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第23話

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 私と明智君と阿部君とトラゾウは緊張した面持ちで車から降りたが、言うまでもなく阿部君パパママは車の中で待機だ。私たちが、特に私がかっこいいのもあって、二人は最後の最後まで無言で一緒に行きたいアピールをしていた。もちろん、阿部君を筆頭にガン無視だ。明智君だけは阿部君ママがさり気なく見せている1000円札を眼光鋭く見つめていて、自分の一声で私はともかく阿部君が考えを変えない事を知っているので、1000円札を奪うだけ奪って知らない顔をするのを選んだようだ。さすが明智君。
 トラゾウの尊敬の眼差しに見守られながら、明智君が肌身離さず付けているよだれかけのような首飾り型小物入れの中にコソコソと1000円札をしまうのを、私と阿部君は気づかないふりをしつつ歩くペースを最大限に落としてあげた。うん、これだけで明智君のモチベーションは爆上がりだ。
 私とトラゾウと別れ、阿部君と二人だけのミッションに口には出さずとも大いなる不安を抱えているのは分かっているので、誰も明智君を責めるはずもない。阿部君は責める気なんてさらさらなく、これで今回も少々無茶を言っても明智君は聞いてくれる、いや、聞かないといけなくなったとほくそ笑んでいた。
 やはり明智君よりも阿部君の方が一枚上手だということだ。
 まあ弱みを握られなくとも、明智君は阿部君の理不尽な要求を断れないのだから、この1000円札が後押ししてくれると考えれば、ウインウインとも言えるのだろう。
 こんな事を考えながら、トラの覆面を被った一人とトラの覆面を被った一頭とトラの模様っぽく塗られた一人とトラそのものの4人は、悪徳政治家宅の車がゆうに通れるほどの大きな門から死角となる街路樹まで、夜中というのもあって誰一人にも見つからないで到着できた。
 もし一般の人とすれ違った時のためにいろいろとシミュレーションをしていたので、安堵よりは残念な気持ちがあったのは、少しでもトラゾウとの思い出を増やしたかったのかもしれない。『タイガーマスクなりきり選手権』の練習をしているファンキーな親子とそのペットのふりをできなかったが、フランスでもっと素敵な思い出を作ればいいだろう。
「ブルー?」
「ガオ?」「なんだ? あっ、……」
「そこの『元ブルー』? 緊張感が足りてないですね。ブルー、大変だけど、こんなリーダーをフォローしてあげてね。ちょっとくらいかじった方が、リーダーも変な演技をしなくてもいいかな?」
「だだだ大丈夫だ。迫真の演技で悪徳政治家宅内を恐怖に陥れてやるから、ブルー、かじるんじゃないぞ。ケガなんてしたら、できる事もできなくなってしまうんだからな」
「ガー、ガオーガ、ガガガーオガオオーオーオ。ガオ?」
「レッドイエロー、ブルーは何て言ってるんだ?」
「『はい』と言ってますね」
 ははっ。どうやら私はトラゾウにかじられるようだな。いやだ。いやだ。
 こうなったら全力で逃げてやる。私が本気で走ればトラゾウよりも速く走れる……わけないじゃないか。
 なんだかんだでトラゾウは今まで、私はおろか明智君すら噛まないでいてくれている。甘噛みすらしないのは、己の歯が凶器になると知っているからだ。だけど阿部君に言いくるめられて、かじらないとミッションが成功しないと勘違いしてしまったなら、純粋なトラゾウはかじるに決まっている。もちろん手加減はするけれど、トラの手加減は人間にとってはさほど意味をなさないだろう。
 うーん、……閃いたぞ。へっへっへっ。こうなったら禁断の技を使ってやる。
 阿部君と明智君とトラゾウが楽しく話している背後に私はそっと周り、3人の意表を突いて走り出した。そう、いわゆる『フライング』というやつだ。ざまあみろ。噛まれてたまるか。
 何が起こっているのかを理解するのに手間取っているであろう3人を尻目に、私は悪徳政治家宅の大きな門の前にたどり着いた。
 うん? たどり着いたのに、トラゾウはまだ大きな街路樹の下で阿部君と明智君と一緒に笑顔で何か話しているじゃないか。おいおいおい、ミッションが始まったことに気づいていないのか?
