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第10話
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どこまでも続く青い空と、打ち寄せる波の音。肌を撫でる潮風が、初夏の気配を運んでくる。
約束の日曜日。私は、涼介と初めてデートしたあの日の装いで、砂浜に足を踏み入れていた。
風を通しにくい長袖のブラウスに、動きにくいタイトスカート。明らかに季節外れで、肌はすでにじっとりと汗ばんでいる。
自分でも馬鹿げているとは思う。でもこの恋が始まったお守りのような服で、今日は彼と会いたいと、昨日から心に決めていたのだ。
窮屈なサンダルを脱ぎ捨て、裸足になる。打ち寄せる波でしっとりと湿った砂浜をゆっくりと歩くと、足元から心地よい冷たさが伝わってきた。波が足首を洗い、きめ細やかな砂が指の間をくすぐる。
「気持ちいい」
思わず、海のほうまで駆け出す。このまま、あの水平線の先まで走っていけそうなほどの解放感。
「ひゃっ……!」
その時、不意に強い浜風が吹きつけ、咄嗟に両手で帽子を抑える。
ふと、風になびく髪に逆らうように後ろを振り返ると、少し離れた場所に、涼介がこっちを見ながら佇んでいた。
「涼介も裸足になったら?」
精一杯の声を張り上げ、彼を呼ぶ。 しかし、彼は静かに首を横に振った。
「俺はいいよ」
ポケットに手を突っ込み、ただ遠くの海を眺めている涼介。
七分丈のパンツにポロシャツというラフな出で立ちなのに、何を着ても様になるのが彼のずるいところだ。
足元に視線を落とすと太陽の光を反射し、きらきらと光るものが散らばっていた。
「あ、貝殻」
身をかがめ、その中から一つ、ひときわ綺麗なものを見つけ拾い上げる。手のひらに乗せると、それは儚げな薄ピンク色をしていた。
その直後、背後からザクッ、ザクッと砂を踏む足音が近づいてくる。 気づけば、貝殻を見つめる私を、涼介がすぐ後ろから見下ろしていた。
「何拾ってるの?」
「貝殻だよ。見て、薄ピンクですごく可愛い」
覗き込む彼に、宝物を見せるように貝殻を近づける。すると彼は、そっと私の手からそれを取り上げた。
「これが可愛いの?」
彼はまるで価値の分からない石ころでも見るかのように、二本の指で貝殻をつまみ、呆れたように眉を寄せている。
「可愛いじゃん。今日の記念に持って帰る」
「凛らしいな。俺には、よくわかんないや」
「思い出だよ、思い出」
私は少しむきになるようにそう言うと、彼の手から貝殻を取り返した。
くるりと背を向け、今日のこの小さな思い出がこぼれ落ちないように、スカートのポケットにそっとしまう。
付き合い始めたばかりのとき、涼介といつか海に行こうと約束していた。今日で最後になるような気がしている私は、涼介に無理を言って、連れてきてもらったのだ。
「少し、向こうまで歩こうか」
静寂を破り、涼介が遠くの岬を指差す。私はこくんとうなずくと、歩き出した彼の背中を、少しだけ距離を置いて追い始めた。
初夏の太陽は、まるで二人の間の気まずさを見透かすように、ギラギラと容赦なく砂浜を照らしつける。背中にじっとりと汗が滲み、砂に足を取られて次第に足取りは重くなっていく。
