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00.prologue
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木の器に水を入れ、くたくたの服にパンを隠し、2週間前は戦場だった森の中を走る。
あちこちに矢が刺さり、持ち主の分からないメットや武器が散らかっている。
焼け落ちた大木を目印に、私は小さな洞穴を覗いた。
「ああ、来てくれたのか。」
そう言って、辛そうに上半身を起こそうとしたのは、左脚に怪我を負った兵士だ。
浮いた背の下に丸めたマントを挟んであげると、男は顔を歪めながらも、ありがとうと微笑んだ。
この男は2週間前、我がカサム軍による奇襲を受けた、アーク帝国軍の兵士だった。
私はこの森の近くの村に住んでおり、セスと金目の物はないかと死体漁りに来た時に、私がこの男に触れようとしたところ、突然腕を掴まれたのだ。
一旦は恐怖で逃げたものの、気になって後から来てみると、近くの洞穴、この場所に体を引きずって身を隠していたのを見つけた。
数日の間、熱にうなされていたが、どうにかそれも良くなって、身体も動くようになってきたようだった。
「水とパン。」
持ってきた物を男に渡すと、男は素直に受け取りながらも眉を潜めた。
「いつもすまないね。仲間に怪しまれたりはしていない?」
こくりと頷く。
本当は、セス、2歳上の従兄を撒いてきているが。
「私は助かるけれど、君の身が危険になるようなら無理はしないと約束してくれ。」
この男は本当に私を心配しているらしい。
帝国人なのに、おかしな話だ。
カサムに攻撃してくるアーク帝国は大嫌いだが、この男を見ていると、帝国人だからと言って悪い人間ばかりではないのだなと思う。
この兵士はむしろ優しくて善人のように感じた。
「君のお陰で、だんだん体が言うことを聞くようになってきたよ。」
「そうしたら帝国に帰るの?」
「そうだね。帰らないと。」
「もう戦えないのに?」
最初に会った時よりは確実に元気になってきている。けれど、左脚が動かないのは変わらなかった。
兵士としてはもう戦力にならないのだから、カサム人としてここで生きていけばいいのに。そうしたら私が助けになってあげるのに。
そんな我儘なことを考える。
「確かに、この左脚はもうだめかもしれないね。」
「だったら。」
「でも、私を待っている人間もいるんだよ。」
むっとした。
こんなに私と喋ってくれているのに、平気で私を置いて行こうとするなんて。
「奥さん?」
口を尖らせてそう訊くと、男は一瞬きょとんとしてから声を出して笑った。
「はは、違う違う、結婚はしてないんだ。」
「じゃあ誰?」
「母も放っておけないし、師匠にも怒られてしまう。」
「敵に助けられたことは責められないの?」
言うべきではなかったと気がついたのは、男が寂しそうに笑ったからだ。
男のごつごつとした汚れた手が、私の頭を優しく撫でた。
「国同士が戦争をしているからといって、必ずしも国民同士が敵対する必要はないと、私は思うよ。」
「でも、帰ったらまたカサム人を殺すんでしょ?」
一瞬押し黙ったのは、きっとこの男の優しさだ。
男は肯定も否定もしなかった。
「左側が欠けた月は、これから満ちゆく月なんだ。」
「どうして急に、月?」
男は穏やかに笑った。
「左脚が欠けてしまったから。」
「でも左脚は、月みたいにまた戻ったりはしないでしょ。」
「…そうかもしれないね。だからって欠けたままではいられないよ。」
男の言っていることの意味が分からず、私は顔をしかめて首を捻った。
「左側が欠けた月は上弦の月と呼ばれ、夕方に現れるんだ。これから日が落ち、闇が訪れるかのように見えるけれど、その実、ますます輝く満月に向かっているなんて、ロマンチックだろう?」
だからそれは月の話であって、人は当てはまらないではないか。
納得がいかず唇を尖らせると、私の頭上に男の厚くごつごつした手が乗った。
男はこれまで見た中で1番、優しさにあふれた顔をしていた。
それは、母が子を見るような、犬が手負いの主人に寄り添うような、そんな表情だった。
真っ直ぐに目の前にいる私を見ているようで、本当は違うところを見ている。そう感じた。
「この先、左脚の代わりに私が手にする何かがあるのなら、それが君の為にもなればいいなと思う。」
「どういうこと?」
ますます首を傾げると、男は誤魔化すようにくすりと笑った。
「私が生きて帰ったら、この先何が起きようと、君の為にできることを精一杯考える、ということだよ。」
聞けば聞くほど分からない。
今ピンチなのは兵士の方ではないか。私の心配をしている場合ではないだろうに。
それでも懸命に理解に努めようとしてうんうん唸っていると、男はハの字の眉尻を下げて、困ったような笑顔を見せた。
