人の身にして精霊王

山外大河

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四章 精霊ノ王

6 恩返し

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「……どうかしたか?」

 俺はとりあえずそう声を掛けるけど、その答えは分かってる。
 どうしたかは分からないけど、どうかした事くらいは分かっている。何もなければナタリアは俺に接触してくる様な真似はしない。

「どうもしていない。仮にどうかしていても……それを人間に言われる筋合いは無い」

 そう言った後、ナタリアは眠っているエル達に視線を落とす。
 そうして向けられた表情は俺の時とは打って変わって柔和な……これまでみた事が無い様な優しい表情。
 その差が彼女と俺との間に入っている亀裂の大きさを示していた。
 そしてその亀裂を感じさせるほどの優しい表情を見て、俺は少し気が抜けてしまったのかもしれない。
 それだけの亀裂が存在する相手を目の前にしているにも拘らず、あまりにも薄すぎた警戒心をさらに引き下げてしまったのかもしれない。

「ああ、そうだ。お前ら人間はどうかしている。頭が可笑しいんだ」

 そのまま再び俺に向けられる視線。敵意に塗れた目を背けたくなるような視線。
 次の瞬間にはそれが文字通り目の前に現れた。
 目と鼻の先。肉体強化を要いた高速移動の末に彼女は構えを取りそこに躍り出て来て拳が放たれる。
 だけど辛うじて抵抗できそうではあった。肉体強化の発動にも成功し、今から後手に回って行動を起こしてもなんとか防げる様な。そんな感覚だった。
 だけどそれを俺の認識が邪魔をした。
 例えば純粋に敵が同じ距離。同じ速度で迫ってくれば、迷いもなく殴り飛ばしていたかもしれない。蹴り飛ばしていたかもしれない。
 だけどそうじゃない。
 目の前にいるのは明確な敵意を向けられても、多分敵ではない。そんな相手。
 エル達に、見た事のない優しい表情を浮かべたばかりの女の子。
 その認識が俺の手を僅かに鈍らせた。
 故にその手を叩きこまれる。

「ガハ……ッ」

 鳩尾を正確に突く掌底。
 だがその攻撃はまるで手でも抜かれたんじゃないかと思うくらいに軽い。勢いよく地面を転がるが、それだけだ。
 だけど次の瞬間には俺の体が重くなる。
 いや、元に戻りかかったと言うべきかもしれない。
 ……すぐに異常だと分かる段階にまで、肉体強化の出力が落ちていた。
 それでもなんとか体制を整え正面に視線を向ける。
 そして映るのはすぐ目の前にまで来ているナタリアの姿で、次の瞬間には勢いよく押し倒される。
 そして続けざまに、再び鳩尾に掌を叩きこまれた。

「ぐ……ッ」

 その攻撃にも重みは無く、申し分程度の痛みを感じるだけにとどまった。
 だけど先の掌底の様に全身が重くなる。否、重くなっていく。
 徐々に徐々に、力を奪われていく。否、抑えこまれていく。そんな感覚。

「なに……しやがんだ……ッ!」

 胸に突き付けられているナタリアの右手首を掴んで引きはがそうとするが、まるで動かない。びくともしない。それだけ腕に力が入っていない。

「……それはこちらのセリフだ、人間」

 酷く冷めた声。酷く凍てついた敵意と憎悪に塗れた視線。
 それを向けたまま、ナタリアは俺に問う。

「お前は一体何を企んでいる? 私達に……いや、あの子達に何をするつもりだ?」

 そう言ったナタリアの左手に炎が灯る。
 そこで理解した。一体ナタリアが何をしようとしているのかを、ようやく理解した。
 ……尋問。もしくは拷問。
 今だ俺の事を味方だと信じてくれていない。何処かに裏があると信じているナタリアによる、存在しえない答えを聞くための拷問。

「……ッ!」

 その先に起きる事が、決してまともじゃない事は目に見えて分かった。
 だから叫ぼうとした。この状況を打開するためにもエル達の力を借りようと。そう思った。
 だけど思っただけで実行はされない。

「声をあげても無駄だぞ」

 その選択肢は打ち消される。

「何の為に私とお前の二人だけしかいないタイミングで仕掛けたと思う? 何のためにお前が洗脳でも施してるあの精霊が眠るのを待っていたと思う? 運良く訪れたこの状況を、そう簡単に壊させるとでも思うか?」

 つまりは音をシャットアウトする様な何かが、俺達かエル達の周囲に施されている。そういう事になるのだろう。
 ……んな事よりだ。

「……洗脳、だと?」

 その言葉に反応せざるを得なかった。

「んなもんしている訳がねえだろうが!」

「いや、手段があれば……目的があれば。お前らならするだろう。他の精霊を騙す為の餌とでも思っているのではないか? 例えばあの時あの場所に、ああなる事を見通して連れてきたのだろう? あの精霊を利用していたのだろう?」