それでも波打ち際を撫でる風は心地よかった。指の間に湿った砂が入り込む感触を楽しみながら、ぴちゃぴちゃと足を海水につけて歩いた。
周りでは、父親の肩車ではしゃぐ子供たちの甲高い声が響いている。すぐそばを手を繋いだ同い年くらいのカップルが、楽しそうに笑いながら追い越していった。
みんな、幸せそう……。
その光景がまるで遠い世界の出来事のように、私の目には映っていた。
海開きが始まればこの静かな浜辺も、もっとたくさんの笑顔で賑わうのだろう。その時、私の隣には誰が立っているのだろうか。もしかすると、誰もいないかもしれない。
「あ、また貝殻」
そんな寂しい想像をしていると、つま先で蹴った砂の隙間から先ほどのより少し大きめの、白く艶やかな貝殻が顔を覗かせた。
「やった!」
思わず声が弾む。また一つ、今日の思い出が増えた。 そんな小さな喜びに胸を躍らせていた、その時だった。
すぐそばから、久しぶりに聞く、堪え切れないような笑い声が聞こえてきた。
その優しい響きにはっとして顔を上げると、そこにはいつもの涼介がいた。眉を下げ、楽しそうに目を細め私を見つめている。私が大好きだった、あの笑顔で。
「凛は子供だなぁ」
彼は呆れたように、でもその声には確かな温かさを含んでいる。
その太陽のような声色に、私の心も自然と解きほぐされていく。強張っていた頬が緩み、つられるように笑顔がこぼれた。
いつぶりだろう。涼介の前でこんな風に心から笑っているのは。 一瞬、時が巻き戻ったかのような錯覚に、胸の奥がきゅっと甘く痛んだ。
「失礼な。立派な大人ですけど?」
「中身が伴ってないけどな」
よかった、笑ってる。
少し前までは当たり前の事だったのに、今では奇跡のようにも思える。
「うっわ、」
その時、それまで穏やかだった波が、悪戯っぽく大きなうねりとなって二人の足元を襲った。
私は咄嗟に避けたが涼介は間に合わず、綺麗な紺色のスニーカーが完全に海水に浸かってしまう。
「最悪だ、びしょ濡れ……」
みるみるうちに濃く変色していくスニーカーを見て、彼が本気で顔をしかめる。
その滅多に見せない慌てた姿に、私は思わずクスッと笑いを漏らした。
「だから裸足になればって言ったのに」
「くそぉ……」
「冷てぇ」と悪態をつきながら、涼介はしぶしぶ靴を脱ぎ、裸足になる。
ポタポタと滴が落ちるスニーカーを片手に持つと、「行こうか」と私を促した。
「うん。待って……」
彼の隣に追いつくと、歩くたびに揺れる彼の手が目に入った。今なら自然に繋げるかもしれない。
さっきの笑顔で生まれたこの温かい空気ごと、ぎゅっと掴んでしまいたい。
高鳴る心臓を抑え私は一歩、彼との距離を詰めた。勇気を振り絞って、そっと手を伸ばす。
指先が彼の手にかすかに触れようとした、その時だった。
「凛……」
予期せぬ低い声に、伸ばした手が凍り付くように止まった。さっきまでの温かさはどこにもない、氷のように冷たい声音。
涼介は私に背を向けたまま、静かに続ける。
「大事な話、していい?」
「大事な、話」
「あぁ……」
楽しい時間が、終わりを告げようとしている。
さっきまで彼に触れようとしていた手は行き場をなくし、早鐘を打ち始めた胸元を、きつく握りしめることしかできなかった。
嫌な予感が心臓に冷たい茨のように絡みついてくる。 砂を蹴る足が自分のものじゃないみたいに、ぐらぐらと揺れた。
今から私は、何を言われるの?
