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第三章

タバコと酒と恋

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「じゃーん」
 安部さんは誇らしげにテストの結果を見せるがどれも平均点ぐらいだ。ちょっと国語が高くて数学が低いぐらい。この微妙な結果にどうやって反応したらいいのだろうか。ちょっと迷ってから答える。
「頑張ったね」
「そうなんだよ。分かる? 特に数学がかなり上がってるんだよ。那須君と先輩のおかげだね。これは。まあ自分でも頑張ったつもりだったんだけど」
安部さんは僕の気のない返事に気づかずに饒舌だ。

「ねえ、杉山君。私も褒めてよ」
 先輩が見せた答案用紙はどれも九割以上取れていた。安部さんが抗議する。
「酷いですよ、人のこと馬鹿にして」
 この通り先輩は成績が良い。だけどたまに後ろを向くと居眠りしていたり上の空だったりでまともに授業を受けている素振りはない。一体どういうカラクリなんだろうか。

 ついこんなことを言ってしまった。
「先輩って天才なんですか。あんな風に授業受けてこの成績って」
「そういう風に見える? 美少女天才女子高生。IQ180そんなフレーズがぴったしみたいに見える? 将来はハーバードにでも留学してノーベル賞を取っちゃうかも」
先輩は本当におかしそうに言った。笑いが止まらない様子だった。
「真面目に答えてくださいよ」
「もちろんそんなわけない。去年の分の貯金があるからよ」
「じゃあ、貯金がなくなったらどうなっちゃうんですか」
「本当にどうなっちゃうのかしらね」
 先輩は何故かとても愉快そうな顔で答えた。

 扉を開ける音がする。那須だった。野球部は今日が大会の予選初日だったのだ。そして半日だけしか休暇をもらえないので今帰ってきたというわけだ。安部さんが駆け寄って尋ねる。
「どうだったの」
「勝ったよ」
 安部さんが歓声を上げた。那須は珍しく照れながら頼んだ。
「もしよかったら応援に来てくれよ。二回戦は平日だから来れないだろうけど三回戦は今週の日曜日だから来れるぞ」
「もちろん行く、行く!」
 安部さんが勢い良く返事した。

 僕も二つ返事で受けたが、先輩だけがうんざりとした顔で答えた。
「私はお断りよ。真夏の球場なんて熱中症患者製造所じゃない。まともな人間なら行く気にならないわ。それに皆丸坊主でキビキビ動いているなんて全体主義国家みたいで気持ち悪くてしょうがない」
 那須が自分の頭を指して笑いながらおどける。
「俺丸坊主じゃないですよ」
 那須の髪型はスポーツ刈りとでも言うのだろうか、丸坊主ではなくて短髪だ。なのに先輩はこう切って捨てた。
「同じようなものよ」
 
 那須はそれからちょっとして僕だけをベランダに連れ出し、小声で突然尋ねた。
「聞きそびれてたんだけどあれから先輩とどうなったんだ」
 僕も小声で答える。
「あれからっていつのことだよ」
「ほら一緒にテスト前に一緒に皆で試験勉強しただろ?」
「どうにもなってないよ」
 那須は呆れたように言った。
「なんだよ。気を使ってわざわざ自転車じゃなくてバスで帰ってやったのに」
 
 ありがたいけれどうざい。ちょっとからかってやりたい気持ちになった。
「キスはしたけどね」
「本当かよ!」
 その声はとても大きくて、後ろを振り返ると何人かの生徒がこちらを見ていた。那須がボリュームを落として尋ねる。
「すまん、すまん。お前見かけによらず積極的なんだな、それとも先輩の方からしたのか?」
「まあシガーキスだけどね」
 そう答えると那須は
「なんだそりゃ」
 と訝しんでいたが、僕は何も教えずに教室に戻った。なんとなく二人だけの秘密にしておきたかったから。

 安部さんから何を話していたのかと尋ねられても曖昧に誤魔化す。
 それから彼女は小説の進捗を聞いてきた。僕も文化祭の冊子に小説を出すことにしたのだ。初めての作品、つまり処女作だ。
「うーん、ぼちぼちかな」
 作業自体は順調に進んでいたが、正直言って自分でも出来がよく分からなかった。部長から最低限の小説作法は教えてもらったが。

 なのに安部さんは笑いながらこう言う。
「楽しみにしてるよ」
 なんとなく気恥ずかしくて半ば無理やり話題を変えた。
「そう言えば『車輪の下』を読み返していて面白い文章があることに気づいんただよ」
 僕は本を鞄から取り出しに行く。お手洗いにでも行ったのか先輩の席は空いていた。ページをめくり伝えたかった部分を僕の横にいる安部さんに見せる。
 暇なので僕も彼女と並んで一緒に本を持って読み始めた。

