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第8話

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 てっきり逃げてしまったと思っていた「ワンワワンッ!」と「あけちくーん!」の声の主が逃げ帰っていなかったことに、私は複雑な気持ちだった。私を見捨てていなかったのは嬉しいのだけれども、せっかく私一人で成し遂げてやるという大いなる野望に水を差されたのだから。
 というのは照れ隠しで、明智君と阿部君の声を聞けて嬉しいというのが本音だ。私だって、たまには素直になるさ。
 それはさておき、ミッション最中なのに、あの阿部君が「イエロー!」ではなく「あけちくーん!」と叫んだということは、とてつもない事態に陥ったに違いない。私の大事な仲間が「何者だー!」の声の主との間に何か良からぬ事が起こっていると察した私は、考えるよりもお尻に大きなアクセサリーがあるのを忘れて体が自然に動いていた。
 しかし、走りだしたものだから、大きなアクセサリーが反動で右に左に前に後ろに揺れて自分の存在を主張してきたので、すぐに思い出してしまったのだ。食らいついて離さないだけでも大したものだが、全速力で走る私の振動に耐えるなんて褒めてあげようじゃないか。敵ながらあっぱれだ。ただ、今はお前の相手をしている場合ではないのだ。許せ。
 気持ちだけでも大きなアクセサリーとサヨナラしたところで、ちょうど私は組長宅の表に到着した。玄関から門にかけては、眩しいくらいの明かりに灯されている。そしてその光を浴びながら、大の字で仰向けに寝転びながら空に向かって悪態をついている一人の男がいた。いろんな意味で関わりたくないだろう。
 しかしその男は、忍び足なんてしている場合ではなかった私の足音と大きなアクセサリーが奏でる不協和音に気づかないほどは我を忘れていなかったようだ。おもむろに立ち上がると、胸元から大きな銃――私の算段では散弾銃だ――を取り出し、胸元に散弾銃を隠し持っているなんてイカれてると心の中で呟いた私に向かって銃口を向けてきた。ここは冷静に銅像のように固まるしかないだろう。あわよくば、本物の銅像と思いますように。
 しかし、そいつはバカではなかった。気が狂ったように悪態をついていたから万が一があるかもと期待した私の方がバカ……じゃなくて、純粋だったようだ。それでもいきなりぶっ放すやつではなかっただけでも喜ぼうじゃないか。
「おい、返事くらいしたらどうなんだ?」
 え? あっ、私は肝心な話を聞いていなかったぞ。まずい。あの冷静な口調は怒りを通り越した先の無慈悲な事をいとも簡単にやれるほどのタガを外された極悪の悪魔並に怒っている。
 どうしようか? 素直に聞いていなかったと言って、もう一度言ってくれるようにリクエストしてみようか。
 いや、そんな事をすれば、あの引き金に掛かっている人差し指が自動で動くに決まっている。ここは腹をくくり、撃たれるのを想定しておいて、その瞬間に跳び逃げればいいじゃないか。今の私は絶賛ゾーン中なはずだ。タイミングを外さなければ、きっと避けれる。自分を信じよう。
 ああー! 今の私の臀部には厄介なアクセサリーが付いているじゃないか。普通に走る分にはそれほど邪魔にならないが、銃弾をかわすほどの速さで動くにはとてつもない大きな足枷となるぞ。
 よし、こうなったら、当てずっぽう風の名推理を駆使して、あいつが何と言ったか突き止めてやろうじゃないか。私にしたら、赤子の手をひねるようなものだ。それが分かったとしても撃たれるんだろと思う奴は大勢いるだろう。だけど時間を稼ぐことによって、事態が急展開することだってあるんだからな。ハリウッド映画では定番の展開なんだぞ。
 というわけで、考えるとするか。
 怪しい奴が目の前に現れたなら、大体最初の質問は「お前は何者だ?」だろう。ということは……いや、待てよ。さきほど明智君と阿部君の声以外に、もう一人の声が聞こえたぞ。そのもう一人は、きっと、こいつだ。こいつが「何者だー」の声の主に違いない。
 それから、こいつは無様に倒れていて、阿部君と明智君が見当たらない。ということは、私には遠く及ばないが私の優秀な部下たちにやられたのだ。
 そして、私が現れた。こいつはきっと「お前は、さっきの奴の仲間だな?」と言ったのだ。
