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第87話 神託の指すもの
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〈聖域〉は沈黙の中にあった。
光も音もなく、ただ祈りの気配だけが満ちる場所。
〈聖女〉セラフィーナは、深く、長く祈りを続けていた。
やがて、どこからともなく、風が吹く──この空間に、本来在るはずのない風が。
そして、“声”が降りてきた。
それは言葉ではなく、熱でも、冷気でもない。
ただ、在るだけの存在が、彼女の内へと、静かに、深く、染み渡る。
その瞬間、セラフィーナは瞼を開いた。
まるで溺れていた深淵から、ふと水面へと引き戻されたように。
空間の静けさは変わらず、だが、彼女の胸は激しく波打っていた。
視線を伏せ、祈りの姿勢を解きながら、彼女は静かに告げる。
「……世界が、揺らぐ……」
側仕えの巫女たちは息を呑み、控える神官たちも顔を見合わせる。
だが、セラフィーナはそれ以上を語らなかった。
ただ、己の中に残る“予感”──。
それは声ではなく、映像でもない。
しかし確かに、何かが彼女の中に焼きついていた。
──ひとたび封じられしもの、いま再び、蠢かん
──理の水脈に逆らいし、忘却の影が目を覚ます
揺れる帳の向こうに、微かに覗く紅い瞳。
大地に根ざさぬ民の集い。
羽ばたくもの、囁くもの。
断絶の果てに見えた、輪郭を持たぬ門。
それらは形を持たず、意味を成さず、だが確かに存在した。
言葉にすれば崩れてしまう、神の領域の予兆。
セラフィーナは、胸の内に残ったその残響を、ただ静かに抱きしめる。
この身を通して伝えられた“それ”を、今、言葉にしてはならない。
いずれ、その時は来る。
それまで、この身に宿したまま、ただ祈り、待ち続けるだけ。
◆
神託の翌日。
聖教国の中心、〈聖光の座〉と呼ばれる神殿会議室には、重々しい空気が満ちていた。
黄金に彩られた半円形の石造の卓を囲むのは、枢機卿たち。
その席の最奥、玉座には、聖教国教皇。
〈聖女〉セラフィーナは、その中央にただ静かに座していた。
「……理の水脈に逆らいし影、ですか」
低く呟いたのは、ある老枢機卿。
何十年もの間、神託の解釈を担ってきたその眼にも、今の言葉の意味は読み取れぬ。
「その“封じられしもの”とは何を指しておられるのでしょう、〈聖女〉様」
別の枢機卿が問いかける。
しかしセラフィーナは、ただ静かに瞼を閉じたまま、答えなかった。
「……あれは啓示ではなく、“予兆”にすぎません」
かろうじて告げられたその一言に、会議室がざわつく。
「予兆──と? では、真なる危機はいまだその姿を見せていないと?」
「その“理に逆らうもの”とは、どこに、何を……」
問いは次々と重なるが、セラフィーナはそれ以上何も語らなかった。
それは、神の“沈黙”に倣ったものだった。
この段階で言葉を与えることは、いずれ訪れる定めに干渉する行為となる。
その危うさを、彼女は本能のように感じ取っていた。
「……神の声は、時に“無言”をもって語られます」
それだけを残し、セラフィーナは静かに席を立つ。
誰も、それを引き留めることはできなかった。
その背に宿る光が、確かに“神意”を帯びていたからだ。
だが、残された者たちは混乱を深めていく。
神託の不明瞭さ──
それは、聖教国にとって“最も恐ろしい兆候”であった。
かつて大災厄の前にも、神の声は同じように“曖昧”であったという。
聖女が沈黙を守る時──
それは、時代の転換が既に始まっている徴であると、古き記録は語っていた。
◆
神託から数日後──。
神殿会議室に隣接する塔、その地下にある密室に、幾人かの影が集っていた。
光の届かぬその部屋には、教国最奥の意志が隠されていた。
「〈聖女〉様が沈黙を守られる以上、我らが“兆し”を見極めねばならぬ」
