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第二部 ジェノサイド

第52話 忌まわしき過去を振り返る 櫻子の場合

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 残り時間――46分  

 残りデストラップ――2個

 残り生存者――5名     
  
 死亡者――11名   

 重体によるゲーム参加不能者――2名

 状態不明者──1名

 ――――――――――――――――


 バスから放たれるヘッドライトの煌めきが、まるで満天を彩る星たちのようにきれいだった。確か、これと似た光景を過去にも見た覚えがある。


 そう、あれは初めて私が自らの目で『死』を見たときのことだ──。


 櫻子は過去の自分を思い返した。


 小学生の頃だっただろうか。友達の家に行って、ついつい遊びに夢中になってしまい、帰りがいつもよりも遅い時間になってしまった。日が暮れて、辺りは宵闇に包まれようとしていた。

 暗くなる前に家に帰ってきなさいと母親に言われていたのを思い出して、櫻子は早足で家路を急いだ。

 大通り沿いの歩道を進んでいるとき、耳を切り裂くような甲高い音が道路の方から聞こえてきた。ほぼ同時に、硬い物と柔らかい物が、激しくぶつかり合う音が聞こえてきた。

 すぐに大人たちの怒鳴り声やら、ざわつく声やら、悲鳴に近い叫び声やらが一斉に聞こえてきた。

 子供心にも『何か』が起こったのだと分かった。

 早く家に帰らないといけないのにも関わらず、まるで導かれるようにして、騒ぎの元へと歩いていった。

 もしもこのとき寄り道などせずに、真っ直ぐに家に帰っていたら、その後の櫻子の未来は、何事もないごく当たり前の平穏な生活の毎日になっていたかもしれない。

 逆に言えば、この瞬間こそが、櫻子にとっての神のお導きだったのかもしれない。いや、それは神ではなく、あるいは死神からのお導きであったかもしれない――。

 いずれにしろ、このときの経験がその後の櫻子の自我の形成に大きな影響を与えたことは間違いなかった。

 まだ思春期さえむかえていない櫻子が見たものは──。

 路上の中央に停まった白い車。ボンネットは大きく反り返っている。フロントガラスには幾条にもヒビが入り、砕け散ってしまっている箇所もあった。片方のヘッドライトは割れており、完全に光が消えていた。反対側のヘッドライトだけに、煌々と明かりがついていた。

 その明かりに照らし出されていたものがある。

 大きく体を捻じ曲げた人の形をした物──。

 頭の中に交通教室のときの光景がよみがえってきた。車と人との衝突シーンを間近で見た。あのときは車にはねられた人はすぐに立ち上がった。怪我も一切していなかった。あの人はプロのスタントマンだと、後で先生が教えてくれた。

 でも、今実際に目に見えている人の形をした物は、ピクリとも動かなかった。そこだけ時が止まったかのように、完全に停止していた。まるで電池の切れたロボットのオモチャみたいだった。

 もっと近くに寄って行って、細部まで事細かに見たくなった。家に帰らなくてはいけないことなど、もう頭の中からすっかり消えていた。

 櫻子はさらに近付いた。道路には何重にも人垣が出来ていたが、小さな体をそこに捻じ込ませて、人垣の最前線に立った。

 すぐ目の前に人の形をした物があった。でも、いつも見ている人とは、どこか異なっていた。

 手と足が見たこともないような方向に捻じ曲がっていたのだ。それだけではない。口元が醜く歪んでいて、いつか見たテレビアニメに出てきたキャラクターみたいに滑稽だった。そのせいなのかどうか、頭から赤黒い血が流れ出していて、路上に大きな血の池を作っていたが、まったく気にならなかった。


 この人の形をした物はいったい何なんだろう?


 それが知りたかった。だから、さらに目をこらして、人の形をした物をつぶさに観察した。

 そして、やっと分かった。ようやく答えに辿りついた。

 人の形をした物の正体──それは櫻子もよく知っている、近所に住む老婆だった。いつも見ている姿から余りにもかけ離れていたので、すぐには気が付かなかったのである。


 お婆ちゃん、どうして動かないんだろう?