押し潰されそうな不安を飲み込み、私はかろうじて「わかった」と小さく返事をした。
少し歩いたところで、涼介が振り返る。
「少し、座る?」
その問いかけに黙ってうなずくと、彼は素早く羽織っていた上着を脱ぎ砂の上にそれを敷いた。
Tシャツ一枚になった彼の腕や、ちらりと見えた引き締まった体に、思わずドキッとしてうつむく。
「凛、この上に座って」
「え? いいよ、服が汚れちゃう」
「汚れたら洗えばいいだけだから、気にしないで」
穏やかな口調でそう言うと、彼は先に砂の上へと腰を下ろした。
「ありがと……」
こういう王子様みたいなさりげない優しさは、以前と少しも変わらない。だから余計に胸が痛む。
私は握っていた貝殻をそっとポケットにしまうと、彼のジャケットの上に「失礼します」と心の中で呟いてから座った。
「凛、暑くないの? その格好」
「……平気」
「夏だというのになぜ?」と言わんばかりの視線が、チクチクと刺さる。
私は気づかないふりをして、目の前の湿った砂にそっと触れた。
「海での砂遊びって、楽しいよね。大きな山作ってトンネル掘ったり、友達を埋めてみたり」
「まぁ、定番だよな」
クスクスと笑う涼介の声に少しだけ安堵しながら、私はペタペタと湿った砂を両手で盛り、小さな山を作り始めた。
「まさか今から作る気?」
「もちろん」
彼は呆れと面白さが混じったような薄笑いを浮かべ「凛らしい」とぽつりと呟くと「ねぇ、凛」と呼んだ。
「ん?何?」
「俺が最初に凛の病院に行ったときのこと、覚えてる?」
ちらっと横目で彼を見ると、涼介は潮風で少し伸びた髪をなびかせていた。
夕暮れのオレンジ色の空と相まって、あまりにも綺麗な横顔にドキリと心臓が跳ねる。
「覚えてるよ。挨拶がすごく上手で、笑うと爽やかで、素敵だなって、思った」
懐かしい記憶に、私の声が自然と柔らかくなる。確かあれは今から1年近く前のことだ。
私の返答に涼介はふふっと俯き、優しく笑った。そしてキョトンとする私にゆっくりと視線を送ると、また言葉を繋げる。
「俺はさ、一番前で俺のこと見てる凛に、すぐ目がいったよ。眠そうで、ぼーっとしてて。正直、こいつ全然聞いてないなって思った。だけど、一番最後に一番大きな拍手をくれたんだ。それも満面の笑みで。なんだかおかしくて、つい噴き出しそうになったのを覚えてる」
「えぇ?そうだっけ?全然覚えてないや」
そんな昔話にクスクスと笑い合っていると、張り詰めていた心が、少しだけ解けていくようだった。
私はその温かい空気を逃すまいと、手元に作り上げた砂山を指差した。
「じゃーん! 山の完成です。今からトンネルを開通させます!」
砂だらけの手で、彼に向かってビシッと敬礼してみせる。すると彼も悪戯っぽく笑って、同じように敬礼を返してくれた。
「お願いします、隊長」
そのやり取りが嬉しくて、私はもう一度笑った。 だがその笑顔も束の間、涼介はすっと表情を消し、再び海の向こうへと視線を投げる。
「あのときから、すでに気になってたんだろうな、凛のこと」
「もしかして、一目惚れですかー?」
砂山を掘りながら茶化すように彼の顔を覗き込むと、涼介の口元に、あの頃と同じ柔らかな笑みが返ってきた。
その瞬間に、私の心に淡い期待が灯る。
だけど、それはほんの一瞬の幻。すぐに涼介の瞳は、水平線に沈みゆく夕日を映し、遥か遠くを見つめた。
その横顔は、今にも壊れてしまいそうなくらい脆い。
怖くなった私は、逃げるようにその場を立ち上がる。
「私、飲み物買ってこようかな」
服についた砂を払いながら、わざと明るい声を出す。
「涼介は何がいい?」
「その手で行くの?」
私の砂だらけの手を一瞥すると、涼介は「いいよ、座って」と、座ったまま私の腕を掴んだ。
