最悪で、最愛〜失恋から始まる本当の恋〜

一宮梨華

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第12話

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涼介の車が見えなくなると同時に、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。どこへ向かうでもなく、ただふらふらと夜の街を彷徨い、気づけば菜穂の家のドアの前に立っていた。

ピンポーン、とインターホンを鳴らす。すぐにガチャリとドアが開き、スウェット姿の菜穂が現れた。

「凛!? どうしたの、こんな時間に」

驚いたように声を上げると、私の顔を覗き込む。だけど涙と化粧でぐしゃぐしゃになった私の顔を見るなり、彼女の表情は驚きから心配へと一変した。

「凛、あんたその顔……」 
「菜穂、私……」

彼女の顔を見た瞬間、堪えていたものが全て決壊した。私は子供のように、わんわんと声を上げて泣き崩れる。

菜穂は何も言わず、ただ私の腕を掴んで部屋の中へと引き入れると、力強く、そして優しく抱きしめてくれた。

「よしよし、とりあえず上がりな。何があったか知らんけど、全部吐き出しなさい」

彼女の部屋は、いつも通り少しだけ散らかっていて、その生活感が、張り詰めていた私の心を不思議と安心させた。ソファに座ると、菜穂が差し出してくれたブランケットにくるまる。

「はい、ココア。あとティッシュ」 
「……ありがと」

温かいマグカップを両手で包み込むと、一口ココアを飲む。

喉を通り過ぎていくそれは、子供の頃を思い出すような優しい甘さ。その甘さが、あまりにも今の自分とかけ離れていて、おかしくて、どうしようもなく悲しかった。

マグカップを持つ手がカタカタと震え始め、耐えきれなくなった涙が、ココアの表面にぽつり、ぽつりと小さな波紋を作って落ちる。

「菜穂、あのね……」

一人でとどめておくのが難しくなった私は、途切れ途切れになりながらも、今日あった出来事を全て菜穂に話した。

沙羅さんのこと、赤ちゃんの悲しい運命のこと、そして、涼介さんの苦しい決断のことを。話している間も涙は止まらず、何度も言葉に詰まったが、菜穂はただ黙って私の話を最後まで聞いてくれた。

全てを話し終えると、菜穂は静かに立ち上がり、冷凍庫から大きなアイスクリームのカップを二つ取り出してきた。

「こういうときは、食べて飲んで忘れよう」

スプーンを私に突き出すように渡しながら、菜穂は吐き捨てるように言った。 

「だいたい、自分だけ悲劇のヒーローぶっちゃってさ。凛をなんだと思ってんのよ!」
「まさかこんなことになるなんて、想像もしなかった。でも、二人が別れて少ししか経ってなかったし、妊娠の可能性はあるよね……」

私の声はまだ涙で濡れていて、自分でも驚くほどか細く響いた。菜穂はそんな私の隣にぐっと体を寄せると、私の肩を強く抱いた。

「でも凛は偉いよ。ちゃんと自分でケリつけたんでしょ」
「……うん」
「本当にすごい。えらい!」

子供をあやすように、何度も「えらい」と繰り返してくれる。

自分を責めるしかなかった私にとって、菜穂のその真っ直ぐな言葉は、何よりも心強い肯定だった。せき止めていた涙が、また後から後から溢れ出してくる。

菜穂はそんな私の背中をただ黙って、力強くさすり続けてくれた。自分のことのように怒ってくれる彼女の存在が、ありがたかった。

「よし、女子会の始まりじゃ! 今夜はヤケ食いして、泣いて、あいつの悪口言って忘れよう!」

そう言って、菜穂はアイスの蓋を勢いよく開けた。

私たちはソファの上で体育座りをしながら、スプーンでアイスを直接すくって口に運ぶ。甘くて冷たいバニラアイスが、涙でしょっぱい口の中にじんわりと溶けていった。

「菜穂、ありがとう」
「何言ってんの。親友でしょ? うちら」

そのいつもと変わらないぶっきらぼうな口調が、今は何よりも心強い。隣に座る菜穂の肩にそっと頭を預けると、彼女の体温がじんわりと私の心まで温めてくれた。

テーブルの上には、ティッシュのゴミが山のように積み上がっている。

この夜が明けても、私の悲しみが消えるわけじゃない。だけど、少なくとも今この瞬間、私は一人じゃなかった。

◇◇◇

涼介と別れて、一カ月が経った。

あの日から世界から色が失われたように灰色がかっていたが、それも時間と共に徐々に色を取り戻しつつあった。

とはいえ、眠れない夜もあったり、「凛」と呼んでくれたあの耳に残る柔らかい声音が、いつまでも頭から離れてくれない日もあったりする。

一緒に過ごした時間はたった数か月なのに、彼の存在は今も色濃く、私の中に根を張っていることに嫌でも気づかされた。

それでも仕事だけは休まず、毎日真面目に取り組んでいる。課長のすすめで、最近は資格の勉強もし始めた。

仕事に没頭していると、嫌なことも忘れられたし、今の私にはここが安息の場所だといえる。

「ふぅ、間に合った。危ない危ない」

始業時間10分前、ドタバタと遅刻ぎりぎりで医事課に入ってきた菜穂が、すでにスタンバイする私の隣に、あがった息を整えながら立つ。顔にはわずかに汗がにじんでいて、かなり慌ててきたのが分かった。