重く響く声は、大柄な枢機卿のものだった。
彼の前に控えるのは、全身を濃紺の外套で覆った数人の人物──
聖教国が極秘裏に保有する諜報機関〈薄氷の目〉の精鋭たち。
「目的は二つ。王国と帝国に巣食う“動き”を見極めよ」
「特に王国── 〈暗黒騎士〉に関する続報と、そこに関わったとされる者の素性を調べよ」
「帝国においては、禁術や古代神話に関する闇組織の動向を洗え」
「了解。影から影へ、声なきままに」
諜報員たちは口々にそう応え、闇の中へと姿を消していく。
その背に、枢機卿はなおも低く呟いた。
「……“理に逆らう影”が何者であれ、神の意志に仇なす存在ならば……必ずや裁かれねばならぬ」
その目に宿る光は、冷たい信仰心の焔だった。
たとえ“神の声”が沈黙していても──信徒たちは、己が信じる正義を疑わぬ。
こうして、聖教国の諜報の刃が、王国と帝国の深部へと静かに突き立てられていく。
◆
聖光の座の地下、重厚な石造りの会議室に、数人の諜報員が疲れた顔で姿を現した。
彼らは王国、帝国双方へ派遣された〈薄氷の目〉の精鋭たちである。
枢機卿が一歩前に進み、厳しい視線を向けた。
「報告を始めよ」
王国からの諜報員が口を開く。
「我々の調査によれば、ここ数ヶ月間に 〈暗黒騎士〉と呼ばれる男が各地で暴れておりました。その背後には、〈黒翼〉と呼ばれる闇の組織の存在が確認されております。彼らは秘密裏に王国の辺境で活動し、混乱を煽っているようです」
続いて帝国側の諜報員が報告を続けた。
「帝国の調査も同様の動きを捉えております。〈黒翼〉と呼ばれる闇の組織は現在、王国と帝国の国境付近に不穏な動きを活発化させている。両国はこれを看過できず、共同で周辺警備を強化している状況です」
枢機卿は短く頷き、重々しく言った。
「〈黒翼〉……やはりあの“影”は現実のものとして動いているのか。神の秩序を脅かす者たちだ」
「今後も引き続き、彼らの動向を監視し、必要あらば聖教国の力も投入するべきでしょう」
「故に、聖女様の啓示は警鐘であると考えねばならぬ」
会議室は一瞬、重い沈黙に包まれた。
それは、これから訪れるであろう激動の序曲を告げる静かな前触れだった。
光も音もなく、ただ祈りの気配だけが満ちる場所。
〈聖女〉セラフィーナは、深く、長く祈りを続けていた。
やがて、どこからともなく、風が吹く──この空間に、本来在るはずのない風が。
そして、“声”が降りてきた。
それは言葉ではなく、熱でも、冷気でもない。
ただ、在るだけの存在が、彼女の内へと、静かに、深く、染み渡る。
その瞬間、セラフィーナは瞼を開いた。
まるで溺れていた深淵から、ふと水面へと引き戻されたように。
空間の静けさは変わらず、だが、彼女の胸は激しく波打っていた。
視線を伏せ、祈りの姿勢を解きながら、彼女は静かに告げる。
「……世界が、揺らぐ……」
側仕えの巫女たちは息を呑み、控える神官たちも顔を見合わせる。
だが、セラフィーナはそれ以上を語らなかった。
ただ、己の中に残る“予感”──。
それは声ではなく、映像でもない。
しかし確かに、何かが彼女の中に焼きついていた。
──ひとたび封じられしもの、いま再び、蠢かん
──理の水脈に逆らいし、忘却の影が目を覚ます
揺れる帳の向こうに、微かに覗く紅い瞳。
大地に根ざさぬ民の集い。
羽ばたくもの、囁くもの。
断絶の果てに見えた、輪郭を持たぬ門。
それらは形を持たず、意味を成さず、だが確かに存在した。
言葉にすれば崩れてしまう、神の領域の予兆。
セラフィーナは、胸の内に残ったその残響を、ただ静かに抱きしめる。
この身を通して伝えられた“それ”を、今、言葉にしてはならない。
いずれ、その時は来る。
それまで、この身に宿したまま、ただ祈り、待ち続けるだけ。
◆
神託の翌日。
聖教国の中心、〈聖光の座〉と呼ばれる神殿会議室には、重々しい空気が満ちていた。
黄金に彩られた半円形の石造の卓を囲むのは、枢機卿たち。
その席の最奥、玉座には、聖教国教皇。
