最悪で、最愛〜失恋から始まる本当の恋〜

一宮梨華

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第11話

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キン、と耳鳴りがして、世界から一切の音が消えた。

寄せては返す波の音も、遠くで鳴いていたカモメの声も、何も聞こえない。ただ、彼のその言葉だけが、頭の中で何度も何度も反響する。

予感していたとはいえ、頭を鈍器で殴られたような強い衝撃に目の前が真っ白になる。

「どうして?理由は?」

喉の奥から絞り出すように、声をかける。

だけど涼介は私の瞳を見返さない。足元に視線を落とし、一点を見つめたまま表情を失っている。その食いしばる口元はわずかに震えているように見えた。

「どうして、急に? 教えてよ」

堪えていた涙がぼたぼたと砂の上にいくつも染みを作っていく。

私は、まるで駄々をこねる子供のように、彼の胸を何度も叩いた。

「なんでよぉ……!」

『小さな手だな』って、『守ってあげたい』って、言ってくれたくせに。 あれは、全部、嘘だったの?

「ごめん……凛。本当に、ごめん」
「愛してるのに、何で別れるの!? 私何かした? ねぇ、涼介ってばぁぁーー……」

わかってる。あの日から、振られる予感は、ずっと、ずっと心のどこかにあった。

だけど、覚悟なんてできるはずがなかった。

「う……うぅ……涼介、やだよぉ……」

うめくような私の泣き声は、寄せては返す波の音に吸い込まれていく。

皮肉にも、こんなふうに誰もいない海は、別れの場所には都合がいいのかもしれない。どれだけ泣き叫んでも、この声は誰にも届かないのだから。

「やだ、離れたくない……」

そう繰り返しながら嗚咽と共に体を震わせる私の背中を、涼介がそっと撫でる。何も言わず、ただただ、嵐のような私の感情が過ぎ去るのを、静かに待っていた。

どれくらいの時間が経ったのか。はっと息を吐いた後、涼介がぽつりと口を開いた。

「凛がこの前うちに来た日の前日、元カノに会ったんだ」
「え……? 何で今更?」

涙でぐちゃぐちゃの顔で、彼のシャツの袖を掴んだまま聞き返す。

「その日の朝、たまたま仕事で行った病院に、彼女……沙羅(さら)っていうんだけど、沙羅の友達と偶然会って。そしたらそいつ、俺を見るなり怒鳴りつけてきて……」

沙羅さん──。

涼介さんの口から初めて飛び出した、知らない女性の名前。心がどうしようもないくらい、落ち着かなくなる。

「沙羅がこんなときに、何でそばにいてやらないのかって。俺、全然意味がわからなくて。詳しく教えてほしいって、頼んだんだ」

ごくり、と彼の喉が大きく動く。微かに震える唇に、一瞬だけキュッと力が入った。

そして、まるで覚悟を決めたかのように、彼は私を正面から捉え、その真っ直ぐな瞳をぶつけてくる。

その逃げも隠れも許さないというような強い眼差しに、私の胸はぎしりと押し潰されそうになる。

捉えられた視線を振り切れるはずもなく、私は小さく息を飲んだ。

「今、沙羅は……」
「……っ」
「俺の子を、妊娠してる……」

え?妊娠……?