 子供心にも不思議に思った。お婆ちゃんは腰は曲がっていたが、近所で見かけるときにはいつもしゃきしゃきと元気に歩いていたのだ。


 もしかしてお婆ちゃん、体の具合でも悪いのかな?


 お婆ちゃんの状態を確認したくて、もっと近くで見たくなった。でも、周りにいる大人たちが怖い顔でお婆ちゃんのことを見ているので、それ以上近付くことが出来なかった。


 あれ? よく見ると、目の色もなんだか違うみたい。


 ヘッドライトの光芒を反射させているお婆ちゃんの目に視線を奪われた。学校からの帰り道で櫻子の姿を見つけるとくりくりと大きく動くお婆ちゃんの目が、今はなぜか固まっているように見えた。太陽の日差しに負けなくらいの目の輝きが、すっかり失われていた。


 お婆ちゃん、スイッチが切れたみたい……。


 ぼんやりとそう思った。そのとき──。

「櫻子っ!」

 近くで自分を呼ぶ大声が聞こえた。すぐに母親だと分かった。家へ帰らずに寄り道をしてしまったことを怒られると思った。

 でも、母親は櫻子のことを叱りはしなかった。代わりに──。

「良かったっ! 無事だったのね! 近所で交通事故があったって聞いたから、もしかしたら櫻子が巻き込まれたんじゃないかと思って……。お母さん……すごく、すごく、心配したんだから……」

 母親の声は最後の方は言葉にならずに、涙交じりになっていた。

 どうして母親が泣いているのか分からなかった。もしかしたら、お婆ちゃんのスイッチが切れたから泣いているのかと思った。でも、とにかく叱られずにすんだので良かった。

 母親にもっと近くでお婆ちゃんのことを見たいと言おうとしたけれど、すぐに家へと連れ戻されてしまった。右手を強く握られていたので、お婆ちゃんの元へ行くことが出来なかった。

 帰り道、何度も振り返ってはお婆ちゃんの姿を見つめた。脳裏には、しっかりとその光景が焼き付けられた。

 母親は無事だった櫻子のことで頭がいっぱいだった様子で、櫻子が交通事故に遭ったお婆ちゃんの遺体に尋常ならざる興味を向けていたことなど、これっぽっちも気付かなかった。

 櫻子はこのとき、初めて肉眼で『死』を見たのだった。しかし、それはただ『死』を見たに過ぎなかった。

 櫻子が『死』を知るのは、それからしばらく後のことである。


 ――――――――――――――――


 交通事故の現場を目撃した日から、櫻子の日常は徐々に変化していった。海岸に広がる波打ち際の砂が、少しずつ波の力によってその領土を侵食されていくように、櫻子の心もまた、目には見えなかったが、少しずつ異常性を帯びていった。

 最初にその兆候が見られたのがテレビの番組である。あれほど大好きだったアニメを一切見なくなり、小学生には難しい医療ドラマをたくさん見るようになった。両親は、この子は将来女医を目指しているのか、などと軽く考えていたようだが、櫻子は女医になりたくて医療ドラマを見ていたわけではなかった。ドラマ内の出血シーンを含むリアルな手術シーンだけを見たかったのである。


 どうして人の体は切られると真っ赤な血が溢れるのか?

 どうして人の体の中にはあんなにいろいろな物が詰まっているのか?

 どうして人は体が傷付くと痛みを感じるのか?

 そして――どうして人は死んでしまうのか?


 ドラマを見ながら、そんなことばかり考えていた。

 テレビ以外にも変化はあった。

 学校の帰り道、車に引かれた犬や猫の死骸を路上で見付けると、なんだかすごくうれしい気持ちになった。でも友人がいる手前、すぐに死骸に近寄ることはしなかった。友人たちは死骸に近付くことはおろか、視線を向けることすら嫌がっていたからである。

 そんなときは、櫻子はすぐに家に帰ると、後からひとりでそっと死骸を見に現場に戻った。

 完全に潰れてしまい原形が一切留めていない死骸。引き裂かれてバラバラになった死骸。一見するとどこにも異常は見られないが、生きていた格好のまま動かずに冷たく固まってしまった死骸。

