信号待ちにて

すごろく

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信号待ちにて

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 曇天の下、信号待ちをしている。大学からの帰り道だ。横断歩道の向こうのバス停に行くために、信号待ちをしている。バスはすでにバス停に駐車されている。信号が青になったらすぐに渡って乗り込まなければ、通り過ぎてしまうだろう。だからといって焦っているわけでもない。帰ったところで特にやることもやりたいこともない。
 いつもと何も変わらない。心にはさざ波も立たない――はずなのだけれど、今日はびちゃびちゃ波紋を作ろうとする声があった。背後にどこかの高校の制服を着た男女が立っていた。カップルかどうかは知らない。興味もない。男の方は手足がやけに細くて、髪の毛を茶色なんだか灰色なんだかよくわからない色に染めている。女の方はミニブタみたいに小太りで、コーヒー牛乳みたいな飲み物を入れたプラスチック製のカップを片手に持っている。そいつら二人が、僕の背後でぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋っている。
「――で、お前って結局あいつとはどうなの? なんか似てるところあんじゃん、お前」
「は? 何が?」
「喋り方っていうか、性格っていうかさ」
「はあ? ないない。あんな陰キャのキモオタと私を一緒にしないでよ」
「え? あいつそんな陰キャだっけ?」
「陰キャも陰キャよ。陰キャじゃなきゃ、陰キャの女は嫌い、陽キャの女が好きとかわざわざ言わない言わない。ありゃ陽キャにコンプレックス持ってるから出る発言よ。つまり自分を陽キャだと思い込んでる精神異常者、ってわけよ」
 女は耳障りな甲高い声で笑う。
「あー、言われてみりゃその通りかも。あいつ、話の輪の中には入ってくるけど、なんというか俺らの顔をきょろきょろ見てるだけっていうかさあ」
「そうそう。それにあいつさ、一人でいるときはいっつもスマホいじってんでしょ。一回何やってんのか背後からこっそり覗いたことあるけどね、後悔したね。なんか胸とか尻とか丸出しの女を撫で回してたんだよ、あいつ。何のゲームかは知んないけどさ。そんであいつ、その画面見ながらとにかくにやにやしてんのよ。ね? 気持ち悪いでしょ?」
「うーわ、そりゃ確かにキモいわ。今度からあいつと話すの控えよ」
「それが良いよ。あんなやつと一緒にいたら、陰キャのキモオタの匂いが移っちゃうよ」
 そしてまた女は笑う。男も笑う。酷く癪に障る、蚊の羽音のような不快な声で。
 私はなるべく意識を逸らそうと、シャッターばかりの商店街の前に下がっている冴えない看板を見上げてみたりしているのだけれど、否が応でも背後の二人の声は耳の中に突撃してくる。情けない、と思う。今ここで振り返って、「うるせえよ」と大声で怒鳴りつけることができたなら、どれだけ気分が晴れたことだろう。しかし、私にその根性はない。勇気もない。自信もない。それならばいっそのこと両手で耳を塞いでしまえればいいだろうに、それすらできない。私の両腕は、骨が抜けたように力なく垂れ下がっている。動かない。
 せめて一秒でも早く信号が赤から青に変わるように祈っている。それなのに、いつもなら意識することもないほど一瞬のような待ち時間が、今に限って永遠のように長い。
 背後の二人は、目の前の私の憂鬱も知らず笑い続ける。馬鹿みたいに、道化を嘲るように。
 ああ、なんて無益な時間だろう。なんて進歩のない今だろう。そう心の中で嘆いてみたところで、それは空々しく肺腑の底へと転がり落ちていくだけ。こんな浅はかなニヒリズムは、きっと誰もが鼻で笑うことだろう。自分でさえも。
 ――信号が、ようやく青へと変わる。恥ずかしいポエムを謳ったばかりのところを見計らったかのような信号機の挙動に、機械的な皮肉と嘲笑を感じる。そんなものはないけれど。
 待ち望んだ青だというのに、私の足はすぐには動かなかった。ちゃんと立ってはいるけれど、足の根幹は脱力しきっていた。赤信号のマークのまま立ち尽くしている私を尻目に、背後の二人は私の横を通り過ぎ、横断歩道を渡っていった。軽く小走りで。笑い声を立て続けたまま。キモオタやら陰キャやらと、人間の挨拶を覚えたばかりのインコのように繰り返しながら。
 私はやはり棒立ちした状態で、その二人がバスへと乗り込んでいくのを見送った。
 青信号は私を置いてきぼりにして点滅を繰り返し、また赤へと戻った。これまた私を置いていくように、バスがエンジン音を響かせながら走り出す。どこかの建物の角を曲がって、見えなくなる。通行が閉ざされた横断歩道の上を、また色とりどりの代わり映えしない車たちが走っていく。
 そこで私はようやく、やっと肩の力が抜けたように息を吐きだした。同時に今更になって腹が煮えるような感情が湧き、ぶら下がっていただけだった片手を上げ、そっと中指を立てた。それは誰に向けられることもなく、ただ天を指していた。
 さあ、またしばらく長い待ち時間だ。
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