 トラゾウがいないのに、私がこのまま泣き叫びながら悪徳政治家宅に入っていったら、トラ模様の顔面の怪しい奴が精神錯乱状態で不法侵入したと思われて、パニックに陥れるどころか淡々と捕まり同情されるように説得され、呼ばれた警察官に連れられた病院で精神安定剤のような注射を打たれおとなしく帰されて終わりじゃないか。
 うーん、……戻るか。
「どうした、ブルー? ミッションは始まってるんだぞ。私を追いかけてこなきゃだめじゃないか。恐がってるのか? レッド、やっぱりトラゾウには荷が重いんじゃ。図体は明智君よりちょっと大きいけど、まだまだ子供なんだぞ」
「ガッガオーガー。ガオガオガオーガーン」
「リーダーがおしっこに行ったと思ったみたいですね。おじさんはトイレが近いからしょうがないですね。すっきりしましたか? じゃあ、ブルー、リーダー、始めましょ」
 当初の計画通り、私はトラゾウに追いかけられ襲われるふりをしながら、ふりをしながら、ふりをしながら、ふりでいいんだぞ、悪徳政治家宅に入っていった。半分演技で半分本気の私の悲鳴に、さっそく一人の警備員が何事かと顔を出したので、
「助けてくれー。と、トラが……」と私はさり気なく片手でトラ模様の顔を隠し、もう片方の手で私のすぐ後ろで迫真の演技をしているトラゾウを指差した。トラゾウ、上手いじゃないか。
 冷静に考えれば私の不自然さに気づけたはずなのに、有名政治家宅とはいえおかしな人間が不法侵入してくるなんて滅多にないし、何よりも本物のトラであるトラゾウの迫力に気圧されたのだろう。分かりやすくパニックになったと思ったらすぐに気を失ってしまった。
 誤算だ。こんな小心者が警備をしていて、テロリストなんかが入ってきたらまともに対処できないだろ。日本の将来が心配だ。トラゾウもやり過ぎたと思って反省しているじゃないか。トラゾウ、お前は悪くないぞ。
「ブルー、ちょっと待っていておくれ。あの警備員が倒れた時に頭をぶつけてないか確認してくるからな」
 ケガくらいならまだしも、打ちどころが悪くて万が一の事があったなら、ミッションを中止して救急車を呼ばないといけないからな。そのうえ、他に誰もいないのだから病院まで付き添ってあげて、さらには警察による事情聴取にまで応じないといけないじゃないか。頼むから単なる気絶でいておくれ。
 横たわっている警備員の所まで急ぎ確認すると、脈はあるし呼吸もしている。外傷もない。よし、この役立たずの根性なしの給料泥棒の警備員はこのままにして先に進もう。まったく最近の若い奴はなってないなあ。もし私が同じ立場にいたなら、せいぜいおしっこを漏らす程度だぞ。
 そう言えば、交番勤務時に年下の上司の巡査部長が私のいる交番に配属されてきた日に、交番襲撃の大事件があったが、私はおしっこを漏らしただけなのに、年下の上司の巡査部長は大きい方を漏らしやがったなあ。そのくせ、巡査部長の権力を誇示して、誰にも口外しないように誓わせたのだ。賄賂として缶コーヒーを奢ってくれたのだけれども、何かをもらったのは、その一度っきりだったぞ。
 襲撃犯はと言えば、年下の上司の巡査部長と同じ日に配属されてきたキャリアの新卒警部補があっさりと捕まえたので大事に至らずニュースにもならなかったから、知っている人は少ないだろう。
 年下の上司の巡査部長はこの優秀な警部補にはさすがに口止めをする勇気が湧かなかったので、この警部補なら面白半分で言いふらすなんてしないと信じるしかなかったようだ。
 しかし、年下の上司の巡査部長は知らない。陰で私と新卒警部補の間では、この年下の上司の巡査部長の事を『うんこまん』と呼んでいたことを。
 どうしてか分からないが、この警部補と私は馬が合い、私が警察官だった間で唯一私に優しく接してくれたし、上司であるのに見下すようなこともしなかった。ただ、キャリア組だけあってこの警部補の出世は速く、わずか3ヶ月で警視庁のどこかの部署に行ってしまった時は、年下の上司の巡査部長は嬉しさのあまり狂喜乱舞していたが、私はしばらくの間もぬけの殻だったような気がする。
