上 下
22 / 48

第22話

しおりを挟む
 あくまでも体験だと念を押して、阿部君の両親に手伝ってもらうという誤算が生じてしまったのは、悪徳政治家宅まで歩いて行くのは遠すぎるのに、公共交通機関を利用するには明智君とトラゾウのぬいぐるみの演技がまだまだ未熟だったからだ。
 場違いなほど興奮して嬉しそうに運転していた阿部君パパと、あの阿部君に有無を言わさず休みなくずっとダメ出しをしている阿部君ママと、我々怪盗団ウイズトラゾウは、深夜の悪徳政治家宅から歩いて5分の所まで無事に着いた。そらまだ何も始まっていないのだからと思われるかもしれないが、阿部君パパの車の運転は到着するまで何度も私たちを死の淵へと追いやっていたので、着いた時には一仕事終わったくらいの満足感があったのだ。
 いつもこんな一人カーチェイスのような運転をしているのか分からないが、この先、運転手役を頼むのが不安になったのは言うまでもない。それでも阿部君ママと阿部君は平然としていたので、慣れているのか肝が座っているのだろう。そしてそんなに新しくない車に目立った傷やへこみがみられないので、今まで事故を起こしたこともないと信じよう。私と明智君とトラゾウが神経質すぎるのかもしれないな。
 まあ、予定通りの時間に決めていた場所に無傷で着いたのだから、感謝だけはしておくか。それに他に頼める人もいないという現実があるし。
 さあ気分を切り替えて、ここからは怪盗モードにならないとな。まずは、変装するか。
 そう言えば、阿部君ママがダメ出ししていたのは、怪盗という反社会的な行為をしている事にではなく、主にトラの覆面についてだったのだけれど、阿部君はどうするのだろう? 他の覆面を用意しているのだろうか?
 と心配している私の目に入ってきたのは、前回も使ったトラの覆面だった。よほど気に入っているのもあるのだろうけど、今回は本物のトラのトラゾウがいるので、覆面を新調するなんて気はさらさらなかったようだ。
 阿部君ママにぶつくさ言われながら、阿部君と明智君がトラの覆面をつけている間、なんだか私はあの阿部君が頭ごなしにゴチャゴチャ言われているのが嬉しくて、必死で笑うのを堪えていた。ただ、道中もそうだったが、ときおり阿部君ママのダメ出しが私に聞こえないような小声になって阿部君に話している内容が非常に気にはなっていたが。
 まさか、私の悪口なんて言ってないよな? いや、被害妄想になっていてはだめだ。それに、私にはバカにされるような事がないじゃないか。うん、私は世紀の大怪盗なんだぞ。
 くだらない事をいつまでも考えてないで、私も変装をしないとな。と言っても、安物のふざけたロボットのお面を落として失くしてしまった事を阿部君に伝えておいたので、代わりのお面なり覆面なりを渡されるのを待っているのに、阿部君が全然渡してくれない。阿部君ママにゴチャゴチャ言われ続けて、すっかり忘れているのだろうか?
 阿部君らしく上手に聞き流していたようにも見えたのだけれど、お気に入りのトラの覆面にダメ出しをされて落ち込んでいるのだろう。大事な作戦にそんな精神状態で臨まれるのは困るが、まだまだひよっ子の阿部君に常に平常心を保てるような精神コントロールを要求する私の方が間違っているので、私が阿部君の分まで負担すればすむことだ。
 私なら楽勝……だといいな。
 ただ、素顔で悪徳政治家宅へ入ると、後々街なかを普通に歩けなくなる可能性が非常に高いので、何らかの変装はしなくてはいけない。なので、顔を見られたも何ら問題のない明智君からトラの覆面を借りようか。100円でも渡せばそれこそ尻尾を振りながら貸してくれるが、よくよく考えたらサイズが合わないじゃないか。
 どうしようか? 絵とお宝を盗れて、さらにフランスの美術館に無事に絵を返せたとしても、私だけ日本に帰れず海外で逃亡生活を送らないといけなくなるくらいなら、みんなが延期に賛成してくれるだろう。一つ心配なのは、延期すれば莫大なトラゾウのごはん代が、ほんの一日分とはいえなかなかの負担になることだ。
 前回の報酬の100万円はなぜか慰安旅行代に消えてしまうし、貯金が目に見えて減っているのに、大金持ちの明智君は一銭も出さずこういう時だけ扶養家族面して、トラゾウに負けじとごはんをバクバク食べているし。