 そこに『生』は一切感じられなかった。あるのは静かな『死』だけである。

 どの死骸も何時間でもずっと見ていられる気がした。でも、路上の死骸はすぐに大人たちの手で片付けられてしまう。死骸を見ている櫻子を見付けると、このままじゃ猫ちゃんが可愛いそうだからちゃんとお墓を作ってあげようね、と話し掛けてくる大人もいた。

 大人たちは誰ひとり、死骸を見て興奮する櫻子の暗い衝動に気付かなかった。

 櫻子の死骸見学の楽しみは、しかし中学生になるとぱったりと途絶えた。死骸に興味がなくなったわけではない。『小動物』の死骸に興味がなくなったのだ。

 代わりに興味が向けられたのが、同じ動物である──人間の遺体だった。

 しかし、人間の遺体にはなかなか出会うことがなかった。当然と言えば当然のことである。その為、櫻子はネット上で遺体の写真や動画を漁るようになった。

 櫻子の好奇心を満たしてくれるだけの写真や動画はたくさん見つけることが出来た。でもある日、自分が見つけたネット上の遺体の写真や動画は果たして本物なのだろうか、と疑問を思うようになった。

 ちょうどその頃、CGの技術が飛躍的に進歩して、見る者を騙す目的で作られたウソの写真やフェイク動画がネット上に蔓延りだしていたのだ。


 ネット上ではなく、本物の人間の遺体をこの目で見てみたい。


 いつしかそう思うようになった。それはもはや願望にも似た思いだった。

 そこで櫻子は自ら行動に出ることにした。学校が休みの日を使って、自動車事故が頻繁に起こる交通量の激しい道路に行くようになった。ネット上で事故が多発している踏み切りの情報を見付けては、実際に足繁く通ったりもした。

 しかし、いくら足を運べども、事故現場に出くわすような幸運には恵まれなかった。確率的にいっても、事故現場に出くわすことは無理なのかもしれないと思うようになった。

 仕方なく、別の方法を考えてみようかと思っていた矢先、『死』に接近出来る機会に遭遇した。

 櫻子のクラスメートでもある友人が難病に罹ったのだ。友人はすぐに病院に入院することになった。

 櫻子はいてもたってもいられずに、クラスメートの誰よりも早く、その病院にお見舞いに行った。

 ひどく痩せ細って顔色が悪くなった友人がベッドの上にいた。呼吸は細く、発する声は囁き声にしか聞こえなかった。友人のベッドサイドに死神が立っていたとしても、何もおかしくはない状態だった。


 これだ!


 そのとき、櫻子ははたと気が付いた。自分がこの目で見たかったのものは、まさに今の友人の状態だったのだ。

 櫻子は初めて『死』という概念を、その目でしっかりと認識したのである。

 櫻子が『毒娘』と呼ばれることになる導因は、ここから始まったと言ってもよかった。

 それから櫻子はほぼ毎日のように難病を患う友人の病室へとお見舞いに通った。傍から見たら、さぞかし友人思いのクラスメートに見えただろうが、その実、櫻子の目的は死へと向かう友人の様子をつぶさに観察することこそにあった。


 人間はどうやって死を迎えるのか?


 それを知りたかった。

 友人の体の状態から見て、『その日』が来るのは間近だと思われた。

 だが、ここで予期せぬ事態が起きる。友人が最後に縋った未承認の薬が、劇的な治療の効果を現わしたのである。

 友人の症状は日に日に良くなっていった。顔色には血色が戻り、食欲も常人と変わらないほどになった。しゃべる言葉ははっきりと明瞭になり、櫻子が病室を訪れるとたくさんの笑い声が漏れるようになった。


 こんなはずじゃなかったのに……。私が見たかったのは人間が『死』を迎える、まさにその瞬間だったのに――。


 そんな思いが募った。

 この目でしかと『死』を見届けるつもりだったのに、反対に友人が元気になっていく姿を見るハメになってしまった。

 順調に回復していった友人が、いよいよ退院する運びになった。友人は難病から奇跡的にカムバックを果たしたのである。ほぼ毎日お見舞いに行っていた櫻子の両手を握り締めながら、友人は嬉しそうに退院の日取りを教えてくれた。