 このへっぽこ警備員を見て、ついつい昔の事を思い出し感傷に浸ってしまったようだ。前に進もう。次に出てくる警備員はそこそこ骨があってできるだけ大声で「トラが出たー。助けてくれー」と叫んでくれるやつでありますように。
「ブルー、反対側に行ってみようか。早く騒動を起こさないと、阿部君と明智君が何かあったのかと不安になるから急ぐぞ」
「ガオー」
 うーん、トラゾウに追いかけられて泣き叫びながら散策した方がいいのだろうか。その方が目立つしそういう作戦なのだけれど、深夜とはいえ静か過ぎないか? 何かがおかしいような気がする。
 もしかしたら私たちの作戦がどこかから漏れているんじゃないのか。このまま屋敷内まで誘導して、私とトラゾウを閉じ込めるつもりかもしれないぞ。私とトラゾウが一筋縄ではいかないので、情報を漏らした奴に忠告されて万全の捕え方を画策したのかもしれないな。嫌な予感しかないぞ。
 撤退や後退も勇気ある選択だ。まだまだ時間はあるのだから、阿部君と明智君のいる所に一度戻ろう。
「ブルー、一時退却だ」
「ガオ」
 私とトラゾウが気を抜いて大きな門に向かって仲良くスキップで歩き始めてすぐに、一台の黒塗りの高級車が入ってきた。いや、一台ではない。その後ろからまた一台また一台と数珠つなぎで入ってくるじゃないか。あっけにとられ反射的にすら隠れることもできず、私とトラゾウは車のライトに照らされているのにもかかわらず、棒立ちで車はあと何台入ってくるのかなと考えるだけだった。
 車を運転している人も私たちに気づいたようで、少しスピードを緩めつつも私たちに向かって近づいてくる。しかし、私たちが一向にどかないからなのか、トラゾウに怯えたからなのか、トラ模様の顔をした私を未確認生物だと勘違いしてトラゾウよりも恐怖の対象になったからなのか分からないが、私たちの少し手前で車が急ブレーキをかけて止まった。
 ただ、車はその一台ではない。その後ろに続いていた車も順々に急ブレーキをかけて止まると、そのブレーキ音で我に返った私とトラゾウは大きな門の方へ行くのは自殺行為なので、再び屋敷の方へ速攻で逃げると、さきほど気を失わせてしまった警備員の所にたどり着いた。幸い、この警備員はまだ気を失ってくれているし、他の警備員に気づかれてもいない。しかしここに留まっていては見つかるのは時間の問題なので、一時的に身を隠せる場所を探すために屋敷内へと忍び込むしかないようだ。
 そんな悠長に構えている時間はないから、明かりのついていない部屋のガラス戸を不本意ながら阿部君の方法で開け、屋敷内にいる悪徳政治家の家族なり関係者に見つからないように願いながら忍び足で侵入した。トラゾウはちゃんとついてきている。
 この間にも確実に外は騒がしくなってきているので、私とトラゾウの事を錯覚だとは思ってくれていないのだろう。
 ここはまず落ち着かないといけないな。あのたくさんの車のうちの一台には悪徳政治家が乗っていると思って間違いないだろう。だから深夜とか関係なく、この家は静かで警備員もほとんどいなかったのだ。ほとんどと言うか、もしかしたらさっきのへっぽこ警備員が一人で巡回していただけだ。
 もっと早く来ていたら、簡単に獲物を手に入れられただろうに。やはり下調べは大事ということだな。この反省は次回以降に活かすとして、この危機を乗り越えないと次回がないぞ。
 悪徳政治家とSPだけだったら車が3台もあればいいはずなのに、まだまだ後ろに何台も続いていたということは、おそらくどこかの高級料亭で他の政治家か後援者と会談もどきでもしていたのだろう。そして二次会とかなんとか言って自慢の我が家を見せびらかすだけが目的のために、招待して帰ってきたところだな。ということは想定していた何倍もの警備員やSPがいるし、もうすでに警察には通報したはずだ。
 このままじっとしていればどんどん不利な状況になるけれども、この想像もつかない大人数の前でトラゾウに襲われる演技をしたところで、茶番に終わるか下手したらトラゾウが有無を言わさず射殺されてしまう。
