クズ箱日誌

すごろく

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ハシザワイサオ

ハシザワイサオ その9(おわり)

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 ゴミ溜まりの路地、無関心そうな交差点――ただでさえ見飽きて淀んだ光景が、今夜はひときわ薄暗がりの中に沈み込んでいる。重たい足をコンクリートに引き摺って、俺は少しずつ自宅へと近づいていく。
 イチノセと特に実りのない話をしたあと、俺はあの会員カードを握り、普通にあの人気のない公園に帰ってきた。カンバラはすでに俺を置いて帰った後だった。スマホを覗くと、カンバラからラインが来ていて、『ちょっと社長が課長と話したいって感じだったんで、先に帰ります。また行きましょうね!』と相変わらず気楽な調子の文面が並んでいた。
 自宅の灯りが見えてくる。それは台所兼食卓の窓から漏れている。あんなに寂しく、心許ない灯りだっただろうか。何度か元来た道を引き返しそうになった。今から逃げて、帰る場所も放棄して、このまま消えてしまえたら――そういう風に行動できたのなら、さぞかじ楽だっただろうけれど、生憎俺にそんな度胸はなかった。
 逡巡すらできないうちに、俺は玄関前のドアまで到着する。俺は汗でびっしょりと濡れ、真冬に凍えているように震えている手を、そっとドアノブへと伸ばした。まだ間に合う、すぐにでも走って逃げだせば――。そう説得しようとする声が言い終わらないうちに、俺の手はドアノブを回した。
 ドアを開けた先は、何も変わっていない、殺風景な我が家の内側だった。底なし沼に嵌ったように薄暗がりに沈んでいた外界と違って、家の中は無遠慮な電灯が、廊下の角の隅々まで人工的な光を注ぎ込んでいた。それは本来安心すべき景色のはずなのに、俺の内面はさらに暗澹たるものに覆われていくようだった。
 それでも俺は逃げ出す勇気を湧かせることができず、靴を脱いでおずおずと廊下を進んだ。そこでふと、普段今から聞こえてくるテレビの音が聞こえてこないことに気づいた。居間を覗くと、電灯は点けられていたがテレビは点けられておらず、またポテトチップスの空き袋は転がっていたが、いつも寝転がっているはずの妻はいなかった。
 居間の机の上に、一枚の紙切れが置かれていた。
『ともだち、泊まり。晩飯、適当に』
 紙切れには雑な筆跡で、それだけ書かれていた。
 よくわからないけれど、今妻がいないことに、ひとまずほっとした。どうせ帰ってくるのだし、こんなものは先送りでしかないのだけれど、それでも安堵した。――本当は、こんなことで胸を撫で下ろしている場合ではないとわかっていた。俺にはもう一人家族がいるのだ。それも妻よりももっと大事な、最愛の息子が――。
 ああ、どうしようか。普段ならこのまま台所兼食卓に行って、晩飯を食って――それで普段通りケイタと顔を合わせてしまったら――ああ、本当にどんな顔をすればいいのだ。どんな顔をして、あいつと向き合えばいいのだ。こんなやつは父親ではない、父親ではないのだ。でもケイタはそれを知らない。俺が最低のクズということを知らない。間抜けにも程があるけれど、俺はそれに縋りたいと思ってしまっている。どうしよう、どうしよう――。
 そんな思い悩むふりをしながら、結局俺は普段通りの行動を取ろうとしている。昨日と同じく、毎日と同じく、俺は台所兼食卓へと入る。
 流し台の前に、ケイタがいた。コップに何かジュースのようなものを注いで、飲んでいた。
 俺はとっさに俯いて、そそくさと食卓の一席に着席した。自分でも意外なほどに反射的に動いたから、ケイタと目は合わなかった。
「あ、おかえり」
 ケイタが言った。いつもの気だるげな声で。
「た、ただいま」
 俺は俯いたまま、必死に震えを抑えた小さな声で返した。
 それからケイタは何も声をかけてこなかった。ただ何かを飲んで喉を鳴らす音が微かに聞こえた。俺は何度か顔を持ち上げようとしたけれど、特大の重石を乗せられたように、首はなかなか上へと稼働してくれなかった。
 コップを置いた音がした後に、蛇口から水を流す音、濯ぐような音がしたあと、蛇口の水の音も止んだ。それから程なくして、ぎしぎしと床を踏む足音がする。ケイタが出ていこうとしているのだとわかった。このまま出ていってくれれば、一旦は楽に、楽に――。
「――待ってくれ」
 そう俺の口は勝手に喋っていた。あれだけ重かった頭も、なぜか急に軽くなって、反動がつきそうなほど一気に上がった。
 ケイタはドアの前にいて、ドアノブに手を伸ばした姿勢のまま静止していた。
「どうしたの?」
 ケイタは俺に訊いた。興味なさそうに、それでも無視をせずに。
「あ、あ、あ、その――」
 ここに来て、また言葉に詰まった。これでは何のために口が開いたのか、あんなに重かった頭が軽くなったのか、わからない。だから俺は餌を求めるため池の鯉みたいに口を何度もぱくぱくと開閉させて、言葉を捻り出した。
「ケイタは、さ、俺が、その――クズだったとしても――あの、クズっていうのは、倫理的におかしいことしてるとかそういう――そういうやつだったとして、刑務所に入るような、死刑になっても誰も文句言わないようなやつだったとして――ケイタは、俺を、お、俺を、まだ父親だって、自分の親だって――思ってくれるか?」
 何を言っているのだか、自分でも意味不明だった。唐突にこんなことを訊いてくるやつがいたら、頭のどこかが狂ったと思う方が自然だ。こんなことなら俯いたままやり過ごせば良かったと後悔しても、出した言葉は引っ込められなかった。
 ケイタは、すぐには返事しなかった。ドアノブに触れそうな位置で片手を宙に浮かせたまま、ゆっくりと目を閉じ、そしてまた開き、それから――笑った。ケイタは笑った。あの、いつか見た、歪んだ笑みだった。
「――父さんが言ってたじゃんか。男の性的嗜好は、そんなもんだって」
 ケイタの視線が真っ直ぐに俺を射抜いた。少し遠いから見えないけれど、その瞳には――その歪んで細められた瞳には、確かに俺が映っていた。俺にはそれが見えた。物理的なものではなかったけれど、確かに見えた。瞬間、俺はまたさっと俯いた。テーブルの上に落ちる自分の影を見つめた。
 ケイタはもう、何も言わなかった。
 しばらくして、ドアノブが回される音がして、続いて開閉の音がした。足音が遠ざかっても、俺は顔を上げることができなかった。
 自分の影で暗いテーブルに、水滴が落ちることはなかった。涙腺は枯れ果てていた。
 こんなことなら、あそこですべて流してしまわずに、少しばかり残しておくべきだったと、こんな状況でも馬鹿みたいなことを考えながら、俺は俯き続けた。
 蝿か蚊の羽音と、耳鳴りが混じって、寒々しい空気を震わせていた。
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