最悪で、最愛〜失恋から始まる本当の恋〜

一宮梨華

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第7話

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「え!? お泊り?」

翌日、医事課の休憩室は、朝からコーヒーの香ばしい香りが立ち込め、忙しく働く職員たちの活気で満ちていた。窓から差し込む柔らかな陽光が、室内に温かい光を落としている。

そんな中、菜穂の驚く声が部屋中に響き渡り、私は慌て「シーッ」と菜穂の口の前に指を押し当てた。

だが時すでに遅く、他の事務員からチラチラと見られていることに気づく。

「ちょっと菜穂、声でかいって」
「お泊りだなんて、なんかエロいね~」
「やめてよ、もう」

こんなところで菜穂に報告した私がバカだった。もっと慎重に場所を選ぶべきだった。

だが菜穂はそんな私の心中を知ってか知らずか、にやにやしながら小突いてくる。そんな菜穂に、私は銀座の女の真相も矢継ぎ早に話した。

「なるほど、元カノかぁ。その線があったか」
「元カノの一人や二人、いるに決まってるよね。あんだけかっこいいんだし」
「ちゃんと切れてるならいいじゃん」

菜穂のあっけらかんとした口ぶりに、マグカップに口を付けたまま「うん」と小さく頷く、

「とりあえず凛がすごく幸せそうで安心したよ」

菜穂は心底安堵したような表情で、私の肩をぽんと叩いた。その言葉に、私の心はさらに温かくなる。

「ありがとう、菜穂」
「凛、学生時代付き合ってた人がちょっと微妙で、それ以来、恋愛してないって言ってたじゃん」
「うん……」

菜穂の言葉に過去の恋愛が思い出される。もちろん、いい思い出ではなく、ちょっとしたトラウマだったりする。

当時二十歳だった私は、二つ年上の人と付き合っていた。同じサークルの先輩だった。初めての彼氏ということもあり、私は何が正解なのかわからず、当時の彼の言いなりだった。それが彼を付け上がらせたのだと今ならわかる。

彼は、私の行動を常に把握しようとした。アルバイトのシフト、友人と会う予定、サークルの活動。すべてを細かく尋ね、少しでも自分の意に沿わないことがあると、不機嫌になった。

最初は「心配してくれているんだ」と好意的に受け止めていたが、次第に息苦しさを感じるようになった。

ちょっと他の男友達と話しているのを見ただけで、後から執拗に問い詰められた。

「なんであんな奴と話すんだ」「俺がいるのに、他の男と楽しそうにするな」

そんな言葉を浴びせられ、私は次第に男友達との交流を避けるようになった。

スマートフォンを勝手に覗き見されたことも一度や二度ではない。

メッセージの履歴やSNSの投稿をチェックされ、少しでも疑わしいものがあると、延々と詰問された。彼の機嫌を損ねるのが怖くて、私は自分の意見を言えなくなった。

関係が終わったのは、彼が卒業し遠方に引っ越したからだ。物理的な距離が私をその呪縛から解放してくれた。

あの頃の自分は人形のようだった。自分の意思を持たず、ただ彼の操り人形のように動いていた。

涼介との出会いは、そんな凍りついた心を、少しずつ溶かしていく光だったのだ。

「楽しんでね、お泊り」
「うん……」
「そういえばさ、私もこの前の飲み会の後、健の家に泊まったんだよね」  

その言葉に、私は驚いて目を見開いた。

「ええっ!? もしかして、そういうこと? なんで言ってくれなかったの!?」

私が驚きと好奇心で尋ねると、菜穂はあっけらかんと笑い飛ばした。 

「そういうのじゃないって! 飲みすぎて終電逃しただけだよ。健とは家族みたいなものだから、全然気にしてないし。凛が想像してるようなことは何もないって」

言いながら、菜穂は手を横に振る。

菜穂はそうかもしれないけど、健は違うんじゃないかな。そう思っているのは私だけだろうか?

「おっと、時間だ。そろそろ戻らないと」
「本当だ」

ささっとマグカップを洗うと、自席へと戻る。すると、一ノ瀬が私のデスクの前に立っているのに気づいた。

彼は手にファイルを持っていて、いつものように無表情だ。

「お疲れ、一ノ瀬」
「一年分の未収金リスト、出しておいた」

手に持っていたファイルを、デスクに置く。それは私が先週、彼に頼んでいたものだ。

「ありがとう!助かる」 

私が礼を言うと、彼は何も言わずに、くるりと踵を返して医事課を出て行こうとする。その背中は、いつもと変わらず素っ気ない。

「あのさ、一ノ瀬!」

ふとこの前の居酒屋での態度が脳裏をよぎり、気づけば一ノ瀬を呼び止めていた。

だが呼び止めたはいいが、なんて聞いたらいいか思いつかない。

「えっと、その……」

目をキョロキョロとさまよわせる私を、一ノ瀬が真顔で見ている。

「この前……」
「悪い、急ぎのメンテナンスがあるんだ。また今度聞く」

しびれを切らしたのか、一ノ瀬はそれだけ告げるとあっという間にいなくなってしまった。

「えっ、一ノ瀬!?」

それはちょっと素気なさすぎじゃない? 私なんか悪いことした? 

