女神のパン屋

陸田種子

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女神のパン屋~飛ばされて異世界~ 4

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知らなかった。人は驚きすぎると、本当にマンガみたいに固まるんだ。と、目の前に立つオルレアンを見ながらそう思った。
まぁそうだよな。見たことない物だらけなんだろうし、仕方ないことか。そういえば、こんな異物感満載の店に、この世界の住人を連れてきていいのだろうか?わたしが他所の世界から来たことがばれることに問題はないのか?
そうだ、彼女が固まっているうちに、スマホ君に聞いてみようか

放置していたスマホをタッチ。
『置いていくなんて、ひどいじゃないですか』
いきなり文句を言われた。スマホの存在を忘れるのは今に始まったことではないのだけれど?と思いつつ、一応詫びてから、先ほどの問いをなげかけてみる。
『あぁそれですね、もしダメなら、建物ごと持ってくるなんてことしないので、そこは気にせずとも良いみたいですよ。ただ詳しく説明しても理解されないでしょうから、適当に言っておくことをお勧めしますね』
確かに。説明しようにもその能力がわたしにはないと思うし、まぁ適当に流してもらうことにしよう。
外を見ると、慌てた様子で駆けてくる人たちが見えた。ややこしいから早く動き出してもらわねば。冷凍庫からアイスパックをとりだして、ほっぺたにあててみた。
「ひやっ!」
わたしは涼しい顔をして
「いつまでも立っていないで、適当に座っててね」と声をかける。
さて、ずいぶん時間を無駄にしてしまったから、まずは仕込みを終わらせたい。
「あぁ、そこにあるもの適当に食べてもいいからね。ただし、仕込が終わったら何か作るから、軽くにしておいて」と声をかけてから、明日の仕込みを追加でおこなう。
今日よりきっとたくさんの人に必要とされると思うけれど、どれくらいいるかな?何を作ろうかな?などと考えながら、いつも通りささっと終わらせて、そのまま米を研いでご飯の用意もする。

オルレアンの仲間は五人。そうすると全部で七人分のご飯が必要か。昨日作ったスープでは全く足りないので、そこに新たに野菜を入れ、水を入れて火にかける。いつも店では鍋でご飯を炊くけれど、今日は人数が多いから炊飯器に任せよう。おかずを作るのは面倒だから、炊き込みご飯にするかな。そうすればご飯とスープでもまぁまぁな食事となるだろう。そうだ。さっきもらった乾燥野菜も入れてしまおう。

そんな作業を見ていたオルレアンに声をかけられた
「あなたはここに住んでいるの?」
「ここは店だけなので、別の場所に」と言いかけて、今は違うことに気づいた
「あぁ、この上に住んでいるのね」
「いえ、わたしが借りているのはここだけで、上の階は別の」と言いかけて、それも今はどうなのか?と言葉が続かない。
「他にも誰かいるの?」
「知らないの。わたしの他に誰かいるか、見たことないし(あの青年はすでにいないしね)」
「では、あなたは何処で寝泊まりを?」
「この店の中で寝ているのよ」と、なんとなく小さな声で答えるわたし。
こんなベッドも何もない場所で寝ていることが恥ずかしく思える。
「こんな大きな建物の中にいるのに、他は誰もいないのに?それって変じゃない?寝られる場所がないか見に行きましょうよ」
そう言われて、それもそうだと思った。そして一緒に見に行ってくれるなら、それは心強い。
そうして、みんなでぞろぞろと二階に上がった。
前回はドアをノックしても反応がなく、ドアも開かなかったけれど、今はどうだろう?
今日もドアをノック。やはり反応はない。
ドアノブをもって、ゆっくり回してみた。
すると、昨日は開かなかったけれど、今日はカチャリと音がして、すぅっとドアが開いた。

中を見て、息を飲んだ。

そこには見慣れた景色があった。
わたしの自宅だ。
店から歩いて五分のところにあるマンションの一室が、ここにある?