その言葉が、頭の中で意味を結ぶのに、永遠のような時間がかかった。

「妊娠……って」

予期せぬ言葉に、堰を切ったように再び流れ始めた涙。それを拭うこともせず、私はただ唇を噛みしめ、涼介を見つめた。

「それを聞いて、いても立ってもいられなくて。すぐに沙羅の家に行ったんだ。本当だった。沙羅も、俺と別れてから気づいたって。……エコー写真も、見た」

エコー……。涼介と、沙羅さんの赤ちゃん。私たちの間には決して存在しない、二人の愛の証。

そう想像しただけで、頭がおかしくなりそうだった。

そんな残酷な現実を振り払うかのように、何度も、何度も首を振った。

「いやっ、これ以上、聞きたくない」
「凛……」

取り乱す私を落ち着かせるように、涼介の大きな手が、頬を伝う涙を優しく拭う。

何度もキスを重ねた唇が、すぐそこにある。だけどその唇も、温かい手も、今は果てしなく遠い。

触れたいのに、もう二度と届くことはないという現実だけが、私を容赦なく追い詰める。

「だけど産まないんだ」
「え?」
「正確には、産めないって。あいつ、そう切り出した途端に泣き出して、取り乱して。あんな沙羅、見たことなかった」

彼の声が、刹那に詰まる。その苦しそうな姿に、私の涙もまた、はらはらと砂の上に落ちて沈んでいった。

「産めないってそれは、どういう……」
「赤ちゃん、気づくのが遅くて、もう弱ってるらしいんだ。だから、病院でもう諦めろって、言われたって」
「そんな」

苦痛に歪む彼の顔から、私は思わず目を逸らした。

「凛には、本当に申し訳ないと思ってる。だけど俺は、精神的にも肉体的にも、沙羅を深く傷つけた。だから、沙羅のこと、支えたいんだ」

絞り出したような声でそう言うと、涼介は私をふんわりと優しく抱きよせた。

その腕の中で、熱くなったまぶたを閉じる。涙が一筋、また一筋と流れ彼の肩を濡らしていった。

「沙羅は、やっとオープンさせた美容室も、ずっと休んでる」

美容師……。以前、彼から聞いた、彼女のわずかな情報。

「やっとの思いで起業したのに、頑張ってきたのに、それすらも俺はぶち壊してしまった。だから、沙羅と一対一で向き合うって、一緒に乗り越えようって決めたんだ。よりを戻すとか、そういうのとは別の話として、ただ、沙羅に責任をもって償いたい」
「……涼介」
「凛の顔見てると、何度も揺らいだ。だけど、このままじゃいけない。こんな俺とじゃなくて、ちゃんとした道を歩んでもらわないとって」

涙でぐしゃぐしゃの顔で彼の胸にしがみつくと、がむしゃらに何度も首を振った。

「いやっ、」
「凛」
「いやだよ、別れたくない……」
「こっち向いて」

そっと両手で私の頬を包み込むと、親指で何度も何度も涙を拭う。

「りょう、すけ……」

離れたくない……

「本当に、ごめん…」

いつもの優しい眼差しが、私を見つめる。あなたのその目も、この手もその声も、全部離したくない。

こんなに好きなのに。離れたくないのに……

「凛、愛してる。だけど、これ以上一緒にいられない」

その言葉と同時に、足元に寄せた波が、さあっと音を立てながら、私たちの足跡をかき消す。

まるで初めから、何もなかったかのように……。

◇◇◇

海から車まで、どうやって戻ってきたのかわからない。 あの残酷な言葉を聞いてからの記憶は、まるで濃い霧の中のように、白く霞んで思い出せなかった。

気が付けば、私は涼介の車の助手席に座っていて、窓の外には見慣れた風景が流れていた。エンジン音が静かに響く車内は、重たい沈黙に支配されている。流れてくる陽気なラブソングが、今の私にはひどく残酷に聞こえた。

この道が終わってしまえば、本当に、私たちも終わってしまう。 いつもの風景を、こんなに恨めしく思ったことはない。

気づかれないように、そっとため息を落とし、窓から手元へと視線を移すと、砂で汚れたタイトスカートを、指先でそっと払った。

この服も、全く意味がなかった……。

別れを予感していたから、願掛けのようにこの服に袖を通した。涼介が「可愛い」と言ってくれた、思い出の服。

これを着ていれば、当時のことを思い出して、彼の気持ちが揺らぐんじゃないか、変わるんじゃないかって。そんな淡い期待を込めたのに。

その思いは、砂上の城のようにもろく崩れ去った。涼介は、沙羅さんの元へいってしまうんだ。

想像するだけで胸が張り裂けそうで、膝の上に置いた拳が小刻みに震えだす。この胸を焼くような感情は、沙羅さんへの憎悪なのか、嫉妬なのか。それが何なのかも分からないまま、私は再び力強く拳を握りしめる。

二番目でもいい、沙羅さんの側にいてもいい。それでも一緒にいたいと、そう泣き叫べばよかったのだろうか。涼介は考え直してくれた?