その力は弱々しいのに、なぜか逆らえない。彼は眩しそうに目を細めると、私を見上げた。
「俺さ、あれから今日まで、凛を知れば知るほど、どんどん好きになっていって…」
「……え? なに、急に」
言葉を返す私の口元が、ひきつるのが分かる。やめて、そんな優しい声でそんなこと言わないで。
「よく食べるとこも、朝が苦手なとこも、少しおっちょこちょいなとこも、すぐ妄想するとこも。笑顔も、全部が可愛くて……」
一つ一つ、愛おしい宝物を数えるように紡がれる言葉。それなのに、彼の笑顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。
その痛々しい表情に、私はこくんと息を飲むと、掴まれた腕に、そっと自分の手を重ねた。
「やめて……」
お願いだから、と祈るような気持ちで彼を見つめる。
「表情がコロコロ変わって、いつも楽しそうで、そんな凛が可愛くて仕方なかったんだ」
……だから、やめて。
まるで大切な思い出を一つ一つ、箱にしまい込むような、そんな切なそうな顔をしないで。
「俺は、そんな凛が好きだ」
聞きたくない。これ以上聞いていたら、私きっと……。
「やっぱり、買いに行ってくるね! コーヒーでいいよね?」
パニックになるのを堪えながら、咄嗟に涼介の手を振り払った。
だが逃げようとした私の腕は、いとも簡単により強い力で握り返されてしまう。
「凛、お願いだ。決心が鈍らないうちに」
……決心?その冷たい響きが、私の頭の中で何度もこだまする。
「なに、それってどういう……キャッ」
私の言葉を遮るように、涼介は私の身体をぐっと引き寄せた。抵抗する間もなく、そのまま彼の厚い胸へと押し込まれる。
嗅ぎ慣れたはずの彼の匂いが、今はただ悲しくて切ない。
「凛、聞いて」
彼の胸に顔を押し付けられたまま、私は抵抗することもできずにいる。
握りしめていた手からは砂がぱらぱらとこぼれ落ち、涼介のポロシャツを汚していく。
「見られてるかもしれないよ。それに、私の手、砂で汚い……」
「遠くて見えないよ」
私の必死の言い訳は、彼の低い声に遮られる。
「俺、凛のこと、すげー好きだ」
「……」
「愛してる」
その瞬間、私を抱きしめる涼介の腕に、ぐっと力が込められた。まるでこれが最後だとでも言うように。
そして耳元で、彼が続ける。
「だけど、別れよう」
約束の日曜日。私は、涼介と初めてデートしたあの日の装いで、砂浜に足を踏み入れていた。
風を通しにくい長袖のブラウスに、動きにくいタイトスカート。明らかに季節外れで、肌はすでにじっとりと汗ばんでいる。
自分でも馬鹿げているとは思う。でもこの恋が始まったお守りのような服で、今日は彼と会いたいと、昨日から心に決めていたのだ。
窮屈なサンダルを脱ぎ捨て、裸足になる。打ち寄せる波でしっとりと湿った砂浜をゆっくりと歩くと、足元から心地よい冷たさが伝わってきた。波が足首を洗い、きめ細やかな砂が指の間をくすぐる。
「気持ちいい」
思わず、海のほうまで駆け出す。このまま、あの水平線の先まで走っていけそうなほどの解放感。
「ひゃっ……!」
その時、不意に強い浜風が吹きつけ、咄嗟に両手で帽子を抑える。
ふと、風になびく髪に逆らうように後ろを振り返ると、少し離れた場所に、涼介がこっちを見ながら佇んでいた。
「涼介も裸足になったら?」
精一杯の声を張り上げ、彼を呼ぶ。 しかし、彼は静かに首を横に振った。
「俺はいいよ」
ポケットに手を突っ込み、ただ遠くの海を眺めている涼介。
七分丈のパンツにポロシャツというラフな出で立ちなのに、何を着ても様になるのが彼のずるいところだ。
足元に視線を落とすと太陽の光を反射し、きらきらと光るものが散らばっていた。
