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第8話
しおりを挟むそれからも、私が何を聞いても彼の態度はずっとよそよそしいままだった。
いつもの優しい笑顔は消え、ただぼんやりと虚空を見つめている。
もしかして、来てほしくなかった? それとも何か隠してる?
そう率直に尋ねたいが、聞くのが怖い。
ガラスのテーブルに映る自分の顔は、場違いなほど不安に揺れている。
彼が選んだであろう高価なソファに身を沈めても、心は少しも安らがない。まるで、値札が付いたままの展示品に座っているような居心地の悪さがあった。
隣に座る涼介との間には、目に見えない透明な壁があるかのようで、彼の纏う空気に触れたいのに、その指先は虚しく宙を切るばかり。
綺麗に整頓された空間で、私の心だけが行き場を失くして散らかっていく。
寂しいよ、と声に出せたらどんなに楽だろう。だがその一言は、喉の奥でつめたく固まったまま。
「ねぇ、やっぱりお腹すいたね。何か美味しいものでも作ろうよ! 一緒にスーパー行かない?」
この重苦しい空気をどうにかしたくて、私はわざと明るい声を出した。涼介は一瞬迷うような素振りを見せたが、「……うん」と力なくうなずいた。
家を出ると二人で近所のスーパーへ向かう。空は厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうなどんよりとした色をしている。紫陽花の花が、沿道の植え込みで雨を待ちわびるように鮮やかな色を放っていた。
私は彼の腕にそっと自分の腕を絡めてみたが、気づいているのかいないのか、何の反応も示さない。
「この辺り、静かでいいね。駅前とは全然違う」
必死に絞り出した私の明るい声に、彼は一瞬だけこちらに視線を向けた。
「……うん、そうだね」
それだけをぽつりと返すと、彼の瞳はまたどこか遠くの、私の知らない場所を彷徨い始める。
スーパーに着いても、彼は心ここにあらずといった様子で、カートを押しながら私の後ろをついてくるだけだった。
「涼介、今夜何食べたい? パスタにする? それともお肉料理?」
「……凛の食べたいものでいいよ」
「じゃあ、このお肉美味しそうじゃない? ワインに合いそう!」
「……そうだね」
私が何を話しかけても、返ってくるのは「うん」「そうだね」という気のない返事ばかり。
彼が上の空なのは明らかで、私の胸はどんどん不安に包まれていった。
涼介の家に戻り、二人でキッチンに立つ。とはいえ、料理をするのはほとんど私一人で、涼介はただ壁に寄りかかって、ぼんやりとその様子を眺めている。
悪戯好きの涼介のことだ。普段の調子だったら、きっと後ろからちょっかいをかけてきたり、つまみ食いしたりするはずなのに。私のことなんて、全く見ていない。
楽しみにしていたはずの時間が、ただ気まずく過ぎていく。
「できたよー!」
食事ができあがり、テーブルに運ぶと挟んで向かい合って座る。
今日のメニューは、サラダにグラタン、そしてさっき買った肉の塊をローストビーフにした。
実は今日のためにこっそり家で練習してきたのだ。
「どうかな?」
ゆっくりと口に運ぶ涼介に、感想を尋ねる。
「うん、おいしい」
「よかったぁ……!」
だがそう言いつつも、涼介は箸を進めようとしない。
「あ、もしかして苦手だった?」
「そんなことないよ。ちょっと食欲なくて」
「そっか……じゃあ、私が全部食べちゃおーっと」
大げさにはしゃいでみせると「うん、美味しい」と相づちを打ちながら、笑みを張り付け、自分で作った料理を口に運ぶ。だけど自分の気持ちに嘘をつけばつくほど、虚しくなっていく。
本当は二人で笑いながら食べたかった。涼介に喜んでもらいたかった。
私は心の中で泣きながら、目の前のご飯をほぼ一人で平らげた。
◇◇◇
「はぁ……」
二人分の食器を洗いながら、思わず不安が口からこぼれた。
リビングにいる涼介は、ソファに座ったまま微動だにしない。その背中が、まるで分厚い壁のように感じられた。
私が何か、気に障るようなことしちゃったのかな……。
今日一日の出来事を必死に頭の中で再生してみる。スーパーでの会話も、食事中の他愛ない話題も、いつも通りだったはずだ。
それなのに彼の心は今、明らかにここにはない。