 うーん、かくなる上は、得意の変顔を駆使して乗り切るしかないな。あれから一週間も経っているのに、白シカ組の誰にも街なかで指を差されていないのだから、白シカ組の誰ともすれ違っていないとかあのインターホンのカメラ越しに見たのは組長だけだったのかもなんて信じないで、己の完璧な変顔を信じるしかないな。
「準備もできたことだし、最後に作戦を確認しましょ……あー、リーダー、ごめんなさい。今回はトラゾウもいることだし、大サービスでリーダーにもトラの覆面を用意してあげたんですけど。
 パパがそれで遊んでるから、忘れちゃったじゃないの。もおー!」
「ごめんごめん、タイガーマスクは憧れだったから。
 リーダーなら分かりますよね?」
 分からなくもないが、そのせいで、私は仲間外れどころか指名手配される危険まであるのだぞ。
 まったく子が子なら親も親だな。もしこれで報酬を少しでも要求してきたら、タイガーマスクの必殺技でボコボコにして、これから毎回ボランティア運転手をさせてやるからな。酔い止め薬をたっぷり飲んで目をつぶり続けないといけないのは苦痛だが、他に頼める人がいないのだから仕方ない。
 ただここは、心の広いリーダーをアピールしておくか。
「もちろん分かりますよ。私ならなんとでもなるので、気に入ったのなら、阿部君パパのものにしてくださいね」
「本当ですか! ありがとうございます。あれを被って仕事に行ってみようかなー。ハハハッ……娘がものすごい目で睨んでるので」
 うんうん、阿部君、ありがとう。どうせなら4、5百発ぶん殴ってくれてもいいぞ。私は絶対に止めないから。
「リーダー一人指名手配されて捕まっても、それ自体はどうってことないですけどね。だけどリーダーのことだから
 、ちょっとした拷問ですぐに私たちを警察に売るに決まってるから、延期しましょうか?」
「いやいや、そこまでしなくてもいいよ。私の完璧な変顔があれば、絶対に身元はバレないから、このまま予定通りで」
「じゃあ、明智君、トラゾウ、残念だけど今日は帰ろうね」
「ワーン」「ガーン」
「いやいや、私なら大丈夫だから……」
「ひまわり、リーダーができるって言ってるんだから、やってあげなさいよ。名ばかりとはいえ、リーダーなんでしょ?」
「でも、ママ。私、捕まりたくないもん」
「大丈夫よ。このリーダーが悪徳政治家宅から出てきたら、後はトラゾウの餌にすれば……」
「トラゾウはグルメだから食べないよ」
「あのー、聞こえてるんですけど」
「あっ! じょ、冗談ですよ。ママは冗談ばっかり言うんです。なので延期でいいですね? ママはたまに冗談を冗談で終わらせないことがありますけど」
「もちろんだよ。さっそく帰ろうか」
「はーい」「ワーン」「ガオーン」
「あっ、ちょっと待って」
「どうしたの、ママ?」
「なぜか分からないけど、黄色と黒のマジックがあるわ。パパ、知ってる?」
「ああ、それは、せっかくだから、この車を黄色と黒のトラ色にしようかと思って」
「趣味が良いとは言えないから、それは却下ね。だけど、このマジックがあれば、作戦を遂行できるわね」
「どういうこと、ママ?」
「このマジックで、リーダーの顔を塗りつぶせばいいじゃないの」
「ナイス、ママ。じゃあ、さっそく。リーダー、じっとしていてくださいね」
 阿部君一人相手でも、私は拒否権を発動できないのだから、阿部君親子がいて拒否どころかお願いすらする気も起きず、されるがままを選ぶしかなかった。油性マジックは普通の石鹸で落とせるのかがすごく不安で、二人がやけに嬉しそうなのは全然不安ではない。むしろ延期する必要がなくなって嬉しいくらいだぞ。
 黄色と黒のシマシマに塗るだけだから、あるかどうか分からない二人の芸術的センスを気にしなくてもいいのだろうけど、間違ってもふざけて変な落書きをしないように祈ろう。するにしても、額に『虎』とか『怪』とかまでで我慢しておくれ。
 明智君とトラゾウが羨ましそうにしている対象は、塗られる私だろうか、それとも塗る阿部君親子だろうか。答えは分かっているが認めるつもりはない。
 心を無にして全く抵抗せず待つこと5分、必死で我慢している5人分のくぐもった笑い声が完成を教えてくれた。どうせならおもいっきり笑えばいいじゃないか。その方が私もおもいっきり愚痴を言えるのだから。