――天才と教師連とのあいだには、昔から動かしがたい深いみぞがある。天才的な人間が学校で示すことは、教授たちにとっては由来禁物である。教授たちにとっては、天才というものは、教授を尊敬せず、一四の年にタバコをすいはじめ、一五で恋をし、一六で酒房に行き、禁制の本を読み、大胆な作文を書き、先生たちをときおり嘲笑的に見つめ、日誌の中で煽動者と監禁候補者をつとめる不逞の輩である。学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、十人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである。よく考えてみると、それももっともである。教師の役目は、常軌を逸した人間ではなくて、よきラテン語通、よき計算家、堅気な人間を作り上げる点にあるのだからである。しかし、誰がより多くのひどい苦しみを受けるか。先生が生徒から苦しめられるのか。あるいはその逆であるか。両者のいずれがより多く暴君であるか。両者のいずれがより多く苦しめ手であるか。他方の心と生活とをそこない汚すのは、両者のいずれであるか。それを検討すれば、だれしも苦い気持ちになり、怒りと恥じらいとを持って自分の若い時代を思い出すのである。しかし、それはわれわれの取り上ぐべきことではない。真に天才的な人間ならば、傷はたいていの場合よく癒着し、学校に屈せず、善き作品を作り、他日、死んでからは、時の隔たりの快い後光に包まれ、幾世代にかけて後世の学校の先生たちから傑作として高貴な範として引き合いに出されるような人物になる、ということをもってわれわれは慰めとするのである。

 安部さんは真剣な顔で僕が指摘した部分を読み終えた後に、大きく相槌を打った。
「あー、言われてみればこんな文章あったね。あんまり印象には残ってないけど」
 それから不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「それでこの部分がどうしたの?」
「ひょっとしたら教材に選んだ人はこの部分を意識してたんじゃないだろうかって。学校に屈せずからの下りをもう一回読んでみて」
「分かった。学校に屈せずの下りだね」
 
 安部さんはぐっと顔を近づけ指をさす。自然と安部さんの顔が僕の肩辺りに寄りかかった。
思わぬ接近に僕は少し動揺したが、そんなことに気づていない安部さんが確認するように言った。
「『車輪の下』を傑作として学校や塾で扱うことで慰めとするってこと?」
「まあだいたいそんなところかな。この作品が作者ヘッセの自伝的な作品だってことは知ってるよね。神童として扱われていたヘッセは少年期に挫折を経験したんだ。それこそ主人公ハンスみたいに」
「本の解説に書いてあったから知ってるよ。でも現実のヘッセには愛情を注いでくれるお母さんがいたから救われたんだよね。その話を聞いてちょっとほっとしたよ。『車輪の下』は救いがなさすぎて」
 
 笑いながら突っ込む。
「まあ本当の自伝だったらそもそも出版できないからね。なんたって若くして死んじゃうんだから」
 少しだけ二人で笑い合った後に僕は本題に戻った。
「で、教材を選んだ人はヘッセへの敬意を示してるんじゃないのかなあ。学校教育に押しつぶされそうになっても諦めずに傑作を残した小説家に対して。皮肉なんかじゃなくて」
 安部さんは納得したように何度か頷いた後にこう尋ねた。
「なるほどね。この話、先輩には伝えたの」
「もちろん教えたよ。でも横を向いて『ただの偶然じゃないの』って面白くなさそうに答えただけ」
 
 安部さんは本当に楽しそうに微笑む。
「すごい先輩らしいね」
 僕はその曇りのない笑顔が安部さんらしいと思った。
「美月、こっち来て」
 そこで安部さんは友達に呼ばれて行ってしまった。僕はもう一度その部分を今度は一人で読み返す。僕は急にある一節と先輩との奇妙な符号に気づき思わず笑ってしまいそうになった。
 教師を尊敬するどころか嘲笑的に見つめ、タバコを吸うとはまるで先輩みたいだ。あとは酒と恋がそろえば完璧だ。

 両校の部員が整列して一斉に一礼する。先輩は結局来なかった。あの発言は冗談かと思っていたがやっぱり薄情な人だ。
 もっともクラス全体で言ってもそんなに出席率が良いというわけではない。全体で三〇人を優に超えるのに出てきているのは僕と安部さんを含めて四、五人。
 まあこの暑さだししょうがないのかもしれない。それにうちの学校は特にスポーツに力を入れているというわけでもない。