「あ、貝殻」
身をかがめ、その中から一つ、ひときわ綺麗なものを見つけ拾い上げる。手のひらに乗せると、それは儚げな薄ピンク色をしていた。
その直後、背後からザクッ、ザクッと砂を踏む足音が近づいてくる。 気づけば、貝殻を見つめる私を、涼介がすぐ後ろから見下ろしていた。
「何拾ってるの?」
「貝殻だよ。見て、薄ピンクですごく可愛い」
覗き込む彼に、宝物を見せるように貝殻を近づける。すると彼は、そっと私の手からそれを取り上げた。
「これが可愛いの?」
彼はまるで価値の分からない石ころでも見るかのように、二本の指で貝殻をつまみ、呆れたように眉を寄せている。
「可愛いじゃん。今日の記念に持って帰る」
「凛らしいな。俺には、よくわかんないや」
「思い出だよ、思い出」
私は少しむきになるようにそう言うと、彼の手から貝殻を取り返した。
くるりと背を向け、今日のこの小さな思い出がこぼれ落ちないように、スカートのポケットにそっとしまう。
付き合い始めたばかりのとき、涼介といつか海に行こうと約束していた。今日で最後になるような気がしている私は、涼介に無理を言って、連れてきてもらったのだ。
「少し、向こうまで歩こうか」
静寂を破り、涼介が遠くの岬を指差す。私はこくんとうなずくと、歩き出した彼の背中を、少しだけ距離を置いて追い始めた。
初夏の太陽は、まるで二人の間の気まずさを見透かすように、ギラギラと容赦なく砂浜を照らしつける。背中にじっとりと汗が滲み、砂に足を取られて次第に足取りは重くなっていく。
それでも波打ち際を撫でる風は心地よかった。指の間に湿った砂が入り込む感触を楽しみながら、ぴちゃぴちゃと足を海水につけて歩いた。
周りでは、父親の肩車ではしゃぐ子供たちの甲高い声が響いている。すぐそばを手を繋いだ同い年くらいのカップルが、楽しそうに笑いながら追い越していった。
みんな、幸せそう……。
その光景がまるで遠い世界の出来事のように、私の目には映っていた。
海開きが始まればこの静かな浜辺も、もっとたくさんの笑顔で賑わうのだろう。その時、私の隣には誰が立っているのだろうか。もしかすると、誰もいないかもしれない。
「あ、また貝殻」
そんな寂しい想像をしていると、つま先で蹴った砂の隙間から先ほどのより少し大きめの、白く艶やかな貝殻が顔を覗かせた。
「やった!」
思わず声が弾む。また一つ、今日の思い出が増えた。 そんな小さな喜びに胸を躍らせていた、その時だった。
すぐそばから、久しぶりに聞く、堪え切れないような笑い声が聞こえてきた。
その優しい響きにはっとして顔を上げると、そこにはいつもの涼介がいた。眉を下げ、楽しそうに目を細め私を見つめている。私が大好きだった、あの笑顔で。
「凛は子供だなぁ」
彼は呆れたように、でもその声には確かな温かさを含んでいる。
その太陽のような声色に、私の心も自然と解きほぐされていく。強張っていた頬が緩み、つられるように笑顔がこぼれた。
いつぶりだろう。涼介の前でこんな風に心から笑っているのは。 一瞬、時が巻き戻ったかのような錯覚に、胸の奥がきゅっと甘く痛んだ。
「失礼な。立派な大人ですけど?」
「中身が伴ってないけどな」
よかった、笑ってる。
少し前までは当たり前の事だったのに、今では奇跡のようにも思える。
「うっわ、」
その時、それまで穏やかだった波が、悪戯っぽく大きなうねりとなって二人の足元を襲った。
私は咄嗟に避けたが涼介は間に合わず、綺麗な紺色のスニーカーが完全に海水に浸かってしまう。
「最悪だ、びしょ濡れ……」
みるみるうちに濃く変色していくスニーカーを見て、彼が本気で顔をしかめる。
その滅多に見せない慌てた姿に、私は思わずクスッと笑いを漏らした。