 あの時あの場所。
 この状況下でその事を言われて思い出すのは、精霊加工工場の最深部。精霊が捕まっていたあの部屋へと辿り着いた時の事だ。
 あの状況。全ての精霊が俺を敵と認識する中で俺が行動に移せたのは、全てエルによるお膳立てがあったからだ。そしてきっと、人間があの場に赴けば精霊達がどういう反応を取るかというのは、事前に思いついてもおかしくない事だ。
 それ故にあの場の精霊の信頼を勝ち取るために、人間に信頼を置くというきっと異端な状態の精霊は必要なピースの様に思える。思われても仕方が無い。
 実際にそう思われて……利用したんだと思われている。
 俺が何かしらの手段でエルを洗脳してあの場に連れてきて……そして今、連れていると。そう判断されている。
 判断されているからこうなっている。否、きっと判断されなくてもきっとこうなっている。

「さあ、もう一度問うぞ。お前は何を企んでいる?」

 恐らくというか間違いなく、俺が正しい事を言っても理解されない。それで理解してくれるようならばきっとナタリアは俺達の輪の中には入れている。
 あの工場を出た後から、少しでもまともな視線を向けてくれているはずなんだ。
 だけど何を言っても曲解される。どれだけ正しい事を言っても、それにどれだけの証明を塗りたぐっても、感情論の前でそれは無力で、無力だったからこそ今のこの状況が形成されている。
 ……それでも。

「別に何も企んでねえっつってんだろ。あの時言ったように、俺はエルを助けたいから絶界の楽園へと向かっていたんだ。そして今はお前らもそこに連れていく為に行動している」

 結局俺に言える事は正論だけで。だったら俺は正論を言うしかない。
 だから俺はただひたすらに正論をぶつけ続ける。それしかない。

「俺は精霊を助けたいんだ。そう思えるくらいにはこの世界の歪みを知っているつもりだし、後に引けない事だってお前ら助けるためにやったんだ。本当に俺が精霊を利用する為に行動しているのだとすれば、指名手配になっていつ殺されたっておかしく無い様な事をしてまでお前らと接触してねえよ。ただお前らを助けるのが正しいと思ったから、俺はあの場に躍り出たんだ」

 利益も何もない。俺の立場はもうどうしようもない事になっている。
 それが俺の言動の正しさを証明してくれている筈……なんてのはあまりに楽観的だ。

「本当にか?」

 例え根拠が無くとも。無理やりにでも彼女は俺を敵と認識しようとする。そういうフィルターが目に耳に備えられているかの様に。供えさせてしまったかの様に。

「お前が人間の中での立場を失った。それは理解している。だけどそうなってでも十分な何かを。メリットを、お前は見出したんだ。それが今の状況の行きつく先だ。そうだろう!」

「そうじゃ、ねえよ!」

「いや、そうだ! そうに決まってる! そうに決まっているだろう! 私がら全部全部奪っていった人間が、まともな事を考えている訳がないだろう!」

 そしてそこまで叫び散らして、ナタリアの声はまるで掘り起こしたくない記憶でも掘り起こしてしまった様に、自然と小さな声になる。
 最大限のやるせなさと悲しみを籠めた声に。

「ああいう事をやっていた優しい奴ですら……お前らは容赦なく捕らえるんだ。人間に好意的な行動をとった馬鹿ですら、お前ら人間は虐げるんだ」
 そして彼女の言葉の先は、俺の一つの記憶と繋がる。

「崖から落ちて死にかけている人間を助けるような馬鹿ですら……お前らの餌食になっているんだぞ……ッ!」

「……え?」

 死にかけている人間を助ける。それがこの世界において異様な光景である事は十分に理解していて、そしてそういう事があった事を俺は知っている。

『両手足が治っていた事と、崖の上に戻ってきていた事。それを考えれば、精霊に助けられた事は明白だった』

 そうして生きながらえて、その精霊のために必死になっている人間を俺は知っている。

「止めたのに。それでも動いたあの馬鹿はとうとう戻ってこなかった。人間に恩を仇で返されたんだ!」

 ナタリアの言っている精霊が、シオンの隣に居た金髪の精霊かどうかは分からない。だけどその可能性は高くて……だとすれば、ナタリアの語る言葉は間違っている。
 シオンは恩を仇でなんか返していない。その場で何かを返す事はしなかったかもしれないけれど、それでもきっと仇なんかでその恩を返そうとした事は一度たりともない筈なんだ。
 シオンの知らない所でシオン以外の誰かに捕まった。きっと真相はそういう事の筈なんだ。
 だとすれば、例え信用されなくてもその間違いだけは容認できない。
 今のままだと、シオンがあまりにもいたたまれない。
 例え難しい事だとしても、その誤解だけは解かないといけない。解こうとしなければいけない。
 だから黙りこむな。言葉を紡げ。
 それが俺なりの恩返しだ。
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