ドキドキしながら履物を脱ぎ、短い廊下を通って、リビングへ。
そこには、ほんの一日前(二日前だろうか?)にわたしが家を出たそのまんまの姿で、わたしの自宅があった。
オットが選んだカーテン、ダイニングテーブル、わたしの読みかけの本。テレビやミニコンポは何故かなかったけれど、冷蔵庫もその中身も、食糧庫もその中身もそのまま。もちろんオットが残した服や靴、わたしの服も靴もほとんどそのままだ。
ベッドもある。思わずオットが寝ていた場所の、オットの枕に顔をうずめるように寝ころんだ。オットがいなくなっても、そのままにしておいた枕。
帰ってきたんだ。いや、帰ってきたわけではないけれど、今まで通りの生活は、本当にここで出来るようにしてくれたのか。
枕に顔を押し付けるようにしていると
ドアを軽くたたく音。
寝室の入り口にオルレアンが立ち、わたしを心配そうに見ている。
「あぁ、ごめんね。あるはずのないわたしの家があったわ」と苦笑交じりに伝えると、彼女は少し不思議そうにしながらも、深くは追求せずに
「それは良かったわね」と答えた。
「そうだ。他の部屋も見てみなくてはね」と立ち上がり
自宅を出て、今度はもう一件の二階の部屋のドアをノックし、ドアノブを回した。
このドアも開いた。そしてそこには、六人がけのダイニングテーブルと、六人分のベッドがあった。
「今日はもう遅いし、浴場に戻らず、ここに泊まったらいいのじゃないかしら」そういうと、オルレアンはとても嬉しそうに快諾した。

夕食のスープと炊き込みご飯は、そのリビングに持ち込み、オルレアンの仲間たちと一緒に食べることにした。
こんな不思議現象だから、わたしが突然ここに飛ばされてきたことを、伝えないわけにはいかないだろうと思い、ざっくりと話したら、オルレアンは少し考えた後、自身の生活と役割について教えてくれた。
「だから、あの浴場であなたの歌を聞いた時に、一緒に活動してくれる人をやっと見つけたと思い、喜んだの」
「わたしにも、あなたの歌と同じ力があると?そう思うの?」
「えぇ。そう思ったわ」
そこで彼女はクスリと笑い
「さっきも歌ってたでしょう」と言った。
さっき?
「あなたが仕込み。と呼んでいた、あの作業をしている時に、また知らない歌を歌っていたでしょう。それも次から次へと」

あぁ、またやっちゃったのか。そう思った。
どうも無意識で歌う癖があるらしく、よくオットに注意されていた。
風呂場で歌ったり、脱衣所でドライヤーをかけながら歌ったりして、排気口から外に聞こえるからやめろ。とか。
料理をしながら歌って、テレビの音が聞こえない。とか。
でもいったん止まっても、また歌いだすから、無意識に歌っているんだろうと苦笑交じりに言われたっけ。
何度も聞いたレコードを、自分の中で自動再生し、それが口に出てしまう。
それは一人の時か、オットといる時だけかと思っていたら、こんな初めて会った人の前でもやっていたとは。思わず赤面。

「あなたと話して、歌いながら料理をするあなたを見て、あのケーキや、この食事を食べて、期待以上だと感じたわ」
そう言うと、突然立ち上がって
「だって、見て。わたしに必要なものは、あなたの歌だけではないことが、すでに証明されたでしょう」と言って、自分がそこにいる皆に見えるように腕を広げてぐるりと回った。
そこには、初めて見た時のガラスのような透き通った姿ではなく、くっきりと存在感を持って立つ彼女の姿があった。

それまで黙ってわたし達のやり取りを聞いていた、オルレアンの仲間の一人が「確かに。この数年で、こんなに生命力に溢れたオルレアンを見たことがありません」と言った。

オルレアンはわたしの手を取り
「あなたのおかげよ。あなたのこの食事のおかげで、わたしは完全に復活できたのよ。この力はすごいわ。歌の力もすごいと思ったけれど、それはほんの一部のことに過ぎなかったのよ」
と、瞳をキラキラさせて訴えてきた。
なんだか恥ずかしくなり
「明日も早いから、もう寝ないと」と、慌てて自宅に逃げてしまった。