「だから裸足になればって言ったのに」
「くそぉ……」
「冷てぇ」と悪態をつきながら、涼介はしぶしぶ靴を脱ぎ、裸足になる。
ポタポタと滴が落ちるスニーカーを片手に持つと、「行こうか」と私を促した。
「うん。待って……」
彼の隣に追いつくと、歩くたびに揺れる彼の手が目に入った。今なら自然に繋げるかもしれない。
さっきの笑顔で生まれたこの温かい空気ごと、ぎゅっと掴んでしまいたい。
高鳴る心臓を抑え私は一歩、彼との距離を詰めた。勇気を振り絞って、そっと手を伸ばす。
指先が彼の手にかすかに触れようとした、その時だった。
「凛……」
予期せぬ低い声に、伸ばした手が凍り付くように止まった。さっきまでの温かさはどこにもない、氷のように冷たい声音。
涼介は私に背を向けたまま、静かに続ける。
「大事な話、していい?」
「大事な、話」
「あぁ……」
楽しい時間が、終わりを告げようとしている。
さっきまで彼に触れようとしていた手は行き場をなくし、早鐘を打ち始めた胸元を、きつく握りしめることしかできなかった。
嫌な予感が心臓に冷たい茨のように絡みついてくる。 砂を蹴る足が自分のものじゃないみたいに、ぐらぐらと揺れた。
今から私は、何を言われるの?
押し潰されそうな不安を飲み込み、私はかろうじて「わかった」と小さく返事をした。
少し歩いたところで、涼介が振り返る。
「少し、座る?」
その問いかけに黙ってうなずくと、彼は素早く羽織っていた上着を脱ぎ砂の上にそれを敷いた。
Tシャツ一枚になった彼の腕や、ちらりと見えた引き締まった体に、思わずドキッとしてうつむく。
「凛、この上に座って」
「え? いいよ、服が汚れちゃう」
「汚れたら洗えばいいだけだから、気にしないで」
穏やかな口調でそう言うと、彼は先に砂の上へと腰を下ろした。
「ありがと……」
こういう王子様みたいなさりげない優しさは、以前と少しも変わらない。だから余計に胸が痛む。
私は握っていた貝殻をそっとポケットにしまうと、彼のジャケットの上に「失礼します」と心の中で呟いてから座った。
「凛、暑くないの? その格好」
「……平気」
「夏だというのになぜ?」と言わんばかりの視線が、チクチクと刺さる。
私は気づかないふりをして、目の前の湿った砂にそっと触れた。
「海での砂遊びって、楽しいよね。大きな山作ってトンネル掘ったり、友達を埋めてみたり」
「まぁ、定番だよな」
クスクスと笑う涼介の声に少しだけ安堵しながら、私はペタペタと湿った砂を両手で盛り、小さな山を作り始めた。
「まさか今から作る気?」
「もちろん」
彼は呆れと面白さが混じったような薄笑いを浮かべ「凛らしい」とぽつりと呟くと「ねぇ、凛」と呼んだ。
「ん?何?」
「俺が最初に凛の病院に行ったときのこと、覚えてる?」
ちらっと横目で彼を見ると、涼介は潮風で少し伸びた髪をなびかせていた。
夕暮れのオレンジ色の空と相まって、あまりにも綺麗な横顔にドキリと心臓が跳ねる。
「覚えてるよ。挨拶がすごく上手で、笑うと爽やかで、素敵だなって、思った」
懐かしい記憶に、私の声が自然と柔らかくなる。確かあれは今から1年近く前のことだ。
私の返答に涼介はふふっと俯き、優しく笑った。そしてキョトンとする私にゆっくりと視線を送ると、また言葉を繋げる。
「俺はさ、一番前で俺のこと見てる凛に、すぐ目がいったよ。眠そうで、ぼーっとしてて。正直、こいつ全然聞いてないなって思った。だけど、一番最後に一番大きな拍手をくれたんだ。それも満面の笑みで。なんだかおかしくて、つい噴き出しそうになったのを覚えてる」
「えぇ?そうだっけ?全然覚えてないや」
そんな昔話にクスクスと笑い合っていると、張り詰めていた心が、少しだけ解けていくようだった。