 トラゾウ……。震えているじゃないか。トラゾウ、お前だけでも助けてやるからな。
 ゾーンに入っているのか私が本気を出した時の実力なのか、まだはっきりしたわけではないが、そんな事はどうでもいい。今、私は自分がものすごく強く感じ何でもできるような感覚が湧いてきている。
「ブルー……、いや、トラゾウ、よく聞くんだぞ。今から私が外にいる大勢の人間たちを引き付けるから、お前は隙を見てレッドとイエローのいる大きな木の下まで逃げなさい。もしそこに誰もいなかったら、阿部君パパの運転する車まで行くんだぞ。場所は分かるな?」
「ガオー。ガッガオガオ?」
 不思議とトラゾウの言いたい事が分かるぞ。
「私なら大丈夫だ。私の強いところをトラゾウにも見せてあげたいが、これは遊びではないのだ。そしてトラゾウの一番大事な仕事は、無事に故郷であるインドネシアに帰ることだからな」
「ガオー。ガオーオーガガッオーガオーン」
「じゃあ行ってくるからな。トラゾウも油断するんじゃないぞ」
 私はトラゾウを勇気づけるように頭を撫でてあげてから、割れたガラス戸から出ていった。トラゾウを安心させるために口ではああ言ったし、負けない自信があるのも嘘ではない。だけど相手の数と実力が未知数だし、強力な科学兵器を持っていても不思議ではないので、もしかしたら私はトラゾウと明智君を二度と撫でてあげることができなくなり、阿部君に憎まれ口を叩かれなくなるかもしれない。
 私らしくないが、そんな嫌な考えが漠然とよぎってしまった。だけど命に代えてでもトラゾウを守ってやるし、阿部君と明智君の極楽怪盗生活を維持させてやるからな。
 自分のかっこよさで晴れ晴れとした気持ちになり、ゆっくり歩を進め門の方へ近づくと、車は10数台止められていて何十人もの人間が一斉に私に注目した。幸いパトカーやパトランプの付いた車は一台もなかったので、警察はまだ来ていないが、私に攻撃はしてこないであろう要人を除いても、敵は3、40人はいる。
 いやー、武者震いがとまらないぞ。武者震いだからな。余計な詮索はするんじゃないぞ。
 私が恐怖を忘れようと奇声を上げながら人の群れに向かって全速力で走りだすと、ほとんどのSPが素早くポケットから銃を取り出し身構えた。めちゃくちゃ恐いが、私はスピードを落とさず、彼らの射程圏内に入ったところで一気に踵を返すと、無言でゆっくり彼らから遠ざかろうとした。日本のSPはそんな簡単に発砲しないし、警備員にいたっては銃なんて持っていないのだ。
 彼らは私の計算された巧みな罠に引っかかり、守らなければならない要人たちをほったらかし、私を捕まえようと追いかけてきた。とりあえず、神は私に味方したようだ。正義は勝つのだ。
 捕まるか捕まらないかのペースでのらりくらりと逃げる私の後ろを、何十人もの人間が追いかける様はなかなかの見ものなのに、トラゾウ以外には見せられなかったのは残念だ。いや、トラゾウに見せられて良い土産話を持たせてあげられたと考えるか。
 何十人もの人間の最後尾がトラゾウが隠れている部屋の前を、ガラス戸が割れていることに気づく余裕すらなく通り過ぎると、トラゾウは外に出て門に向かってくれただろう。悪徳政治家の屋敷の周りを一周して再び大きな門の前を私とその他大勢が走り抜けるまでに、誰にも見つからずに大きな門を通って敷地内から無事に逃げておくれ。門の辺りには年老いた運動不足の要人しかいないだろうから、見つかったとしても楽に通れるが、唯一恐いのはトラゾウを見て年寄りの誰かが心臓麻痺とかで倒れることだろう。最悪、トラゾウの密輸に関わった者が倒れても天罰だろうが、トラゾウを直接的ではないにしても人殺しにしたくないので、心臓や脳の血管に不安のある者は必要以上にキョロキョロせずに星でも眺めていてくれよ。
