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彼の日の桃の香
♦️(3)
しおりを挟むピアノのレッスン室内には、先ほど食べたお菓子の香りがまだほんのりと残っている。
甘い香りに、洗練されたクリアなピアノの音色。隣には最愛の親友ジェニー。なんて素晴らしい時間なのかしら。
ジェニーの婚約者はこの国の皇太子だ。学校を卒業し次第、婚姻することになっていると聞いた。そうなったら、こんなに穏やかな時間を共に過ごせる機会は減るだろう。私も私で、家督を継ぐ準備をしなければならない。
子供でいられるのは今だけだ。
ジェニーは婚約破棄を狙っているが、正直、現実的ではない。というのも、あの皇太子がジェニーにベタ惚れしている。
最初は外見だけに惹かれて、皇太子という立場を利用して無理やり婚約したのだと思っていた。しかし、この粘り強さを見ると、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。
冷たくされるのが好きという性癖の人もいると、シャンテが言っていた。皇太子殿下は、もしかしてそれなのでは?
そういえばあの日はどうだったかしら?
私は先ほどジェニーとも笑い合ったあのお茶会の記憶を遡る。
* * * * *
婚約してしまったと落ち込んでいたジェニーに、ある提案を書いた手紙を送った。
1度婚約してしまったら、白紙に戻すのは難しい。皇族ともなれば尚更だ。とはいえ落ち込む親友を放ってはおけず、少しでも可能性があるならば、と思ってしたためた物だったが、思いの外乗り気の返信が届いた。しかも、ジェニーのお兄様、エル様が協力してくれるらしい。ともなれば、失敗する気がしない。
何やら秘策アイテムを開発するので、こちらでは都合のよさそうな令嬢を探して欲しいとのこと。
なんだか楽しくなってきましたわ。適任者探しはお任せなさい。
エル様の助言で、皇太子殿下主催のお茶会に招待された令息令嬢の中から候補を絞ることにした。
面食いであろう皇太子殿下の為に私が目を付けたのは、セルーナ・フォレスター伯爵令嬢。年齢は私たちの1つ上で、それなりに整った顔立ちをしている。所作に粗は見えるがそこまで酷くはなく、少々田舎に住んでいるせいか身に付ける物に野暮ったさはあるものの、地が良いので私がカバーすれば問題ない。
何よりも大きかったのは、皇太子殿下のファンだということだ。以前お茶会でお会いした時の、殿下の聡明な姿が忘れられないらしい。素晴らしいわ。
そうこうしているうちに、ジェニーから準備が整ったと知らせが届いた。
私は急いでお茶会を開く準備をした。ジェニーには殿下をお誘いするように言って、セルーナ嬢には私が身なりを見繕うから早目に来るようにと招待状を送った。もちろん他にも何人か年頃の近いメンバーも誘う。
楽しみですね。何が楽しみって、ジェニーとエル様に会うのも楽しみだし、セルーナ嬢を着飾るのも楽しみだし、皇太子殿下が美しく着飾ったセルーナ嬢に鼻の下を伸ばすのも、考えるだけで口元が弛む。本当にそこの2人がくっついてくれたら言うことなしだ。
お茶会当日。私は午前のうちに身支度を済ませ、午後一番にやって来たセルーナ嬢の大変身作戦を遂行していた。彼女は肌も綺麗でスタイルも良いので、私だけでなく、私の指示を仰ぐ侍女達にも気合いが入っていた。
私の好みというよりはなるべくジェニーのセンスに寄せて、シンプル且つさりげないお洒落を詰め込んで、全体的に大人っぽくなるように仕上げた。
「これが…私、ですか?」
鏡を見て驚くセルーナ嬢に、にこりと笑いかける。
「だからセルーナ嬢はお綺麗だと言ったでしょう。元々お顔立ちも整っておりますので、お化粧も少ししかしていないのですよ?」
「すごいわ…ローズ様。」
侍女達も満面の笑顔で頷いた。
こんこん、とそこでノック音がした。どうぞ、と入室を促すと、エル様が到着したとの知らせだった。
待ってましたわ。私は、まぁあの麗しいお方ですか?私なんかがご挨拶するなんておこがましいです!と早口で汗を滲ませるセルーナ嬢をどうにか引っ張って、エル様が待つという応接室に向かった。
「お待たせしました。お久しぶりですわね、エル様。」
「うん。いろいろ準備してくれてありがとう、ローズ。」
「いいえ、これくらい造作ないことですわ。こちらは、セルーナ嬢です。」
「わ、わわわ私、セルーナ・フォレスターとももも申しますっ。おおおお目にかかれて光栄です。」
私の背に隠れるセルーナ嬢をぐいと前に出すと、緊張からか、彼女の目がぐるぐる回った。
あら?セルーナ嬢は皇太子殿下のファンだったのでは?