私はその温かい空気を逃すまいと、手元に作り上げた砂山を指差した。
「じゃーん! 山の完成です。今からトンネルを開通させます!」
砂だらけの手で、彼に向かってビシッと敬礼してみせる。すると彼も悪戯っぽく笑って、同じように敬礼を返してくれた。
「お願いします、隊長」
そのやり取りが嬉しくて、私はもう一度笑った。 だがその笑顔も束の間、涼介はすっと表情を消し、再び海の向こうへと視線を投げる。
「あのときから、すでに気になってたんだろうな、凛のこと」
「もしかして、一目惚れですかー?」
砂山を掘りながら茶化すように彼の顔を覗き込むと、涼介の口元に、あの頃と同じ柔らかな笑みが返ってきた。
その瞬間に、私の心に淡い期待が灯る。
だけど、それはほんの一瞬の幻。すぐに涼介の瞳は、水平線に沈みゆく夕日を映し、遥か遠くを見つめた。
その横顔は、今にも壊れてしまいそうなくらい脆い。
怖くなった私は、逃げるようにその場を立ち上がる。
「私、飲み物買ってこようかな」
服についた砂を払いながら、わざと明るい声を出す。
「涼介は何がいい?」
「その手で行くの?」
私の砂だらけの手を一瞥すると、涼介は「いいよ、座って」と、座ったまま私の腕を掴んだ。
その力は弱々しいのに、なぜか逆らえない。彼は眩しそうに目を細めると、私を見上げた。
「俺さ、あれから今日まで、凛を知れば知るほど、どんどん好きになっていって…」
「……え? なに、急に」
言葉を返す私の口元が、ひきつるのが分かる。やめて、そんな優しい声でそんなこと言わないで。
「よく食べるとこも、朝が苦手なとこも、少しおっちょこちょいなとこも、すぐ妄想するとこも。笑顔も、全部が可愛くて……」
一つ一つ、愛おしい宝物を数えるように紡がれる言葉。それなのに、彼の笑顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。
その痛々しい表情に、私はこくんと息を飲むと、掴まれた腕に、そっと自分の手を重ねた。
「やめて……」
お願いだから、と祈るような気持ちで彼を見つめる。
「表情がコロコロ変わって、いつも楽しそうで、そんな凛が可愛くて仕方なかったんだ」
……だから、やめて。
まるで大切な思い出を一つ一つ、箱にしまい込むような、そんな切なそうな顔をしないで。
「俺は、そんな凛が好きだ」
聞きたくない。これ以上聞いていたら、私きっと……。
「やっぱり、買いに行ってくるね! コーヒーでいいよね?」
パニックになるのを堪えながら、咄嗟に涼介の手を振り払った。
だが逃げようとした私の腕は、いとも簡単により強い力で握り返されてしまう。
「凛、お願いだ。決心が鈍らないうちに」
……決心?その冷たい響きが、私の頭の中で何度もこだまする。
「なに、それってどういう……キャッ」
私の言葉を遮るように、涼介は私の身体をぐっと引き寄せた。抵抗する間もなく、そのまま彼の厚い胸へと押し込まれる。
嗅ぎ慣れたはずの彼の匂いが、今はただ悲しくて切ない。
「凛、聞いて」
彼の胸に顔を押し付けられたまま、私は抵抗することもできずにいる。
握りしめていた手からは砂がぱらぱらとこぼれ落ち、涼介のポロシャツを汚していく。
「見られてるかもしれないよ。それに、私の手、砂で汚い……」
「遠くて見えないよ」
私の必死の言い訳は、彼の低い声に遮られる。
「俺、凛のこと、すげー好きだ」
「……」
「愛してる」
その瞬間、私を抱きしめる涼介の腕に、ぐっと力が込められた。まるでこれが最後だとでも言うように。
そして耳元で、彼が続ける。
「だけど、別れよう」
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