 そういう事を考えながら走っていると、屋敷の周りを一周してきて再び門の所までやってきた。トラゾウが無事に逃げてくれたのは明らかだった。年寄りの要人の中の数人が股間に手を当てて恥ずかしそうにしているので、余裕たっぷりで逃げている私がよく見ると、そんな明るくない外灯と月光でもズボンに滝のようなシミがはっきりと見て取れた。
 豪快に漏らしたもんだな。でも気持ちは分かるから内緒にしておいてやる。武士の情けに感謝して、トラゾウに仕返ししようなんて考えるなよ。
 漏らすぐらいなら命に別状はないので問題はないが、念の為に倒れている者がいないのかも確認して安心したかったので、全然余裕のある私がさらにじっくり見ていると、明らかにおかしな動きをしている一人と一頭がちらっと視界の端に入ってきた。
 説明するまでもないだろう。計画した作戦とは少し違いが生じる中、誰もが想像できたことだけど中止という選択は自己中人間と強欲犬にはなかったようなので、私は大勢の警備員とSPを従え『悪徳政治家屋敷周囲走行会』の2周目に入らざるを得なかった。
 想像していた人数よりも大幅に多いとはいえ、トラゾウに襲われるふりをしながら周囲を巻き込んで逃げ回るよりはずっと楽だから、2周と言わず3周でも4周でも逃げて敵の注意を引き付けるのは容易だ。問題は、通報があってこの後やってくる警察がどういう動きをするかだろう。今現在この敷地内にいる者は私を捕まえる事しか考えてなく冷静さに欠けるが、外からやってくる者は冷静に状況を分析して何か違和感を感じるだろうし、政治家の護衛とは違って普段から犯罪者に接し慣れていて扱いにもなれているはずだ。
 それでも、私なら軽くあしらえるが、何かおかしいと感じて屋敷内に入られては、阿部君と明智君では手に負えないだろう。
 とりあえず阿部君と明智君にとっては、警察が来るまでの時間との勝負だな。それまでに最低でも絵だけは手に入れておくれ。そしてあわよくば、お金もたっぷり頼むぞ。警察が来るまでは、私が責任を持って部外者どもを食い止めてやるからな。
 ただ気持ちとは裏腹に年齢を重ねた私の鋼の肉体は悲鳴を上げてきていた。短期決戦ならまだしも、こんなマラソン大会のような真似を続けていられるのも後1時間……いや、正直になろう。10分あるかどうかだ。
 そう思って3周目の私が割ったガラス戸の前を通り過ぎる直前に、そのガラス戸から何かが放物線を描いて飛び出してきた。これはきっと私のために神が与えしものだと信じよう。信じれば叶うのだ。そして私の類まれなる動体視力がそれが何かを認めるが早いか、私はスピードを上げそれでも間に合わないと判断してフライングキャッチをした。
 私がなけなしの体力を使ってまで奪取したものは、明智君のごはん代1年分はする高さなので、どんなに疲れていても手を出すことを明智君から止められていた『超高級エナジードリンクのロイヤルプレミアムバージョン』だったのだ。こんな粋なまねをしてくれるのは、明智君に決まっている。
 明智君と散歩中に年に何回かこのエナジードリンクの空き缶が落ちているのを見つけると、1滴でも残っていないかと拾い飲みをしようとするところを、明智君はまず空き缶を空の彼方まで蹴っ飛ばし、続いて私の顔に往復ビンタをして、さらにお腹をサンドバッグかのように殴る蹴るを数分やった後に、私の頸動脈の1ミリ横をガブリと噛んで止めてくれたものだ。
 誰が見ているわけでもないのだから、拾い飲みくらい許してくれてもいいのに、明智君は体を張って私にプライドというものを教えてくれたのだ。ここぞとばかりに日頃のストレスを発散しようなんて、これっぽっちも考えていない。だから私はこんなにも誇り高き怪盗になれたのだろう。
 ただ、プライドは大きくなっても金銭的余裕が大きくなることもなく、もし血迷って『超高級エナジードリンクのロイヤルプレミアムバージョン』を買ったなら、明智君は自分のごはんが1日3食から3日で1食になると理解していた。なので、このエナジードリンクを置いている自動販売機の前を通り過ぎる時は、明智君は豹変して私自身が雑巾となって道路を雑巾がけしているのを気にせず猛スピードで突破したものだ。