なんでいつもみたいに「うるせー」「バーカ」って言わないの?

「一ノ瀬、忙しそうだね」

一ノ瀬が出て行った入り口をじっと見つめていると、背後で菜穂がぽつりとつぶやく。

「あいつこの前の居酒屋の時、なんか変じゃなかった?」 
「さぁ? そうだっけ? あんたが幸せならよかったって言ってたよ?」

え? 一ノ瀬がそんなことを?

「あいつなりに心配してたんじゃない? なんだかんだ付き合い長いしさ」

一ノ瀬に幸せを願われるなんて思いもしなかったけど、ああ見えてあいついい奴だし、相談にも乗ってくれたことあったもんね。

でも避けられているような気がしてしょうがない。いつもだったら、どうでもいいような話をたくさんするのに。

なんだろうこの気持ち。

胸の奥がうずく。寂しいって思ってる自分がいる。

「凛、病棟から内線入ってる」
「ありがとう。代わるね」

その気持ちが何なのかわからないまま、涼介との約束の日を迎えた。

◇◇◇

「準備オッケー」

化粧道具、化粧水、明日の洋服に、下着。忘れ物はないはず。 指差し確認しながら、バッグの中を再度確かめる。

今日は待ちに待った涼介の家にお泊りデート。昨夜は緊張で少し眠れなかった。胸の奥には、甘い期待と、かすかな不安が入り混じっている。

カーテンの隙間から差し込む朝日は、いつもよりずっと眩しく、新しい一日が始まる高揚感を煽る。鏡に映る自分の顔は、少しだけ頬が紅潮しているように見えた。

「涼介、寝てるのかな」

傍に置いていたスマホを見る。

朝から涼介に「おはよう」と「そろそろ向かうね」というメッセージを送っているが、既読にならない。

「ま、いっか」

少しだけ不安がよぎったものの、きっと疲れているのだろうと、私は自分に言い聞かせた。

約束の時間が迫り、私は小さなバッグを一つ持ち、涼介のマンションへと向かった。心臓は期待と、ほんの少しの不安で高鳴っている。

30分ほどで涼介のマンションに着くと、私は緊張した面持ちでインターホンを鳴らした。

涼介のマンションは、都心の一等地にそびえ立つマンションで、エントランスはまるで高級ホテルのロビーのようだった。さすが上場企業の社員だ。

しげしげと辺りを観察していると、耳にガチャリ、とドアが開く音が聞こえた。

「りょう……え?」

張り切って声をかけたが、すぐにその言葉を飲み込んだ。なぜならそこに立っていた涼介の姿は、普段の涼介とは全然違ったから。

いつもはきっちりと整えられた髪は少し乱れ、顎には薄っすらと髭が生えている。着替えもまだしていないようだった。いつもの清潔感あふれる涼介とは、まるで別人のよう。

「あっ、そうだった」

しかも彼は、私との約束をまるで今思い出したかのように、ぼんやりとした表情で呟き、くしゃっと髪をかいた。その言葉に、私の胸に冷たいものが走る。

まさか、忘れてた?

「涼介……? 大丈夫?」  

名前を呼ぶと、彼は焦点の合わない瞳で私を見つめ返した。その様子は、まるで夢の中にいるかのようで、私の声が届いているのかさえ疑わしい。

不安が、じんわりと胸に広がる。彼の様子に戸惑いながらも、なんとか笑顔を作った。

「どうせ寝てたんでしょ。もう12時だよ? 涼介もそういうところあるんだね」

動揺を隠すように笑顔でそう告げる。

「ごめん」

だが彼は静かに謝るだけ。

「お昼ご飯、食べた?何か作ろうか? 何か食べたいものある?」 
「いや、特には……」
「そっか」

涼介は私をどうぞ、と部屋の中に促したものの、ぼんやりしたまま。私の言葉を聞いているのかいないのか、曖昧な返事ばかり。

その表情からは何の感情も読み取れない。

どうしちゃったんだろう。楽しみにしてたのは私だけ?

心臓が不安と寂しさで、きゅっと締め付けられた。


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