 覚えていろよ、阿部君パパ。お前のせいだからな。タイガーマスクごっこをやろうとか言って、手加減なしの反則や凶器攻撃をこれでもかとやってやるからな。
「私だと分からないように、きれいに塗ってくれたかい?」
「かかかかかんぺきですぅー」
「そうか。じゃあさっそく作戦開始だな。まずは私がトラゾウに追いかけられながら悪徳政治家の家に入っていけばいいな?」
「はい。私と明智君のミッションが終了したらドカンと派手に花火を打ち上げるので、それまで暴れ回ってくださいね」
「悪徳政治家宅にいる警備員やSPだけだったら簡単にあしらえるが、通報を受けて警察がひっきりなしに来るから、いくら私でもそんなに長くは凌げないぞ。長くなればなるほど、トラゾウの身の危険も心配だしな」
「そうですね。悪徳政治家宅で大騒動を起こしさえすればいいので、状況を見てトラゾウは早めに撤退してもいいですね。うん、そうしましょう。トラゾウは警察が来たら、すぐにこの車に避難してね」
「ガオー」
「うん、その方が安心だ。その後は、私一人でなんとかするよ。警察には特に危害を加えたくないから、見つからないようにかつ派手に逃げ回るだけだけどな。恐いとかそんなんじゃないぞ」
「はいはい、そういう事にしておいてあげますよ。ただ、トラゾウがいなくなっても、リーダーはあたかもトラゾウがいるように振る舞うというかアピールしてくださいね。『助けてー』とか『うわー』とか『あの茂みに隠れたぞー』とか『火を吹いたぞー』とか『日本語をペラペラ話すぞー』とか『大きくなったり小さくなったり自由自在だぞー』とか信憑性のある事を言って盛り上げてくださいね」
「あ、ああ、努力するよ。それでもトラゾウが立ち去ったことに気づかれたら、その時はしょうがない。私がトラゾウの代わりに辺りをパニックに陥れてやるから、阿部君と明智君は安心して落ち着いてミッションに集中してくれ」
「リーダーにできるくらいなら、最初からトラゾウの助けを借りようなんて思わないんですけどね。でもまあトラゾウきっかけで警備の人の精神状態が不安定になってるから、リーダーでも頑張ればトラゾウの100分の1くらいのプチパニックは起こせるかもしれないですね。全然期待していないので、リラックスしてダメ元でやってくださいね」
「あ、ああ。ちなみに、獲物のありかには目処が立っているのか?」
「はい。絵の方は身内以外には見られたくないだろうから、寝室にあるはずです。後はお金だけど、明智君の鼻があれば、よっぽど分厚い金庫の中にでも入れてない限りはすぐに見つかりますよ。問題は、分厚くなくても開けるのが難しい金庫に隠してある場合ですけど、今回は絵とトラゾウの安全が最優先なので、早々に諦めますね。いいですよね?」
「もちろん。絵を取り返して、トラゾウが無傷なら、それだけで十分だ」
 ううー、本当はお金も欲しい。しかし言える雰囲気ではないし、言ったところで未熟な阿部君と明智君では金庫を開けることなんてできるわけがない。
 それなら、私と阿部君の役目を変えればいいんじゃないのか。いやそれだと、警備員とSPと警察を引きつけ続けるのは阿部君には荷が重すぎるというか秒殺のうえに、トラゾウの剥製が悪徳政治家宅に並ぶことになる。そんなの、例え私が億万長者になったとしても、毎晩悪夢に悩まされるじゃないか。
 阿部君は小憎らしくても、私の大事な部下だし、トラゾウは明智君に少し悪影響を受け始めているとはいえ、かわいいことに違いない。
 だめだ。怪盗団の限られた団員を適材適所に配置なんて夢物語なのだから、オールマイティで無敵で優秀な私が一番困難なミッションを担当してあげないと、この怪盗団はたち行かなくなってしまう。
 お金は諦めるか。またどこかの金持ち田舎暴力団に寄付していただければ済むことだ。暴力団組合で怪盗注意報が出てるだろうが、阿部君と明智君が必要以上に足を引っ張らなければ、楽勝に来年度の慰安旅行費用を確保できるだろう。
「あー! もう一つ忘れてました」
「びっくりしたあ。何を忘れていたんだい?」
「トラゾウのコードネームですよ。スポット参戦とはいえ、コードネームがないと仲間じゃないじゃないですか」
