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第39話

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「おい、すぐにバスを出せ」
 ここで下手に抵抗しては、ひなちゃんの命に関わるので、僕は何も言わずにこの男の言う通りにバスをそっと発車させた。少なくとも僕は大丈夫なようだ。普段通りにバスを操れるだろう。それにまたもや他に乗客がいない事が幸いしたようだ。協力して犯人を取り押さえる人がいないのは残念なのかもしれないが、巻き添えになる人がいない事の方が今は大きい。ひなちゃんには申し訳ないけれど。だから絶対に僕が命に替えてでもひなちゃんを助けるつもりだった。ひなちゃんが知り合いとかではなく、このバスを運転しているバス運転士としての責務として。
 こんな時に僕は自分でも驚くくらいに冷静で、まずはこの男を刺激しないように黙って言う事を聞くのが賢明だと判断した。だけど恐怖のあまり声も出せないひなちゃんを安心させるために話しかけたくて仕方がない。このような状況になったら大人でも恐いだろうに、ひなちゃんはまだ小学生なのだから。ただ、今は心の中だけでひなちゃんに、「きっと助けてあげる」と話すしかなかった。何度も何度も。
 この男の命令で通常のバス路線を逸れて、バスはしばらく闇雲に走っていた。この男の計画とは大幅にくるっているようで、こんな目立つバスでどうやって逃走するか考えあぐねている。この男にしたら、ひなちゃんの逃げ足もだけど、まさか運行中のバスがひなちゃんの手助けをするなんて大誤算もいいところなのだろう。かといって僕を痛めつけてからバスから降りたくても、そのためには一瞬でもひなちゃんを離さなければ難しい。そのすきに、ひなちゃんに逃げられては元も子もない。僕が五体満足の状態で、この男がひなちゃんを連れてこのバスから逃げるなんて論外だ。この男だって分かっている。
「おい、方向幕を回送にしろ」
 この男が思い出したかのように発した。いくらかは冷静さを取り戻したのだろう。そして方向幕という言葉を知っているということは、少しはバスの知識があるのかもしれない。免許があるかどうかは別として、バスを運転できる可能性だって視野に入れておくべきだろう。僕に何かがあっても、この男は痛くも痒くもないなんてことがあるのだろうか。僕が良くない事を考えていると、この男が言葉を続けた。
「おい、無線とかを使って外部に連絡をするんじゃないぞ」
 少しではなくて、まあまあバスのことを分かっているようだ。気になったのは、「無線とか」の「とか」だ。それは携帯電話の事だろうか。それとも『SOSボタン』の事だろうか。あるいは両方とも。携帯電話はさすがに目立つけど、SOSボタンならさり気なく押せるのに。しかしこの男がSOSボタンの存在を知っているのかはっきりしないのに使うのは危険だ。少なくともこの男が僕のすぐ横で執拗に目を配っている間は押さずにおこう。
 この男にとっても僕にとっても進展がないまましばらく経った時、ある程度予想していたことが起きた。バス会社から無線で僕の運転しているバスが呼ばれたのだ。予定時刻を大幅に過ぎているのにバスが一向に来ないので、僕がバス停で待っている人がバス会社に電話をかけてきたのだろう。僕が無線に応答しないので、何度も呼びかけてくる。これはもう僕ではなくて、バス会社とこの男の我慢比べだ。そして何も知らないバス会社が負けるはずがなく、この男改め誘拐犯が根負けをした。
「おい、無線の電源を切れ」
 もちろん僕は素直に従う。これで無線による連絡ができなくなったが、バス会社はそんな事は知らない。だけど全く反応がないので、次は僕の鞄にしまってある携帯電話ににも呼びかけるだろう。それは誘拐犯も分かったようで、僕に携帯電話の在処を聞いてきた。そしてそれをひなちゃんに取らせてから、自分が奪い電源を切った。これで外部との伝達手段は無くなったが、バス会社は無能ではない。無線にも電話にも応答がないだけなら、僕が眠っていて気づいていない可能性を考える。それなら始発のバス停に僕のバスがあるはずなのだ。しかし無線を聞いていた次の時刻にその始発のバス停を出る運転士から、そこにもその辺りのどこにもバスがないと連絡が入る。それを皮切りに管内すべての無線各局から、僕が乗っているバスを見ていないと次々に連絡が入ってくる。もし事故か何かで無線や電話に出られない状態なら、他のバスが気づくか目撃した人が警察に電話するだろう。そこからバス会社にも連絡が来るはずなのに、少なくとも現時点では情報が全くない。
 このバス会社の路線バスが走る道に、僕のバスがないのが明白となっている頃だろうか。事故の情報が入ってないかの確認も兼ねて、バス会社が警察に相談するのはもう時間の問題だと、僕は期待を込めて考えていた。だけど、実際のところは、そうではなかった。
 ひなちゃんがこの誘拐犯から逃げているのを見たマスコミ関係の人が、警察に電話をしていたのだ。それで警察は確認のためにバス会社に連絡をして、さらにバス会社が僕に連絡を試みたが反応がない。なのでバス会社も警察も事件は本当だったと確信することとなった。
 そんな事は未だ知る由もなく、僕は誘拐犯を刺激しないように黙々と指示通りにバスを走らせていた。ただ、あらゆる事に集中していたが。仮に一匹の蟻が誘拐犯の足元をそっと歩いていたとしても、今の僕なら気づいただろう。
 だから、バスの100メートルほど後方をずっと付いてきている車にも気づいていた。しかしこれがまた僕を悩ますことになる。確率としては警察車両という方が高いけど、誘拐犯の共犯者という可能性は捨て切れない。共犯者だったなら、すでにバスの中の誘拐犯と連絡を取り合っているはずだ。しかし何らかの理由かもしくは作戦として単独犯に見えるように振る舞っていることも考えられる。
 どちらにしても、もう『SOSボタン』には用がないので、押すことはないだろう。でもこのまま走っていても埒が明かないので、僕はちょっとした賭けに出た。
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