久しぶりの我が家のベッド。
ワイドダブルのベッドに一人で寝る事には、まだ慣れないけれど、知らない世界に連れてこられ、寝袋で寝た昨晩を考えると、こんなに安心できる場所はない。
そして、先ほどオルレアンに言われた言葉が、わたしの心に暖かく響いて、とても幸せな気持ちになると同時に、恥ずかしくてそっけなくしてしまったことへの後悔が押し寄せてきた。
まったく。52年も生きてきて、いまだにこんなお粗末な態度しか取れない自分にがっかりしてしまう。
それでも、明日への期待と共に、あっという間に眠りに落ちた。

翌朝、いつも通りの朝を迎えた。
ベランダに向かう大きな窓のカーテンをあけ、朝陽が昇る前の暗い外を見ながら体を伸ばし、軽い体操をして、自宅の食材を使って、惣菜を作る。店を始めてから続いている毎朝の日課。
普通なら、これは弁当のおかずになるのだけれど、今日はオルレアンたちの朝食となるのか、パンに包み込むのか、どうしようかと思いつつ、習い性での料理。出来上がった惣菜を冷ましている間に、座った状態でのストレッチを行い、読みかけの本を読む。これもいつも通り。
そして出かける準備をして、冷めた惣菜を保存容器に移し、袋に入れて、洗い物をしてから、一応戸締りをして、階下の店へ。通勤距離が短くなったのは楽かもしれない。

今日もパン作りからスタート。
さっき作った惣菜は、ひじきの煮ものと、蒸し野菜。
煮ものは甘酒を入れた柔らかいパン生地に包み蒸しパンに。
蒸し野菜は伸ばしたプレーンな生地に、酒粕チーズと共に乗せて焼こう。
酒粕チーズというのは、酒粕に米粉と菜種油と塩を混ぜたもので、これを焼くとチーズ味になるのだ。乳製品を使わないで作る、ピザ風のパン。
あとは、プレーンな生地にドライフルーツをたっぷり入れたベーグルと
味噌を練り込んだ生地でくるみを包んだベーグル。
リンゴジュースを使って作った生地は、あんこを包んであんぱんに。
種類は少なく、それぞれの数を多くした。どれも初めて見るだろうから、選択肢は少ない方がいいと思うからだ。
あとは、昨日と同じケーキを作り、クッキーも二種類程度作っておく。
発酵待ちやオーブンの順番待ちをしている間に、新しいあんこを炊いて、りんごも煮ておくか。
そうだ、今日はトウモロコシのスープも作ろう。
こちらに飛ばされる前の日本は、夏の終わり、秋の初めという時期で、夏野菜もあるし、秋の美味しい食材も出始めた頃で、店にも、そして自宅にも豊富な種類の食材があったのは、幸運な事だと思う。もしかしたら、その辺も踏まえてこの時期にしてくれたのかもしれないなぁなんて思った。足りない食材は、そのうちこっちで出会えるかもしれない。

全ての品が焼き上がったころ、オルレアンたちが起きて来た。
「おはよう~。今日はとてもよく眠れたから、ちょっと寝すぎちゃったわ」
「おはよう。良く眠れて何よりね。朝ごはんを食べる?」と聞くと、とても嬉しそうににっこり笑って頷いたので、サンドイッチを作ってあげることにした。
薄切りにしたパン二枚に、片方に麦みそを塗り、もう片方には粒マスタードを塗り、たっぷりのレタスをサンド。それだけだけど、それだけが美味しいので、お客様にもひたすら勧めてきた組み合わせ。
そして、さっき作っておいたトウモロコシのスープをカップに入れて、みんなに渡した。
「それを食べたら、今日も浴場に行くので、一緒に荷物を持ってね」と頼む。
皆が食べている間に、冷めたパンを紙を敷いた箱に詰めていく。
普段は一つずつ袋に入れるけれど、この世界にビニール袋なんてものが存在するかわからないし、なるべくそういうものは使いたくない。

「ごちそうさま。今日の食事もとても美味しかったわ。とても満ち足りた気持ちよ。ありがとう」そう言ってくれて、とても嬉しい。褒められるのは苦手で、どうしていいか正直分からなくなるけれど、にっこり笑って
「こちらこそ、ありがとう」と答えておいた。
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