〈聖女〉セラフィーナは、その中央にただ静かに座していた。
「……理の水脈に逆らいし影、ですか」
低く呟いたのは、ある老枢機卿。
何十年もの間、神託の解釈を担ってきたその眼にも、今の言葉の意味は読み取れぬ。
「その“封じられしもの”とは何を指しておられるのでしょう、〈聖女〉様」
別の枢機卿が問いかける。
しかしセラフィーナは、ただ静かに瞼を閉じたまま、答えなかった。
「……あれは啓示ではなく、“予兆”にすぎません」
かろうじて告げられたその一言に、会議室がざわつく。
「予兆──と? では、真なる危機はいまだその姿を見せていないと?」
「その“理に逆らうもの”とは、どこに、何を……」
問いは次々と重なるが、セラフィーナはそれ以上何も語らなかった。
それは、神の“沈黙”に倣ったものだった。
この段階で言葉を与えることは、いずれ訪れる定めに干渉する行為となる。
その危うさを、彼女は本能のように感じ取っていた。
「……神の声は、時に“無言”をもって語られます」
それだけを残し、セラフィーナは静かに席を立つ。
誰も、それを引き留めることはできなかった。
その背に宿る光が、確かに“神意”を帯びていたからだ。
だが、残された者たちは混乱を深めていく。
神託の不明瞭さ──
それは、聖教国にとって“最も恐ろしい兆候”であった。
かつて大災厄の前にも、神の声は同じように“曖昧”であったという。
聖女が沈黙を守る時──
それは、時代の転換が既に始まっている徴であると、古き記録は語っていた。
◆
神託から数日後──。
神殿会議室に隣接する塔、その地下にある密室に、幾人かの影が集っていた。
光の届かぬその部屋には、教国最奥の意志が隠されていた。
「〈聖女〉様が沈黙を守られる以上、我らが“兆し”を見極めねばならぬ」
重く響く声は、大柄な枢機卿のものだった。
彼の前に控えるのは、全身を濃紺の外套で覆った数人の人物──
聖教国が極秘裏に保有する諜報機関〈薄氷の目〉の精鋭たち。
「目的は二つ。王国と帝国に巣食う“動き”を見極めよ」
「特に王国── 〈暗黒騎士〉に関する続報と、そこに関わったとされる者の素性を調べよ」
「帝国においては、禁術や古代神話に関する闇組織の動向を洗え」
「了解。影から影へ、声なきままに」
諜報員たちは口々にそう応え、闇の中へと姿を消していく。
その背に、枢機卿はなおも低く呟いた。
「……“理に逆らう影”が何者であれ、神の意志に仇なす存在ならば……必ずや裁かれねばならぬ」
その目に宿る光は、冷たい信仰心の焔だった。
たとえ“神の声”が沈黙していても──信徒たちは、己が信じる正義を疑わぬ。
こうして、聖教国の諜報の刃が、王国と帝国の深部へと静かに突き立てられていく。
◆
聖光の座の地下、重厚な石造りの会議室に、数人の諜報員が疲れた顔で姿を現した。
彼らは王国、帝国双方へ派遣された〈薄氷の目〉の精鋭たちである。
枢機卿が一歩前に進み、厳しい視線を向けた。
「報告を始めよ」
王国からの諜報員が口を開く。
「我々の調査によれば、ここ数ヶ月間に 〈暗黒騎士〉と呼ばれる男が各地で暴れておりました。その背後には、〈黒翼〉と呼ばれる闇の組織の存在が確認されております。彼らは秘密裏に王国の辺境で活動し、混乱を煽っているようです」
続いて帝国側の諜報員が報告を続けた。
「帝国の調査も同様の動きを捉えております。〈黒翼〉と呼ばれる闇の組織は現在、王国と帝国の国境付近に不穏な動きを活発化させている。両国はこれを看過できず、共同で周辺警備を強化している状況です」
枢機卿は短く頷き、重々しく言った。
「〈黒翼〉……やはりあの“影”は現実のものとして動いているのか。神の秩序を脅かす者たちだ」
「今後も引き続き、彼らの動向を監視し、必要あらば聖教国の力も投入するべきでしょう」
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