 すごい、答えが出た。いや、当たり前か。名怪盗なら人の心を読めて当然なのだから。
 ただ、大事なのはここからだ。ここで素直に仲間だと認めたなら、怒りに任せて私を撃つだろうか? 願望を込めて、撃たない方に賭けよう。明智君と阿部君の居場所を突き止めるために、私を生きたまま捕まえようとするはず。そうなれば私に勝機は十分に出てくるぞ。
 答えは出ているが、大怪盗なるものもう一つの可能性を探るものなので、もし「仲間って、なんの事だ?」ととぼけたとしよう。するとこいつは「すまない、ワシの勘違いでしたな。お詫びに、ウチでお茶でもどうぞ……」とかなんとか言うだろう。「ウチで……」と言っているくらいだから、こいつはこの家の主、いわゆる組長なのだな。ほとんどが私の妄想とはいえ、組長だというのは正解だろう。その方が話を進ませやすいので、そういう事にしておこう。
 妄想を続けようじゃないか。お言葉に甘えて客間へ通されお茶を飲むためには、このお面を外すのが礼儀じゃないのか。私の顔を見られてしまうぞ。万一や後々に備えて顔を知られていないことに越したことはないはずだ。それは死に値すると言っても過言ではない。
 答えは必然的に一つとなったが、その一つが正解中の大正解なので、私は自信満々に「ああ、そうだ」と答えると同時に、組長が飛びかかってくると思って身構えた。
 なのに、組長はいきなり私の足元に向かって散弾銃をぶっ放しやがったのだ。幸い当たりはしなかったが、威嚇のつもりだったのか、怒りでコントロール出来なくて外したのか分からない。どちらにしても、広範囲に飛ぶ散弾銃の弾が当たらなかったのは奇跡に近い。そしてそんな奇跡が何度も続くとは思えないので、次に撃ってきたら当たる可能性が高いぞ。
「くそ! 外したか。急所に当たらないように足を狙ったが、下すぎたか」
 なるほど。確かに生け捕りにさえ出来ればいいのだから、私が重傷を負っても構わないのだろう。推理は完璧ではなかったが、当たらずとも遠からずということで、大きと捉えれば正解だ。やっぱり、私は凄いのだ。
 なのに、絶体絶命の状況にあるのはどういうことなんだ? お尻にぶら下がっている大きなアクセサリーがとっとと離れてくれればいいのに。身軽になれたなら、私は散弾銃だろうが何だろうが避ける自信はあるのだが。この素早く動けない状態では、焦った組長が適当に撃った弾が足どころか頭や急所に当たるかもしれないぞ。足に当たったとしても、遅かれ早かれ天国へと旅立つのだろうけど。
 せっかく怪盗になってのに、こんなにも早く終るのか。
 だめだ、諦めるなんて私らしくない。考えろ考えろ考えろ。
 ピッカーン! 閃いたぞ。あの散弾銃は弾が2発しか装填できないタイプだ。だからもう一回外してくれれば、次の弾をこめる間に逃げ切れるか組長をやっつけられるぞ。少しでも可能性を高めるためには、今は組長に正対している体だけでも横向きになれば、的が小さくなるじゃないか。それでもう一度組長が外す奇跡を期待してみよう。
 私はこう考えながら、組長が私が動いているか動いていないか判別できないほどゆっくりそっと確実に顔以外を横に向けていると、なんとこの組長は背中からもう一丁の散弾銃を持ち出した。
 嘘だろ。こいつは、さっき背中に散弾銃を背負いながら大の字で仰向けに寝転がって悪態をついていたのか。暴発したらどうするんだ。いや、組長の心配をしている場合ではない。今は私の心配だけをしないと。
 天寿から大幅に手前の私の天国行きの確率が、単純計算で3倍に跳ね上がったぞ。数学の神様を自負していた頃の私なら、もっときちんと計算しただろうけど……あの数にこれを掛けて2乗して……うー、こんな計算叩き割ってやる。掛け算とか割り算に叩き割るを掛けてやった。
 ……私は何をしてるんだ。死ぬ間際にこんな下らない言葉遊びをしている場合ではないだろ。
 いやいや、死にたくない。諦めてはだめだ。
 だけど、おしっこを2,3滴漏らしているな。ということは、心と裏腹に私の体は諦めたようだ。組長が後3回外してくれますようにとは願わないで、せめて漏らした事だけでも誰にも特に明智君に知られませんようにと願って、私はゆっくり目を閉じた。
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