「見てらんねーな、これ」
 僕の前に座っていた男子生徒がタオルで顔の汗を拭いながらポツリといった。すぐにその人は連れ合いから窘められていた。僕も人前で言うべきことじゃないと思う。だが多分それは皆の本音だった。
 野球なんてテレビでたまに見たことしか無いが、それでも実力差は明らかだった。動きが違うのだ。うちの高校はヒットを一本しか打てていない。スコアも五回表で九対零と圧倒されている。相手の吹奏楽部が伸び伸びと演奏している。

 こんな会話が聞こえた。
「コールドゲームになるのって何点差だっけ」
「たしか五回までに十点差ついてると駄目じゃなかったか」
 そんな会話をしている間にもゲッツー崩れで相手に一点が入る。
 ようやく五回表の相手の攻撃が終わり裏が始まった。ワンアウト取られた後に那須がなんとかフォアボールで一塁に出た。

 次の打者はバントの構えをしている。
「この点差で送りバントかあ」
 ため息が出そうな声で誰かが言った。確実に送って那須が二塁に到達し初めてチャンステーマが流れ始める。
 ノーツーからの三球目を打者が思い切り引っ張った。三塁手が飛びつこうとするが三遊間を打球が抜けた。サードコーチャーが激しく腕を回す。那須が全力疾走でホームに突っ込んでいった。
 キャッチャーが決死のブロックを試みる。一瞬の、本当に少しの間が空いて審判が右手を素早く上げてアウトと叫んだ。
 球場の外に出ると部員たちが肩を抱き合っておいおいと泣いていた。那須に声を掛けようかと思ったがとても部外者が立ち入れる雰囲気ではない。僕は安部さんと一緒に帰った。

「ずりーよな」
 翌日学校で会うなり、那須は突然こう言った。意味が分からなくて思わず聞き返してしまう。
「え?」
「相手の高校のことさ。まず才能や体格からして違う。特待生制度で県外からもかき集めてるんだからな。こっちはごく普通の高校生だ。人数も違う。あっちは一〇〇人近くいるのにこっちはほとんどの部員がベンチ入りできる。練習量も違う。あっちは専用の球場がある。こっちにはそんな便利なものはなくて他の部活とひしめき合って窮屈に練習している。おまけにテスト期間中は部活が出来ない。そのうえ勉強時間確保のため週一で休みがある。まともに練習できるのは長期休暇の時ぐらいだ」

 僕はちょっと困惑した。那須は寡黙というわけではないがこんなに長々と喋るやつだったとは思っていなかった。それからあいつは絞りだすように言った。
「でもセーフになりたかったな。あの試合」
 僕の方を向いて尋ねた。
「お前一点取ってどうするんだよって思っただろ」
 僕は否定することが出来ずに押し黙る。

「いや責めてる訳じゃない。それが合理的な判断ってやつだ。一点取ったとしてもなんせ満塁ホームランが二回出ても逆転できないんだ。しかもそれまでボコボコにやられている相手にな。逆転は絶望的、限りなく零に近い。俺もそこまで馬鹿じゃねえ。勝てないってことは分かってたよ。でももう少し先輩達と野球がしたかった。ただそれだけだよ」
 そう言ったきり黙っている那須にどんな慰めの言葉をかけても嘘らしくなってしまいそうで僕は何も言えなかった。その代わりにこんなことを尋ねたくなった。
「那須にとって一番大切なことって何?」
那須が笑いながら答える。
「なんだよその訳の分からない質問は」
「いや、先輩に聞かれたことがあってさ」
僕はちょっと恥ずかしくなったけれど質問を続ける。
「やっぱり野球?」

 あいつは照れくさそうに答えた。
「まあ今はそうだろうな」
「どうして」
「そりゃあ楽しいからだよ。チーム一丸となって同じ目標に向かうってのも悪くないぞ。先輩は嫌いそうだけどな。そういうの」
「高校を卒業したらどうするんだ。大学でもやるのか」
 あいつは黙って頷いた。僕は意地悪で不躾な質問と分かりつつ言葉を重ねる。
「その後はどうするんだ。プロを目指してるのか」
 
 あいつは頭を掻きながら笑って答える。
「質問ばっかりするなあ。今日のお前は。プロになんてなれるわけねえだろ。草野球でもやるさ。それにまた別の大事なことが見つかるかもしれないだろ」
「見つからなかったら?」
「その時はまた考えるさ」
 あいつの顔はとびきりの笑顔で僕はなんだか救われた気分になった。

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