何度考えても思い当たる節がないことが、かえって深い霧の中へと迷い込ませる。蛇口の滑らかなクロームに映る自分の顔が、情けないほど歪んで見えた。
カチャン、と洗い終えたグラスを置く音が虚しく響き、耐えがたいほどの孤独が私を襲った。
その夜、私たちは同じベッドに入った。肌に触れるシーツのきめ細やかな感触が、心地いい。
部屋の明かりを落とすと、窓の外のきらびやかな夜景がより一層、際立って見えた。
「このベッド、すごくふかふかだね」
「……ああ」
隣から返ってきたのは短く、感情の読めない相槌だけだった。私は意を決して、彼のほうへと言葉を続ける。
「ねぇ、涼介。疲れてる……? それとも、私、何か気に障ることしちゃったかな……」
その問いかけの途中、涼介はゆっくりと私に背を向けた。その背中が、全ての答えを拒絶しているように見える。
嫌だ、そんな風に背を向けないで……
私は躊躇いがちに腕を伸ばした。温もりを確かめるように、そっと彼の背中に抱き着く。
しかし、腕に触れた瞬間、彼の身体がこわばるのが分かった。
そして私の手を掴むと静かに、有無を言わせぬ力でそっと引き剥がした。
「……ごめん」
氷のように冷たい声が、耳元で囁かれる。
「どうして?私じゃだめ?」
「そういうのじゃないんだ……でも今はそれしか言えない。本当にごめん。おやすみ」
拒絶された手は、行き場をなくしてシーツの上を彷徨う。
すぐに聞こえ始めた寝息は、まるで私の存在そのものを拒むかのように静かな部屋に響いた。隣にいるのに、地球の裏側よりも遠く感じる。
声にならない嗚咽を必死に飲み込む。彼の温もりどころか、自分の心の温もりさえも見失い、私はただただ冷たいシーツを固く握りしめ、夜が明けるのを待った。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ますと、隣にはまだ眠っている涼介の姿があった。
ベッドからそっと抜け出すと、朝食の準備を始めた。
だけど頭の中は不安でいっぱい。このまま帰ったらきっと後悔する。
私は包丁を置くと、まだ眠る涼介を揺さぶった。
「涼介、起きて」
私が少し強い口調で言うと、彼はゆっくりと寝返りを打ち、重たそうに瞼を開けた。
「……ん、おはよう」
「私、涼介と話したい」
溜め込んでいた不満をぶつけると、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。同時に、我慢していた涙がじわじわと瞳に広がっていく。
涼介は、深くため息をつくと、力なく謝罪の言葉を口にした。
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃないの」
「本当に、ごめん。ちょっと色々あって……。今は、うまく話せないんだ」
「色々って? 何があったの? 仕事のこと?」
彼は小さくかぶりを振ると、ベッドから起き上がった。
「コーヒー淹れるね。凛が好きだって言ってた豆、買っておいたんだ」
そう言うと、涼介はキッチンへと入っていった。
彼は慣れた手つきでコーヒーの準備を始めた。豆を挽く機械的な音が、重たい沈黙を切り裂いていく。
やがて、二つのマグカップがテーブルに置かれた。立ち上る湯気の向こうで、涼介の表情は揺れて見えない。
「昨日は、本当にごめん」
彼が切り出した。
「凛のせいじゃない。全部、俺の問題なんだ」
私は熱いマグカップを両手で包み込んだ。指先に伝わる温かさが、かえって心の冷たさを際立たせる。
「今度、ちゃんと時間を作る。その時に、きちんと話す」
「……っ」
その真剣な眼差しに、私はそれ以上何も言えなくなった。胸の奥には、さらに不安が広がる。
「……少し時間がほしい。本当にごめん」
その煮え切らない態度に、胸は苛立ちと悲しさで張り裂けそうだった。
私は一口だけ、苦いコーヒーを喉に流し込んだ。これ以上ここにいても、無駄な時間と苦しさが増すだけだ。
静かにカップを置くと、椅子を引いて立ち上がった。
「帰るね」
その声には涙の代わりに、冷たい諦めの色が滲んでいた。
彼のマンションを出て、冷たい空気に触れた瞬間、涙がこぼれ落ちた。彼は追ってこない。
涼介の言った「話したいこと」が、私の望むものではないという嫌な予感だけが、胸の中に重くのしかかっていた。
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