……ううん、それはない。涼介の決意は固かった。それにあんな苦しそうな涼介をあれ以上見ていられなかった。

私があそこで泣き叫べばきっと涼介はもっと苦しむ。泣いてすがることも許されなくて、身を引く選択しか私には残されていなかった。

つまりはあなたと出会った時からこういう運命だったと決まっていて、初めて食事した日のことも、キスした日のことも、全てが必然で、これが私たちの終着駅だということも。

重い沈黙を乗せたまま、車は街を滑るように進んでいく。私はただ、涙で滲む窓の外の光を、魂が抜けたように見つめていた。

その時、カチ、カチ、と無機質なウインカーの音が静寂を破った。見れば車はコンビニの駐車場に着いていた。

「ごめん、さっきからすごい着信で。一旦出てもいいかな」
「あ、うん」

彼は車を降りると店の入り口の方へ向かい、ポケットからスマートフォンを取り出した。その画面をタップする指の動きを、私はフロントガラス越しに、息を殺して見つめていた。

「どうした? うん……大丈夫だから。明日、必ず行くから」

フロントガラス越しに、涼介の声が断片的に聞こえてくる。優しく諭すような声色。相手はきっと、沙羅さんなのだろう。

「今から? 今からは……」

その瞬間、彼の視線がこちらを向き、車の中にいる私とぴたりと合った。ドクン、と心臓が凍てつくような嫌な音を立てる。

今から来てほしいって、言われてるのかな? 私がいるから行けなくて、内心困ってるのかも。

「ごめん。また、かける」

涼介はそう言うと、気まずそうに電話を切り、車に戻ってきた。息の詰まるような重たい空気が、車内に満ちる。

「待たせてごめん。凛の家は、こっちだったよな」

ナビを操作しながらそう言うと、再びブブッと低いバイブの音が車内に鳴り響いた。

はっとしながら隣を見れば、涼介がスマホを握りしめたまま、その画面をじっと見つめている。また沙羅さんから電話? まだほんの数分しか経っていないのに。

「心臓が…止まってたって…。今日、病院で、そう言われたらしい」
「あか……ちゃん?」

私の問いに、涼介さんはゆっくりと頷いた。そんな……。

「だから、あいつ今、混乱してて…」

くしゃくしゃっと、彼は今まで見たこともないほど乱暴に髪をかき乱す。完璧だった王子様の姿はどこにもない。

「すぐ、行ってあげて」

気づいたら、私の口からそんな言葉がこぼれ落ちていた。

「凛?」
「沙羅さんのところ、行ってあげて。私は大丈夫だから。今、涼介を必要としてるのは、沙羅さんだよ」

瞬きをすれば決壊してしまいそうな涙を、私は必死に上を向いて堪える。

「涼介といたこの数ヶ月、本当に、幸せだった。楽しかった」

押し寄せる嗚咽を殺すため、震える唇にぐっと力を込める。そして車のドアを開けると、夜の冷たい空気の中へそっと降り立った。

「涼介のこと、絶対に忘れない。こんな私を、いっぱい愛してくれて、ありがとう」

本当は私の大好きな、あなたの優しい瞳を見て言いたかった。あなたの顔をこの目に焼き付けておきたかったけど、そんな余力はもう残っていなかった。

私は振り返らず、アスファルトをただまっすぐに歩き出す。

これでいいんだ。涼介は沙羅さんのもとに帰る。私はほんの少しの時間、甘い夢を見させてもらっただけ。ただ、それだけ。

「待って!」

すると、背後から追ってきた涼介が、私の腕を強く掴んだ。

「お願い、もう、行かせて」

必死に振り払おうとしても、彼の腕は鉄のように固く、ピクリとも動かない。

「凛、ごめん」

震える声が、何度も何度もそう繰り返す。背後から聞こえる鼻をすするような音に、胸が張り裂けそうだった。

あなたの謝る姿なんて、見たくないよ。そんな弱々しい声、聞きたくない。いつものように、涼しげで柔らかい笑顔を向けてよ。そんな涼介が、大好きだから。

「決心が鈍らないうちに、行かせて」

そう言うと私を掴む涼介の腕に、ぐっと力が入るのを感じた。

「……クソッ、離したくねぇ……」

苦痛を絞り出すようなその声に、堪えていた涙のダムが決壊した。とめどなく溢れる涙を、拭っても拭っても、拭いきれない。

そんな意味のない行為を繰り返した後、私はありったけの力を振り絞るように、笑顔で振り返った。

「バイバイ、涼介」



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