡を出しながら、海の底深くへと沈んでいった。
「う……うああ~ん! あああ~ん!」
ママの血とパパの血で体中をどす黒く染めた私は、弟が生まれてからこんなに泣いたことは無いってくらい、大声で泣いた。
自衛隊の灰色の船が私のボートに近づいてくる。
もう終わったんだ。これで私は助かる。
そう思うと、私の泣き声は止まらなかった。
『……鳴き声っ! 擬声行動確認。対象を感染者と判断する。許可願います』
『許可する』
――パンっ
乾いた音が海に響いて、私は頭が熱くなった。
鳴き声?
ママもパパも近所の人たちも大声で叫んでいたあの声を私は思い出す。
みんな、泣いていたのかもしれない。
たぶん、大人たちはずっと泣いていなかったから、泣くのが下手になっちゃったんだ。
海と空がくるんと入れ替わったのを最後に、私の目には何も見えなくなる。そして、私の泣き声はすぐに止んだ。
――子母神 姫子(こもがみ ひめこ)の場合(完)
だって眠いから。
いつもは目覚ましアプリが音楽を鳴らして、隣の部屋の弟がそれを止めに来るまで起きない私が、今日はなぜだか目が覚めた。
スマホを見るとまだ5時半。
私はカーテンの隙間から差し込むお日様の光を睨むと、ボーっとしながら布団の上に広げておいたカーディガンを肩にかけ、もこもこウサギの室内履きをつっかけた。
つい最近まであんなに暑かったのに、今はもうちょっと寒い。
私たちの住んでる鹿翅島は、高い山も無いし四方は全部海だから、季節ごとの寒暖の差が激しいんだって担任の先生が言ってたのを思い出した。
小さくあくびをしながら部屋を出る。
私が部屋を出るのを待っていたかのように、トイレの方から水を流す音が聞こえた。
ふと見ると弟の部屋のドアが開いてる。
弟の武尊もトイレに起きたんだ。
つい最近まで一人でトイレに行けなかったくせに、小学生になった途端に生意気になった5歳下の弟の顔を思い浮かべて、私はちょっと驚かせてやろうと廊下の角で息をひそめた。
「ヴぁあ……アぁあぁァァ……」
トイレの向こう、リビングの方から変な唸り声が聞こえたのはその時だった。
同時に、ずるずると何かを引きずるような音がこっちへ近づいてくる。
トイレのドアが開く音がして、弟の「ん~、ママ?」と言う寝ぼけ声が続いて聞こえた。
……驚かせるのはやめ。ママも起きてるなんて、今日は変な日だわ。
ママもトイレだったら、私の方が先に入らせてもらおう。
そう思って廊下の角を曲がった私は、声を掛けようとしたママが弟の首にかぶりつく姿をまともに見てしまった。
首の半分以上をがぶりと一噛みで。
悲鳴すら上げる間もなく、弟の頭はぐらっと傾いて「ぶちっ」と音を立てて肉が千切れ、「どん」と廊下に転がった。
廊下の窓から差し込むお日様の光の中、弟の目がぐるぐるとものすごい勢いで動く。
頭のない弟の体にかぶりついているママは、いつも着ているグレーのパジャマを赤黒く染めて、無心にもぐもぐと口を動かしていた。
弟の目の動きが止まる。ママを掴もうとしていた手もぶらんと落ちる。
そこまで見て、初めて私の時間が動き出した。
「マ……マ?!」
……時間なんか動き出さなきゃよかったのに。
思わず声を出してしまった私に向かって、ママの顔がぐるんとまわる。
自分の唇や頬の肉も食べてしまったその顔は、ハロウィンの骸骨みたいに剥き出しになった歯が並んでいた。
弟の首から勢いよく噴出した血が目に入っても、ママは何も感じないように瞬きもしないから、血糊で濁った眼玉は、白目も無く真っ黒。
