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第34話

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「あ、なんか、でも、汗をかいたからかなー。ちょっとのどが渇いてきましたよ」
 ほらほら、阿部君ママのその手に持っているものは飲み物だぞ。
「あらっ。私ったら。気づかないでごめんなさいね。冷蔵庫でキンキンに冷えている天然水30パーセント入りの水道水を取ってくるわね」
 いやいやいや、そうじゃないだろ。分かってやってやがるな。それに、なぜ取りに行くとか言って『怪盗20面相』のラベルがよく見えるようにワインのボトルを私に見せているのだ? これは遠回しにアピールしても『怪盗20面相』にはたどり着けないぞ。
 仕方がない。まずは私が折れてやろう。一縷の望みはあるし、最悪でも私の考えた妥協案で納得させる自信がある。
「初めはそうでもなかったのに、そんなに見せられたら飲みたくなってきたじゃないですか。ハハハー。ちょっと味見させてもらってもいいですか?」
「まあリーダーがそこまで言うなら、娘がお世話になっていることだし。ついでに私たちもお世話になっちゃおうかなー。ハハハハハー」
 駆け引きばかりしていても、時間を無駄にするだけだな。最後で最高の妥協案を提示してやるか。それで納得してくれないなら、私の記憶から『怪盗20面相』を消すしかない。阿部君と明智君に殴打されれば消えてくれるだろう。その他の記憶や私自身が何者かも忘れてしまうかもしれないがな。刑務所に入るくらいなら、記憶喪失の方がいくらかましな気がする。すべては私の妥協案を阿部君パパママがのんでくれるかだ。
「わかりました。さっきも話したとおり、今の阿部君パパママの実力ではうちの阿部君と明智君の身を危険に晒してしまいます。なので、阿部君パパママは私とだけ組んで今の怪盗団とは別の3人組の怪盗団を作りましょう。言うなれば、阿部君と明智君が一軍で、阿部君パパママは二軍という形です。そして経験を積み一軍でも十分にやっていける能力が備われば、晴れて一軍入りしてください。どうですか?」
「ええー、リーダーって一番のお荷物……いえ、頑張ります。結果を出せばいいんですよね?」
「そうですね。まずは簡単な作戦からですけど、一番優先すべき事は無事に帰ることですので、場合によっては収穫なしか盗れても逃げる時に足かせになるようなら、勇気を持って諦めてください。いいですね?」
「はい、リーダー!」
「あっ、それと、一軍に入るまではこの事を阿部君には悟られないようにしてくださいね。心配させるだけなので」
「はい、リーダー!」
「それでは細かい取り決めは徐々にやるとして、結成記念に『怪盗20面相』でお祝いをしましょう」
「はい、リーダー!」
 あっ、しまった。阿部君パパママがお酒を飲むと阿部君のようになるのをすっかり忘れていたぞ。まあいいか。私には何の落ち度もないのだから説教のしようがないし、最悪濡れ衣のような言いがかりでガミガミ言われても、この上品な『怪盗20面相』ではそんなに長時間悪酔いしないのを確認済みだ。今は私自身が集中しないと『怪盗20面相』に失礼だ。
 阿部君ママがワインを入れてくれたグラスを持ち、本当は自分でなみなみと注ぎたかったが欲張らないで、なんと口上しようか考えた末、シンプルに、「かんぱーい」とだけ言って、私は『怪盗20面相』を口にした。
 もう私の人生が終わってもいいとさえ思えるほどだ。いやもしかすると終わったのかもしれない。だって私は今、天国にいるぞ。阿部君パパママのような天使もいるじゃないか。ああそうか、ここは阿部君の家だったな。天国にいると思えるほど気分が良いのに、冷静な自分が残っている。なんて素晴らしいワインなんだ。
「リーダー、どうですか?」
「ベタな言い方しかできなくて申し訳ないが、言葉にできない美味しさです。そして実に気分が良い」
「そうですよね。ああー、でもなんだか酔ってきたかもしれないです……」
 酔ってくれても構わんぞ。私は何も恐くない。もうすでに阿部君パパが目を見開き凝視しているが、それすらも感動ものだ。
「リーダー、ちょっといいですか?」
 おおー、さっそく説教か。いいぞいいぞ。今の私は何を聞かされてもモーツァルトの名曲に聞こえるだろう。モーツァルトって誰だ?
「なんだい? なんでも遠慮なく言ってくれ」
「はい。私たちのアジトはどこにしますか? ここは、ひまわりがいるし、一軍のアジトには明智君がいるでしょ?」
「そこまで考えてなかったなー。阿部君パパママに任せてもいいか? 怪盗団一軍がフランスに行ってる間に探しておいてくれ」
「わかりました。もう心当たりがあるので楽しみにしておいてくださいね」
「ああ。ああー、肝心な事を忘れてたぞ。仕事は? 阿部君パパママは今どんな仕事をしてるんだ? 辞めるつもりなのか?」
「いくらでも融通が利くから辞めはしないけど、リーダーは私たちの事を知らないの? 一応、二人とも俳優なんだけど」
「え! 嘘? どこかの田舎の貧乏劇団とか自称俳優とか?」
「知られていないのは私たちがまだまだってことでいいけど、怪盗の仕事には差し支えないようにするから安心して」
「まあ、阿部君パパママがそう言うなら信用するが、万が一の時はその俳優生命が終わるというのは覚悟してるのだな? 私も元警察官だということで世間からバッシングされるが、俳優となったらワイドショーとかマスコミが喜ぶぞ」
「そうですねえ。覚悟してるとは言えないけど、例え捕まって晒し者となったとしても、怪盗になった事を後悔しない自信はあるわね。たった一度きりの人生を思う存分楽しんだぞーって。ねえ、パパ?」
「阿部君パパはものすごい目で私を見るのにいっぱいいっぱいのようだな。でもまあ否定はしていないようだから、阿部君ママと同じ気持ちだとしておくよ」
 その後、阿部君ママから怪盗に対する憧れや思いを延々と聞かされると、その気持ちが誰よりも分かる私は模範と言えるくらいの聞き上手となり、酔っているはずの阿部君ママから一切説教されずに、いつの間にか快適な睡眠へと突入していた。
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