 早くなんとかしないと退院しちゃう。せっかく訪れたチャンスなのに……。何か手を打たないと……。


 強迫的な思いに突き動かされるようにして、櫻子はある大胆極まりない行動に走った。

 退院の決まった友人の飲み物に、こっそりと危険な農薬を仕込んだのである。それはネットで簡単に買うことが出来る農薬だった。いきなり大量に飲ませるということはしなかった。友人の体調が激変したら、すぐに病院に事の真相がバレてしまう恐れがあったからである。

 バレないように細心の注意を払いながら、友人の飲み物や、お見舞いの度に持っていく手土産のお菓子などに、少しずつ農薬を混ぜて手渡した。

 農薬の効果はてき面だった。退院が決まっていた友人の体調は徐々に悪くなっていった。すぐに退院は取り消されて、入院の延長が決まった。医師たちは訝しながらも、未承認の薬の効き目がなくなったのではないかと考えたようだった。誰も櫻子の犯行を見抜くことは出来なかった。

 こうして櫻子の思惑通りに事は運んでいった。あとは友人の『その日』が来るのを待てばいいだけだった。

 そんなある日、お見舞いの折に、緩やかに『死』への坂道を転がっていく友人の様子を見ながら、ひとつのことを思いついた。この貴重な『死の観察』を、何か形として残したくなったのである。

 そこで櫻子は観察日記を書くことにした。まるで夏休みの宿題として出される朝顔の観察日記の如く、友人の『死の観察日記』を書き留めることにしたのである。

 日記はスマホを使って、ネット上に書いていった。最初はノートに日記をしたためようと思ったのだが、お見舞いの後、友人の状態を忘れる前にすぐに日記に書きたかったので、手軽に出来るネット上に日記を書くことにした。

 日々更新されていく『死の観察日記』――。

 そこには友人が死へとむかう様子が、一切の比喩を省いた冷酷ともいえるくらい現実的で硬い文体でもって書かれていた。

 顔色の変化、血色の濃淡、食欲の増減、気持ちの浮き沈み――。

 櫻子は出来うる限り、あらゆる角度から『死』の観察を行った。

 農薬に蝕まれた友人の体が、いよいよ切羽詰った状態になった。友人の体に何本もの管が取り付けられた。心臓の鼓動を図る器機が常備接続された。

 いよいよ『その日』までのカウントダウンが始まったのだ。

 櫻子は毎日しっかりと学校に通いつつも、内心では、自分が病室にいないときに勝手に死なないように、と自分勝手に祈っていた。


 そして――運命の日が訪れた。


 終わりを迎えたのは、しかし友人ではなく、櫻子の方だった。

 いつもと同じように友人の病室に入ると、そこに友人の姿はなかった。いや、友人だけではない。ベッドも何もかも消えていた。代わりに2人の大人の姿があった。

 ひとりは険しい顔付きをした中年の男性。もうひとりは柔和な顔をした30代前後の女性。

 ぱっと見ただけでは正体の分からない、独特の雰囲気を醸し出している2人だった。

「あなたにお話があるの」

 女性の方がその顔と同様に、落ち着きはらった優しい口調で話し掛けてきた。

「私は10代の子たちを専門に見ている心理カウンセラーなの」

 女性の言葉を聞いたとき、櫻子は事態の内容を悟った。女性に向けていた視線を、隣に立つ男性の方に静かに振り向ける。

「もしかして……刑事……さん……?」

 ぼそっと声に出して訊いてみた。

「ああ、少年課の者だ。悪いが、君が今手に持っているお見舞いの菓子を、こちらで調べたいんだけどね。──協力してくれるかな?」

 男性は櫻子が持っていた可愛らしいピンク色の箱を指差してきた。箱の中に入っているクッキーには気付かない程度に少量の農薬が染みこませてある。

 現行犯。加えて、証拠も手元にある。

 櫻子は反論することも、逃げ出すこともなく、その場で大人しく補導された。

 大人たちの手によって病院を無言のまま連れ出されていく櫻子の胸に、あるひとつの思いが去来した。

 この目で『死の瞬間』を観察出来なかったという、痛恨の極みたる思いだった。

 中学生による同級生への農薬投与殺人未遂事件は全国ニュースでいっせいに報じられ、世間を慄然と震撼させた。文科省の大臣を始めとして、教育評論家や精神科医、果てはワイドショーに出ている芸能人までもが、様々な持論を展開させた。