「おはよ、菜穂」
「凛、おはよ。あ、そうそう。さっき唯と話してたんだけど、今週末三人でごはんでもいかない?新しくできたイタリアン!」
「いいね、行く」

即答する私を見て、菜穂は嬉しそうに笑う。

最近ではこうやって誘われたら必ず行くようになった。

この前も三人でホテルのケーキバイキングに行って、山盛りのケーキを前に写真を撮って、くだらない話で涙が出るほど笑い合った。そのあとカラオケで、めちゃくちゃな音程で叫ぶように歌った。

切ないラブソングの歌詞が、ナイフのように胸に突き刺さることもあるけれど、それでも私には菜穂や、唯ちゃんがいる。それに一ノ瀬だって。

少しずつだけど、立ち直りつつあった。

「そういえば明日、凛の誕生日でしょ?なんか予定ある?」
「ううん、何も考えてない」

苦笑いをこぼしながら、かぶりを振る。

本来なら、誕生日は涼介と旅行にでも行こうと話していた。

『温泉もいいけど、ディズニーもいいね』
『思い切って海外行っちゃう?』

そんな他愛ない会話を満面の笑みでしていたのが、ついこの間のことのよう。結局、何一つ実現しなかったけれど。

「じゃあ、みんなでパーッと盛り上がりますか!」

私の表情にかすかな影がよぎったのを、菜穂は見逃さなかったのだろう。彼女は感傷的な空気を吹き飛ばすかのように、太陽みたいな笑顔で言った。

「いいの?ありがとう」
「当たり前でしょ。一ノ瀬たちにも、声かけとくね」

そう言うと、菜穂は今日の持ち場である、会計窓口へと向かう。その頼もしい背中を見送ると、一度だけ深く息を吸いこんだ。

友達がいてよかった。過去を嘆いて悲しむのはもうよそう。

院内の大きな窓から、一筋の鋭い光となって差し込んできて、私の足元まで伸びていた。

それは新しい一日を始めるための、スタートラインのように見えた。

◇◇◇

「終わったー!」

その日、定時を迎えると、菜穂がグッとその場で伸びをした。

「凛は終わった? 帰れそう?」
「それが担当してる外科の先生がレセプトがさっき戻ってきて。もう少しかかりそう。菜穂は今から動物病院だっけ」
「そうなの。ペコの具合が悪くて。手伝えなくてごめんね」
「ううん、お大事にね。また明日」

ひらひらと手を振って去っていく彼女の背中を見送りながら、私は一人、静まり返った受付カウンターで再び深い溜息をついた。

「きりのいいところまでチェックしたら帰ろう」

一日の喧騒が嘘のように静まり返った終業後の受付カウンターで、私は手元の請求書に目を落とす。

ほとんどの職員が帰宅し、パソコンのファンの音だけがやけに大きく響いている。

その時、背後から「冴島さん」と、後輩の事務員に声をかけられた。

「ん?どうかした?」
「さっき廊下で、これを冴島さんに渡してって頼まれたんですけど」
 「え?」
 
視線が自然と、彼女が持つ紙袋に釘付けになる。白地に品の良い銀色のロゴ。彼が好きだったブランドのものだ。

心臓がどくんと、嫌な音を立てる。

「お名前はわからないんですけど、スラっと背が高くて、たまにうちにきてる営業さんだったと思います」

その言葉に心臓が凍り付く。

もしかして……。

差し出された紙袋を後輩から受け取ると、激しく鳴り響く鼓動を聞きながら封を開ける。中には、丁寧にラッピングされた小箱が……。

そしてその下に、一枚のメッセージカードが入っていた。

恐る恐るメッセージカードを開く。すると、見慣れた字が目に飛び込んできた。

『凛、誕生日おめでとう。実は異動になって、この病院に来るのは今日で最後になる。元気で』

最後、という二文字が鉛のように重く私の胸に突き刺さる。間違いない、これは涼介からだ。

「しかも異動って……」

それは二度と会えないということを意味する。彼らは転勤族で、県外に行くこともあると以前言っていた。

だけど物理的距離をとることで、けじめをつけられる。きっとこの恋心も、風化してくれるはずだ。

これでいい、これでいいんだ。手紙を持つ手に無意識に、力がこもる。

だけど頭ではそうわかっているのに、古い映画のフィルムが巻き戻されるように、楽しかった記憶だけが残酷なほど鮮明に蘇ってくる。

院内で見かけても、ずっと避けていたのは自分のくせに、もう二度と会えないのだと分かった瞬間、喉が焼けるような渇きを覚える。

「会いたい」

気づけばうわ言のようにそう呟いていた。

こんな紙切れ一枚じゃ嫌だ。最後に一度だけでいいから、涼介に会いたい。一目でいいから焼き付けたい。

その衝動に突き動かされ、私は椅子を蹴るように立ち上がった。


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