「エリオール・R・ガンガルドです。」
エル様が微笑みかけると、セルーナ嬢は顔から湯気が出るのではないかと思うほど赤面した。これは、要件をさっさ済ませて、エル様を離した方が良さそうだわ。
エル様自身もそう感じたのか、さっそく目的を切り出した。
「セルーナ嬢はとても美しいですね。良ければ、私が作った香水の試験者になって頂けませんか?」
「えぇっ、美しいだなんてそんな…わ、私などが試験者だなんて恐れ多いです…。」
セルーナ嬢が謙虚に断ろうとすると、エル様はポケットから小瓶を取り出し、自分の手の甲に1滴垂らした。
「なかなかの自信作なのです。」
そう言って、嗅がせるように手の甲をセルーナ嬢の顔の近くまで伸ばした。再び真っ赤になるセルーナ嬢が恐る恐るそれを嗅ぐと、今度は目を見開いた。
「まぁ、ほんのり甘くて、とても良い香りがします!」
「そうでしょう?ぜひ、貴女に試して頂きたい。」
エル様が真っ直ぐ見据えると、セルーナ嬢も今度はこくりと頷いた。
満足そうに笑うエル様は、小瓶をセルーナ嬢に手渡して香水を付けさせた。私は使用人にセルーナ嬢を先にお茶会の会場となるバラ園に案内するように指示を出した。
応接室に2人きりになると、エル様が水を用意して欲しいと言うので、その通り使用人に指示した。
エル様はハンカチを濡らして、先ほど香水を垂らした手を念入りに拭き上げる。その様子を見て、笑いが込み上げた。
「ふふふ、相変わらずの二重人格ですね、エル様。でも、あまり派手に演じると、皇太子殿下ではなくてエル様に惚れてしまいますので、お気をつけくださいな。」
「私のことをそんな風に言うのは君くらいだよ、ローズ。」
先ほどの甘い笑顔とは別の、怪しい笑み。こちらが本性であると、私は知っていた。にこにこいつも穏やかに微笑んでいるようで、腹の中は真っ黒だ。
「ジェニーは殿下といらっしゃるのですか?」
「あぁ、恐らく殿下は、親友に婚約者として紹介して貰えるとでも思っているのだろうな。」
まぁ、脳内お花畑ですか?
「…セルーナ嬢は上手くやってくれそうか?」
「うーん…殿下のことをベタ褒めして憧れていらしたから興味あることは確かだと思いますが、先ほどのエル様への態度を見ると、多少不安になりますわね。」
そうか、と呟くエル様の声は冷たい。溺愛する妹に手を出されて、随分と業腹のようだ。そんな妹の為に、一体何を作って来たのだろうか。
「エル様、先ほどの香水、確かに良い香りがしましたが、一体どんな効果があるのです?」
「自分なりの惚れ薬を作ってみたんだ。」
「ほ…えっ?!そ、そんなことが可能なのですか?」
「自分なりのって言っただろう?魔法のような効力は無いよ。ただ、異性に惹かれる時、匂いって1つのキーワードだと思ってね、まずジェニーに殿下の好きな匂いを聞いてきてもらったんだ。そしたら桃だって言うから、その香りをベースに、催淫作用のあるイランイランという花の香りも混ぜたんだ。」
「催淫作用とは、どのような効果のことですか?」
何やらスラスラと説明されたものの、いまいち理解できず質問をすると、エル様は一瞬きょとんとした後、にこりと笑った。
「…ローズには、まだ早いかもね。」
「…ど、どういうことですの?」
私が口を尖らせて問えば、エル様は今度はくすくすと笑った。
「閨事の話だよ。」
「ねっ………?!!」
ようやく如何わしい話をしていることに気がついた私は、一気に顔が熱くなった。この方は涼しい顔で何を話しているのですか!
「一応両親で試してみたら、その夜仲良くしていたようだったけど、さすがに殿下相手では早すぎて無意味かもしれないね。」
「もーいいです!やめてください!それ以上何も仰らないでください!」
無礼は承知で焦ってエル様の口を塞ぐと、それでも余裕しゃくしゃくでくすくすと笑っていた。それを見て、からかわれたと気がつく。下品です。
というよりこの方、今、両親で試されたとか言ってました?なんて怖いもの知らずなのでしょう。
私はエル様の口を解放し、熱くなった顔を手で仰いだ。
「もうお茶会も始まる時間です。私は先に行ってますので、エル様も後程いらしてくださいね。」
からかわれた仕返しにわざと冷たく言いのけると、エル様に手を取られ、優雅にエスコートをされる羽目になった。
「目的地は一緒なのだから、別々に行く必要はないだろう?」
* * * * *
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