 しかし誰ひとりとして、櫻子の深層心理をちゃんと読み解くことが出来た者はいなかった。

 その結果、櫻子は中学生にして『異常者』というレッテルを貼られることになった。あるいは櫻子を『異常者』と呼ぶことで、自分たちは正常であるという精神的な安寧を求めただけなのかもしれなかった。

 いずれにしろ、『異常な中学生』という言葉だけが独り歩きをすることになった。それに追い討ちをかける事態が起きた。

 櫻子が補導されたことでネット上に放置されていた櫻子の『死の観察日記』が、何者かの手によって発見されてしまったのである。

 マスコミは『美味しい素材』を見付けたとばかりにセンセーショナルに報道した。一度は収まりかけていた騒ぎが、再度加熱することになった。

 ネット上では櫻子に対して『毒娘』というニックネームが付けられた。どこからか流出した櫻子の小学校時代の卒業写真を見た人間が、櫻子の美貌を見て勝手にそう名づけたのである。『毒娘』が書き綴った日記ということで、『死の観察日記』には『毒日記』という低俗な名称が付けられた。

 こうして『毒娘』と『毒日記』いうふたつのワードは、ネット上でまたたく間に拡散していった。むろん、本人の意思とはまったく関係なしに。

 一方その頃、当の櫻子はというと、自分がテレビで騒がれていることなど一切知る由もなく、淡々とした態度で少年審判を受けていた。審判の結果、事件の凶悪性と奇行性が認められて、医療少年院送致とする判決が下った。

 判決を受けて、櫻子は心理カウンセラーのもとで、一から道徳教育を学んだ。社会生活に適応出来るように、さらには社会復帰出来るように、様々な矯正プログラムを受けた。何よりも、命の大切さをみっちりと叩き込まれた。

 数年後、櫻子は無事に社会に戻ってきた。看護学校に入学して、医療の勉強を始めた。

 しかし──。

 櫻子は今、狂ったゲームの舞台に参加者として立っている。

「ゲームに参加すれば、いろいろな『死』を間近で見られますよ」

 そう櫻子に囁いた者がいたのだ。──紫人である。

 紫人の話を聞いたとき、消えかけていた『死』に対する興味が、櫻子の内心で蘇ってきた。いや、『死』への興味は始めから消えてはいなかったのだ。ただ、心の奥底に移動していただけで、そこで暗い炎を永続的に灯し続けていたのである。その重大な事実に、櫻子を担当した心理カウンセラーたちは誰ひとり気が付かなかっただけのことである。

「――そのゲームに参加させてもらうことにするわ」

 櫻子は二つ返事で了解した。


 今度こそ、本当に『死』を理解出来るかもしれない。


 そういう思いがあった。

 ゲームの内容にも、ゲームの勝ち負けにも、興味はなかった。ただ、『死』を見つめたかった。だから、狂ったゲームに参加することにしたまでのことである。

 そして、それは間違っていなかった。櫻子は今夜、普通に暮らしていては決して見ることの出来ない様々な形の『死』を、その目で実際に見ることが出来たのだから――。


 ――――――――――――――――


 残り一時間を切って、あと何種類の『死』を見ることが出来るかしら?


 そんな風に考えていると、櫻子のすぐ傍で電気バスが停まった。

「やっぱり君だったのか。園内を移動するつもりならば、このバスに乗っていった方がいい。その方が安全だから」

 運転席に座った男が気軽な口調で声を掛けてくる。男は春元だった。

「私みたいな者が乗っても宜しいのですか?」

 一応、確認だけしてみた。

「この状況で女性を無視するわけにはいかないからな」 

「ありがとうございます」

 その場で深く一礼した。

「相変わらず丁寧な物言いだな。――とにかく、早く乗りなよ。この辺には危険なやつらがいるからな」

「それではお言葉に甘えさせて頂きます」

 櫻子がバスに乗り込むと、電気特有の静かな発進音とともにバスは発車した。

 櫻子が心中にどんな暗い情熱を抱いているかなど、春元は無論知る由もなかった。


 電気バスは園内の道をゆっくりと走って行く。果たして、その向かう先に何が待ち受けているのか、バスに乗っている者たちは誰ひとりとして知らない――。
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