たぶん、見えてないと思う。
ただ、私の声だけは聞こえたみたいで、そのママだったものはのそりと立ち上がって、あの恐ろしいうなり声をあげながら、ずるりずるりと歩き出した。
「ヴぁあぁぁ……アァァあぁァァアヴァぁ……」
近寄ってくる。
近寄ってくる。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
私はまた時間が止まってしまったみたいにその場に座り込み、ただそれをぼんやりと見ていた。
弟の暖かい血で化粧をしたママは、湯気を上げながら私に顔を近づける。
その口がぱっくりと開いたのを最後に、私は諦めて目を瞑った。
「姫子!」
ぐしゃ。
パパが私の名前を呼ぶ声と、何かのつぶれる音が一緒に聞こえて、私は生暖かい液体を頭からぶちまけられたのを感じた。
つんと鼻を突く錆の臭い。
口にあふれる血の味。
私は袖で顔を拭って、何とか目を開けた。
パパが自慢のゴルフクラブを両手に持って、何度も何度も振り下ろしている。
壁や窓にもぶつかったそれは、壁をえぐり、ガラスを破り、そして、ママだったものをぐちゃぐちゃにしていた。
「パパ!」
「姫子! 良かった!」
パパがめちゃくちゃに振り回していた手を止める。
ぐちゃ、ばちゃ、と聞こえていた音が鳴りやむと、静かになった室内には、パパのハァハァと荒い息と、外から聞こえる沢山の悲鳴とあの恐ろしいうなり声だけが響いた。
「良くないよ! 武尊とママが!」
「いいんだ。アレはもうママじゃない」
「何言ってるの?! ママだよ?!」
「……おっと、武尊も噛まれたんだったな。頭を潰しておかないと……」
私の話など聴いていない様子で、パパは汗を拭きながら千切れた武尊の頭に近づく。
すうっと息を吸いながら両手に持ったゴルフクラブを大きく振りかぶると、おもいっきり、その血塗れの頭に振り下ろした。
予想外に弟の頭が固くて軽かったのか、それは潰れることなく弾かれてごろんと転がる。
「おっと、……武尊、ダメだよ。待ちなさい」
真面目な顔でパパは弟の頭に何度もクラブを振り下ろす。
何度目かの攻撃でついに頭は「ぐしゃ」と音を立て、水風船みたいに弾けた。
「これでよし。さぁ行くよ」
「……どこに?」
「島はもうだめだ。ゾンビの鳴き声がたくさん聞こえるだろう? ボートで本島に逃げるんだよ」
ガシッと私の手首を掴んで、パパはそのままガレージに向かった。
ママと弟の血に染まったパパが怖い。
私は引きずられるように車に乗り込ませられて、パパはエンジンをかけた。
うちの車はパパの自慢の車だ。
なんかすごく大きくて、4WDって言うゴツゴツしたタイヤの、四角い車。屋根にはボートが逆さまに乗っている。
私はこのエンジンの音がうるさくて、荷物を載せる場所ばっかり広い車があまり好きじゃなかった。
ボートが屋根に乗っかってるのも、迎えに来てもらうときに友達に見られると恥ずかしい。
でも今は、このボートでここから逃げられると思うと、すごく頼もしく見えた。
――ガァン! ガァン!
「ヴぁあぁぁ……アァァあぁァァアヴァぁ……」
――ガァン! ガァン!
突然、ガレージのシャッターがものすごい音を立てる。
体当たりでもしてるみたいな音。それから、ママと同じ、あの恐ろしいうなり声。
パパは「エンジン音で寄ってきたな」とつぶやいて、ブォンブォンとエンジンと、ついでにクラクションも鳴らした。
――ガガガンッ! ゴゴンッ!