 なんだそんな事かという意味で思わず白い目で阿部君を見ようとしたが、阿部君に賛同するかのように、阿部君とトラゾウの間を私以外のみんなのキラキラした目が行ったり来たりしているので、誰よりも素早く動ける私は電光石火の如くみんなに倣った。幸い明智君以外には気づかれていない。明智君には後で300円渡しておこう。
「だめじゃないか、阿部君。私たちの大事な仲間であるトラゾウのコードネームを忘れるなんて。コードネームを付けるのは、阿部君の大事な仕事なんだぞ」「今回の報酬の取り分を1割カットだな」とまでは言えなかった。小心者の私のバカヤロー。
「ごめんね、トラゾウ。すぐに考えるから許してね」
「あのー、パパとママもまだコードネームが……」
「トラゾウ、ちょっとだけ待ってね。かっこいいの付けてあげるからね」
 阿部君パパママ、ここは黙っている方がいいと思うぞ。でないと娘が老後の面倒を見てくれなくなるぞ。
 おっ! さすが阿部君が生まれた時からの付き合いだけあって、一瞬で気配を消したじゃないか。この気配の消し方は、もしかしたら現場でも使えそうだな。一応頭の片隅の押入れの隠し扉の中にでも入れておくか。
「トラゾウ、良かったな。そしてこの車を出た瞬間からお互いにコードネームで呼ばないといけなくなるから、教えといてあげるぞ。阿部君が『レッド』で、明智君が『イエロー』でリーダーであり最も尊敬されている私が『ブルー』だからな。間違っても、私を『ゴッド』とか呼ぶんじゃないぞ」
「ガオー。ガオーガー」
 しかし阿部君にしては時間がかかっているな。どうしたというんだ。
 トラと言えば黄色と黒のイメージで、それにせいぜい白とかオレンジ色が加わる程度なんだから、見た目から付けるなら『イエロー』は明智君だから『ブラック』と『ホワイト』と『オレンジ』の三択のような気がするが。ちなみに私個人のおすすめは『オレンジ』がかわいくてトラゾウにピッタリだな。だけど私が言うと、阿部君はわざと避けるので黙っていよう。
 それにしてもまだ決まらないのか? 私と明智君のコードネームを決めた時のように、何も考えずにさっさと3つの中から選べばいいじゃないか。ご両親がいるから、良い子を装っているのか? 私が知っているくらいなのだから、阿部君が利己主義でいいかげんだという事は、ご両親だって知っているのだぞ。今さら真面目な人を演じてどうする。はっきり言って時間の無駄だぞ。
 なんなら私が決めてあげようか、トラゾウだって私に付けられたいと思っているだろ。
 リーダーの特権を発動して、トラゾウのコードネームを発表しようとしたまさにその時、それを察したのか負けず嫌いの阿部君が口を開いた。
「決まりました。生まれ故郷のインドネシアのきれいな海からインスピレーションを得て、トラゾウは『ブルー』です」
「あ、あのー、『ブルー』は私だぞ、阿部君」
「そうでしたっけ? じゃあ、リーダーは『リーダー』でいいんじゃないですか? うん、それで何の問題もないですね。ねっ、明智君?」
「ワーン? ワン!」
 バカ犬はどうせコードネームのあるべき理由なんて理解していないのだから……いや、奇跡的に理解していたとしても、阿部君が意見を求めれば『イエスマン』ならぬ『イエスワン』となるだろう。ふうー、くだらないダジャレを言うのはなかなかのストレス解消になるじゃないか。若者には分からないだろうな。
 もともと『ブルー』というコードネームは私には似合わないと思っていたし、変にふざけて『ブラウン』とか『シルバー』とか付けられるくらいなら、私らしくいつ何時『リーダー』なら申し分ない。
 なんかどんどんモチベーションが上がってきているじゃないか。ケガの功名というやつだな。
 並み居る猛者の警備員やSPや警察官相手に逃げ回るだけじゃなく、全員を相手に腕試しをしたくなってきたぞ。
 だめだだめだ。そんな一人のわがままでチームプレイを乱してはいけない。特に私はリーダー……いや、リーダー中のリーダーなのだから、己の感情や欲望を押し殺し、怪盗団全員の幸せに重きを置くべきなのだ。
 よしよし、落ち着いたぞ。
「それじゃ、そろそろ作戦開始といこうか」
「はい!」「ワン!」「ガオー!」
 
しおりを挟む

処理中です...