 いや、まあ、そんな苦い過去は今はどうでもいい。私の手にはもう幻ではなくなった『超高級エナジードリンクのロイヤルプレミアムバージョン』があるし、ものすごく疲れているので最高のコンディションと言っていいだろう。もう心の準備は十分だ。飲もう。
 開ける前に改めて缶をじっくり見ると、マジックで何か書かれているじゃないか。なになに……「定価の7割引きで提供します。これを飲んで頑張ってください。あなたの親友、明智君より」だそうだ。
 この家の冷蔵庫から漏れ出ている美味しそうな匂いに釣られ、時間がないのにもかかわらず獲物をそっちのけで、やんわりと止める阿部君を振り切り直行して美味しそうな匂いの原因を平らげ、何か飲み物でもと気取って外国製の天然水を探していると、この『超高級エナジードリンクのロイヤルプレミアムバージョン』が目に入り、小金を稼ぐことを閃き、つぃでに見つけた幻のワインを阿部君に贈呈して、これを書いてもらったのだろう。ということは、阿部君が証人になっているのでタダ飲みはできないし、例え我慢して飲まなくてもきっと飲んだことにされてドリンク代を請求されるに決まっている。いやそもそも、もう疲労困憊なので飲まない選択肢は自殺行為だ。
 7割引きなんて普通では考えられないのだから、必ずしも明智君は強欲ではないのだろうか。タダで手に入れた物を毎日ごはんを提供してくれている人に売りつける時点で強欲だろなんて言ったら、私が許さないぞ。明智君は裏表がないだけなんだ。それに、あの明智君に割引きという概念があるなんて奇跡じゃないか。
 ありがとう、明智君。有り難くいただくよ。だから明智君は強欲ぶりを思う存分発揮して、意地でもこの家から大金をせしめておくれ。今回こそは、私も平等に分け前をもらえることが保証されているのだから、このドリンク代なんてタダ同然になるに決まっている。
 私は蓋を開けた。
「プシュー。ジュワーワー」
 そらそうだ。炭酸入りのこのドリンクは投げられた後、さらに私が走りながら振りまくっていたのだから。なるほど。だから7割引きだったのだな。明智君の計算通りに3割残っているぞ。いろいろな意味で計算高い明智君を誇りに思うぞ。
 さあ飲もう。なんだこれは。めちゃくちゃ美味しいうえにすぐに元気が3割復活したぞ。よし、後15分は走れそうだ。その15分を使って盗れるだけお金を盗ってくれよ、阿部君明智君。
 私の気持ちが通じたのか、きっかり15分後、阿部君と明智君のミッションが終了した合図である大きな花火が打ち上がった。おそらく私以外のみんなは気づいていると思うが、15分で元気を使い果たした私にここから脱出する力は残されていない。簡単に言うと人生最大のピンチだ。しいてプラス要素を上げるとすると、私を追いかけていた警備員やSPも私と同じくらい疲れている。
 ただ通報を受けた警察が……警察はやけに遅くないか? いくらなんでも警察がこんなに遅いわけないじゃないか。もしかしたら悪徳政治家は警察を呼んでいないのか? なぜだ? いや、今はどうでもいい。この危機をいかにして乗り越えるかに集中しよう。
 警察が来ていないのはプラス要素だけれど、警備員やSPは私ほど疲れていないのはマイナス要素だぞ。言いたくはないが、これが年齢の差なのだろう。持久力はこんなにも如実に差が出るものなのか。これは、まいったなあ。もう歩くのすら辛いぞ。
 私は捕まってしまうのか? 悔しいが悪あがきすらする元気がないな。
 だけど安心しろ、阿部君明智君。口が裂けても、お前たちの事は話さないからな。仲間を売るくらいなら、懲役100年くらいなんてなんてことはない。せめて、夏は北海道、冬は沖縄の刑務所に収容してくれないだろうか。この悪徳政治家の裏の顔を話さないのを交換条件にすれば、それくらいの融通は利かせられるだろ。努力しろよ、このかわいそうな私のために。
 さあ、私はもう逃げも隠れもしないぞ。捕まえてくれ。
 
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