その音に、更にガレージが激しくたたかれる。
「パパ! やめて!」
「あいつらの動きは遅い。ここに集めておいた方が……」
まるで近くにカミナリでも落ちたみたいな音を立ててシャッターが引き裂かれ、私たちの車がお日様に照らされた。
パパは一気に足を延ばす。
車は鎖を外されたワンちゃんが走り出すように、タイヤから煙を出して急発進した。
「……逃げるのに都合がいい」
パパはハンドルを右に左に動かして、家の前に行列を作ってる人たち――知ってる顔もあったけど、みんな自分で自分の唇を食べちゃったガイコツみたいな顔の人たち――を弾き飛ばして車を走らせた。
正直言うと、そこから先の事はあまり覚えていない。
私はパパに何度も「やめて!」とお願いし、パパは車を走らせ、唸り声をあげる街の人たちを次々と轢き殺していった。
途中「子母神さんっ! 助けてっ!」と言う声が聞こえたような気もしたけど、そう言っていた人も、パパは躊躇なく轢いていた。
気が付くと、車は港に止まっていた。
いつもはうるさいウミネコの声も聞こえない。
ただ静かに防波堤に打ち付ける波の音だけが辺りに響いていた。
パパが車からボートを下ろし、海に浮かべる。私に先頭に乗るように促して、パパは一番後ろに乗った。
「姫子、いいかい? ゾンビは頭をつぶせば動かなくなる。それから、ゾンビに噛まれたものは同じゾンビになってしまうんだ。ゾンビに噛まれたものを見つけたら、迷わず頭をつぶすこと。分かったね?」
「うん。パパはなんでそんなことを知ってるの?」
「……映画……いや、大人は皆知っているものだよ。それより、ゾンビを見つけたら必ず頭を潰しなさい。たとえそれがママや弟であってもだ。いいね?」
「……うん。わかった」
私はパパからすごく重い銀色の工具を手渡されながら頷く。
パパがオールをこぎ、ゆっくりと水面を走り出したボートの上で、私はほっと肩の力を抜いた。
『そこの船舶! 止まりなさい!』
――ぱしゃあ……ぱしゃあ……
規則正しいオールの音に、いつの間にか眠ってしまっていた私は、その学校の全校集会の時みたいな声に驚いて目を覚ました。
ボートの進む方向を振り返ると、そこにはテレビで見た自衛隊の船みたいな、灰色の大きな船が何隻も浮かんでいるのが見える。
「パパ! やったよ! 助かった!」
思わず立ち上がり、自衛隊の船に向かって大きく手を振る。
パパの返事がないのに気が付いて後ろを振り返ると、パパはゆっくりオールを手に持って立ち上がった所だった。
その顔には、頬の肉がない。
私が思わず叫んだ声に反応して、そのパパだったものは、私に近づき始めた。
「ヴぁあぁアァァぁ……」
あの唸り声をあげて、まっすぐ私に向かってくる顔。私は背中から力が抜けたようにボートに座り込み、ただそれを見ていた。
あと50センチ。あと40センチ。
剥き出しの歯で、まるで笑っているみたいにパパだったものの顔が近づく。
『乗船している人たち! 動くのをやめなさい!』
もう一度、拡声器から鳴り響いたその声にパパの顔がふっと私から逸れた。
ボートの床についていた私の指先に、何か冷たい塊が触れる。
私はパパの言葉を思い出す。
「ゾンビを見つけたら必ず頭を潰すこと。それがママや弟であっても」
だったらそれがパパでもそうすべきだよね?
私は銀色の工具を両手で握りしめて、パパの……パパだったものの頭に向かって、その重い鉄の塊を思いっきり振り回した。
ぐしゃ。
そして、ばっしゃーん。
水しぶきをあげて、頭のへこんだパパだったものが水に落ちる。パパは泳ぎが得意だったはずなのに、それはぶくぶくと泡を出しながら、海の底深くへと沈んでいった。
「う……うああ~ん! あああ~ん!」
ママの血とパパの血で体中をどす黒く染めた私は、弟が生まれてからこんなに泣いたことは無いってくらい、大声で泣いた。
自衛隊の灰色の船が私のボートに近づいてくる。
もう終わったんだ。これで私は助かる。
そう思うと、私の泣き声は止まらなかった。
『……鳴き声っ! 擬声行動確認。対象を感染者と判断する。許可願います』
『許可する』
――パンっ
乾いた音が海に響いて、私は頭が熱くなった。
鳴き声?
ママもパパも近所の人たちも大声で叫んでいたあの声を私は思い出す。
みんな、泣いていたのかもしれない。
たぶん、大人たちはずっと泣いていなかったから、泣くのが下手になっちゃったんだ。
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