この先何が起きようと。
その言葉の意味が分かったのは、カサムという小国がすっかりアーク帝国に滅ぼされてしまってからだった。
あちこちに矢が刺さり、持ち主の分からないメットや武器が散らかっている。
焼け落ちた大木を目印に、私は小さな洞穴を覗いた。
「ああ、来てくれたのか。」
そう言って、辛そうに上半身を起こそうとしたのは、左脚に怪我を負った兵士だ。
浮いた背の下に丸めたマントを挟んであげると、男は顔を歪めながらも、ありがとうと微笑んだ。
この男は2週間前、我がカサム軍による奇襲を受けた、アーク帝国軍の兵士だった。
私はこの森の近くの村に住んでおり、セスと金目の物はないかと死体漁りに来た時に、私がこの男に触れようとしたところ、突然腕を掴まれたのだ。
一旦は恐怖で逃げたものの、気になって後から来てみると、近くの洞穴、この場所に体を引きずって身を隠していたのを見つけた。
数日の間、熱にうなされていたが、どうにかそれも良くなって、身体も動くようになってきたようだった。
「水とパン。」
持ってきた物を男に渡すと、男は素直に受け取りながらも眉を潜めた。
「いつもすまないね。仲間に怪しまれたりはしていない?」
こくりと頷く。
本当は、セス、2歳上の従兄を撒いてきているが。
「私は助かるけれど、君の身が危険になるようなら無理はしないと約束してくれ。」
この男は本当に私を心配しているらしい。
帝国人なのに、おかしな話だ。
カサムに攻撃してくるアーク帝国は大嫌いだが、この男を見ていると、帝国人だからと言って悪い人間ばかりではないのだなと思う。
この兵士はむしろ優しくて善人のように感じた。
「君のお陰で、だんだん体が言うことを聞くようになってきたよ。」
「そうしたら帝国に帰るの?」
「そうだね。帰らないと。」
「もう戦えないのに?」
最初に会った時よりは確実に元気になってきている。けれど、左脚が動かないのは変わらなかった。
兵士としてはもう戦力にならないのだから、カサム人としてここで生きていけばいいのに。そうしたら私が助けになってあげるのに。
そんな我儘なことを考える。
「確かに、この左脚はもうだめかもしれないね。」
「だったら。」
「でも、私を待っている人間もいるんだよ。」
むっとした。
こんなに私と喋ってくれているのに、平気で私を置いて行こうとするなんて。
「奥さん?」
口を尖らせてそう訊くと、男は一瞬きょとんとしてから声を出して笑った。
「はは、違う違う、結婚はしてないんだ。」
「じゃあ誰?」
「母も放っておけないし、師匠にも怒られてしまう。」
「敵に助けられたことは責められないの?」
言うべきではなかったと気がついたのは、男が寂しそうに笑ったからだ。
男のごつごつとした汚れた手が、私の頭を優しく撫でた。
「国同士が戦争をしているからといって、必ずしも国民同士が敵対する必要はないと、私は思うよ。」
「でも、帰ったらまたカサム人を殺すんでしょ?」
一瞬押し黙ったのは、きっとこの男の優しさだ。
男は肯定も否定もしなかった。
「左側が欠けた月は、これから満ちゆく月なんだ。」
「どうして急に、月?」
男は穏やかに笑った。
「左脚が欠けてしまったから。」
「でも左脚は、月みたいにまた戻ったりはしないでしょ。」
「…そうかもしれないね。だからって欠けたままではいられないよ。」
男の言っていることの意味が分からず、私は顔をしかめて首を捻った。
「左側が欠けた月は上弦の月と呼ばれ、夕方に現れるんだ。これから日が落ち、闇が訪れるかのように見えるけれど、その実、ますます輝く満月に向かっているなんて、ロマンチックだろう?」
だからそれは月の話であって、人は当てはまらないではないか。
納得がいかず唇を尖らせると、私の頭上に男の厚くごつごつした手が乗った。
男はこれまで見た中で1番、優しさにあふれた顔をしていた。
それは、母が子を見るような、犬が手負いの主人に寄り添うような、そんな表情だった。
真っ直ぐに目の前にいる私を見ているようで、本当は違うところを見ている。そう感じた。
「この先、左脚の代わりに私が手にする何かがあるのなら、それが君の為にもなればいいなと思う。」
「どういうこと?」
ますます首を傾げると、男は誤魔化すようにくすりと笑った。
「私が生きて帰ったら、この先何が起きようと、君の為にできることを精一杯考える、ということだよ。」
聞けば聞くほど分からない。
今ピンチなのは兵士の方ではないか。私の心配をしている場合ではないだろうに。
それでも懸命に理解に努めようとしてうんうん唸っていると、男はハの字の眉尻を下げて、困ったような笑顔を見せた。
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