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第38話

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 月日は流れ、とうとう『名バス運転士ホームズ』の最終回が放映される日となってしまった。だからって自宅で観るために休みにするつもりなんてなく、バス運転士として相変わらずバスを走らせている。そして幸運なのか当然なのかはまだ半信半疑だけど、ひなちゃん以外の人には気づかれていない日が継続している。なのでその点ではもうだいぶ安心していたので、変な緊張感がなくいつも通りの安全運転を実践できていた。
 順調なバス運転士業務とは対照的なのが俳優活動の方だ。と言っても仕事がないという話ではない。むしろ逆で、『名バス運転士ホームズ』の大ヒットのおかげで僕にドラマ出演などのオファーが殺到しているのだ。それなのに燃え尽き症候群なのか、今はバスの仕事を週に2、3回ではなくコンスタントに週に3回出て、俳優業の方は……だ。監督が乗り気の『名バス運転士ホームズ2』なら、僕もすぐにでも撮影に臨んだことだろう。しかし監督は気持ちとは裏腹に話を考えるのに四苦八苦というかスランプなのだそうだ。あの監督にスランプがあるのは驚きだけど、同時にあの監督なら必ずスランプを脱してまた数々の素晴らしい話を考えると、僕には確信があった。そうは言っても、続編が始まるのは早くても半年か1年後くらいだろうと、どこか他人事でもあった。
 ただいつまでも俳優業を疎かにしていては、ちょっと有名になったからといって、この生き馬の目を抜く世界である芸能界での仕事が無くなってしまう。それでも僕にはバス運転士の仕事があるから、余計に俳優業に前のめりになれないのかもしれない。僕の悪いところだ。なので自分自身にムチを打つためにも、この最終回が放映されたら次に出る作品を決めると塚谷君には言ってある。
 僕が気まぐれでバスの仕事を増やしかねない可能性があるので、塚谷君は今ごろ候補作品を必死で絞ってくれていることだろう。おそらく事務的書類が山となっているデスクに埋もれて。さらに社長の叱咤激励を受けながら。僕にできる事といったら、塚谷君が選んでくれた候補作品の中から次の出演作品を塚谷君と一緒に決める事と、その時に忘れずにドーナツを差し入れる事くらいだろう。本当に塚谷君には感謝だ。そして出演作品が決定したなら、みるみるうちにやる気が湧き出てくることを、僕は知っている。
 『名バス運転士ホームズ』がこんなにも評判になったのに、僕は何事もなくバス運転士を続けられていることで、再び主役を演じても大丈夫なのではという気持ちがないわけではない。オファーが必ずしもドラマの主演だと限られていないことくらいは理解しているし、たった1本ヒットしたくらいで何をうぬぼれた事を言ってるんだと攻められるのかもしれないが。それでも一度くらいなら、一人悦に入って天狗になってみるのも悪くないような気がした。どうせ監督のように、僕の撮影を週に2回までという条件をのんでくれる人はそうそういないのだから。これもモチベーションを上げる一つの方法だろう。
 時間も来たことだし、ここからは気を入れ直して本日3本目の運行を出発しよう。今から出るのは、健二さんとひなちゃんが乗り降りするバス停を通る路線だ。通勤通学のピークが過ぎたこの時間は少ないのが当たり前とはいえ、今日は誰もいない状態で発車した。ひなちゃんが出演した回が放映されて以来、この路線を走っているとマスコミ関係者のような人たちを度々見かける。健二さん自らが発表したわけではないが、やはりどこからか情報が漏れてしまったのだろう。すぐに記者会見を開いた健二さんはすべてを正直に話すと、世間の人は好意的に受け止めてくれた。ひなちゃんのこれからを名言しなかったが、まだ小学生なのでそっとしておいて欲しいとだけはお願いしたのにもかかわらず、ひなちゃんのプライバシーに干渉しようとしている。
 ということは、僕の正体に気づく可能性の高い人が、必然的に増えているということになる。だからかどうか分からないが、最近ほとんどいや全くと言っていいほどに、ひなちゃんがバスに乗って来なくなっていた。僕の出番のない日に乗ってきてる可能性がないわけではないが。
 そして誰も乗ってこないまま、あのバス停が近づいてきた。バス停が目に入ると、遠目に見た限りでは明らかに誰もいない。それでも淡い期待を持ちながらゆっくりバス停を通り過ぎようとしたその時、ひなちゃんらしき子供がバス停に向かって走って来るのが見えた。ただ歩道を走っているだけかもしれないが、止まる準備だけは一応しないといけない。減速し始めて束の間、完全にひなちゃんだと認識できたので乗る乗らないは別として嬉しかった。なにせ久しぶりに顔を見られたのだから。
 ただ、ひなちゃんの表情が切羽詰まっているように見えるのは気のせいだろうか。バスに乗り遅れまいと走っているからにしては必死すぎるようだけれど。と思ってすぐに、ひなちゃんのすぐ後ろにもう一人走ってくるのが見えた。どう見ても、たまたま二人の人間がバス停に向かっているようには見えない。ひなちゃんは明らかに後ろの人物から逃げているようだ。そしてその後ろの人物は男のようだけど、ひなちゃんに向かって何か叫びながら追いかけている。これは夢でもなければドラマでもない、現実だ。
 今の僕はひなちゃんを助けなければならない。バスを運行中だとかそんなのは、二の次だ。ものの数秒いや十分の数秒で判断すると、バスの前扉を開けてひなちゃんがタイミングよく乗れる位置で急ブレーキをかけてバスを止めた。お客さんがいなかったのが幸いしたが、もしいたとしても同じ行動をしただろう。バス運転士としては失格だけれど、人間としては抗えない決断だった。
 僕の作戦は成功したかに見えて、ひなちゃんが乗ってきてくれたので、すぐに扉を閉めようと開閉レバーを操作した。しかし開閉レバーと実際に扉が閉まるまでの僅かなタイムラグだけは、僕にはどうしようもなかったのだ。間一髪間に合わなくて、ニット帽にサングラス姿の男が手には刃物を持って入って来てしまった。さらに勢いそのままに、ひなちゃんを捕まえてしまったのだ。結果を見れば悲惨だけれど、最悪とは言えない。少なくともバスの中にいる限りは、僕に何かできることがあるかもしれないのだから。ただ残念ながら直ちにというのは不可能だというのは理解している。今は手も足も出せない状況に陥っているというのが本当のところなので、まずは落ち着かないといけないのだろう。きっと勝機はやってくる。
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