クズ箱日誌

すごろく

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ハシザワイサオ

ハシザワイサオ その8

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「落ち着きましたか?」
 対面のパイプ椅子に座るイチノセが微笑みかけてくる。
 俺はもらった粗末なタオルを腰に巻いて、スタジオ横にあった休憩室のような簡素なスペースに案内され、そこの妙にぼろいソファに座らされている。あれだけみっともなく立ち上がっていた一物はすっかり元気が失せたように垂れ下がっていた。涙はもう引いたけれど、目元の痛みや頬のべたつき、舌の上に残る塩味なんかは一向に取れなかった。
 射精後に倒れた俺は、あのサクラダという男にここまで運ばれた。それからイチノセが目の前のパイプ椅子に座って、俺が落ち着くまでじっと待っていた。
「――はい、とりあえずは」
 返事をしないわけにもいかず、短く応答する。
「それは良かったです。水飲みますか?」
 イチノセはいつの間にか片手に持っていたミネラルウォータ入りのペットボトルを俺に渡してこようとしたけれど、首を横に振って断った。
 代わりにイチノセは自分がペットボトルのキャップを開けて、ぐびぐびと一気に中身を飲み干した。中身の水は波打ちながらイチノセの口の中へと吸い込まれていった。
 イチノセは空になったペットボトルをパイプ椅子の足元に置き、乱暴に腕で唇を拭った。
「いやあ、まさか泣くとは思いませんでしたよ」
 そして次に口を開いてみれば、不躾にそんなことを言う。
「――私も、自分があんな風に泣くとは思いませんでした」
 否定する気は起きなったし、弁解の言葉も毛頭浮かばなかった。いい歳こいて、俺は泣いたのだ。惨めに。しかも未成年と無理やり淫行をしながら。
「まったく、しょうもないったらないですよ」
 もはや自嘲すらすることができず、俺は蚊の羽音のような声でつぶやいた。
 イチノセは首を縦にも横にも振らず、ただ笑い続けながら言った。
「大丈夫ですよ、誰だってあることじゃないですか、あんなことは」
「は? あなたに何がわかるっていうんですか?」
 そののんきな言葉に対して、つい棘のある声音が飛び出した。半ば投げやりだったから、この男の薄っぺらい笑顔を一瞬でも引き剥がしてやりたいという意地の悪い気持ちもあった。しかし、イチノセはまったく気分を害したような様子を見せなかった。
「何もわかりませんよ、僕はハシザワさんじゃありませんからね」
 そう悪びれる風でもなく、イチノセは肩を竦める。
「ほら、私だってこれでも人間ですから。こんな悪事を働いてますけどね。やっぱ人間ですから。人並みに泣いたことだって一度や二度じゃないですよ、そりゃ。鬼の目にも涙、というやつです。まあ、鬼っていうほど大層なもんじゃない、ただのクズですが」
 ふふふっと鼻から空気を吐くように笑う。
「いや、でも――その、私のは違うんです、そういうのでは、そういうのではなくて――」
「言いたいことは察せられますよ。でもね、それはやっぱりハシザワさんの心のことですから、僕には到底推し量れません。僕が言ってるのは、理解じゃなくて共感の方ですから。泣いた理由は理解できないけど、泣くという行為に共感はできるってやつです。ありきたりな言い回しで申し訳ないですけど」
 俺はもう反論のしようもなくて、ただただ俯いて埃の塊が転がる床を見下ろした。
「何もね、僕はハシザワさんを責めたり馬鹿にしたりしたいわけじゃないんです。それはわかってもらってるとは思いますけど。ハシザワさんは当社の大切な会員様ですし、これからも撮影に参加していただきたいんです。だからね、これは単純な励ましなんですよ。他意はありません。僕はハシザワさんに元気になって欲しい、それだけなんですよ」
 イチノセの言葉に、嘘のようなものは感じられなかった。こんなに笑顔は胡散臭いというのに、その言葉の一つ一つは正直なものであるという気がしてならなかった。これがこの男の雰囲気によるものなのか、疲れ切った俺の頭が疑うことを拒否しているからなのかはわからなかった。騙されているのかもしれない、と一瞬思ったけれど、こんなこの世の終わりみたいな状況で、騙されているも何もないだろう、と同時に思った。
 何にせよ、俺が今この男を疑って、得なことなど何一つなかった。
「――その、気持ちは正直に受け取りますよ。それは嘘じゃないんでしょう。あなたは商売人で、私はあなたの大事な客みたいですから。でも、私はもうここには――」
「来ますよ」
 俺の声を遮って、イチノセはそうきっぱりと断言した。
「ハシザワさんはまた必ずここに来ます。必ずね」
 ――俺はイチノセの顔も見ずに、また返答もできずに、床の汚れを見続けた。なぜか脳内では、ケイタのあの曖昧な笑みばかりがイメージを占拠していた。
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