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第1部
01.
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今日は朝から別邸中が慌ただしい。
それもそのはず、ようやくこの別邸の主人が到着したのだ。
1ヶ月前、帝都に住んでいる主人がやって来るということで、新たな住込みの使用人募集があった。
私もそこで雇って貰った1人だった。
本来、富豪は多くの奴隷を所持し、家事や身の回り世話を奴隷に任せるものだが、わざわざ自由民の中で募集を掛け、雇っているのだから、任務の標的とはいえ好感が持てた。
帝都の本邸から送られてきた者もおり、主人の人柄等も使用人の間に広まっていた為、皆一丸となって主人の到着を心待ちにしていたのである。
その邸の主人というのが、強大なアーク帝国の執政官だった男、トレシュ。
皇帝から厚い信頼を受けているにも関わらず、御年50になるやいなやその官職を辞任し、ここ、カサム州の主都バデュバールへと来訪した。
よりにもよって帝国の要人が、なぜカサムの地で隠居生活などしようというのか。
カサム州は10年前に帝国に滅ぼされた元小国なのだ。
邸の使用人として潜入しトレシュの目的を探るのが、今回の私の仕事だった。
「シノア!何しているの、こんな所で?」
私と同じく新規雇用された栗色の髪を綺麗にまとめたミリーナが、馴れ馴れしくも勢いよく腕を掴んできた。
彼女とは同室で、ことあるごとに話しかけられる。
それにしても、何、とはおかしな質問だ。洗濯物干場なのだから洗濯物を干しているに決まっている。
「ご主人様が敷地内をあちこち見物していらっしゃるのよ?おめかししないと!」
「私は大丈夫。」
ミリーナは主人に可愛がられれば贅沢な暮らしができると思っているようだった。
実際、トレシュは独身であるし娼婦宿にも足を運ぶような軽い男らしいが、それでいて縁談を何度も断っているというのだから身持ちは固い。
彼女はどのように近づくつもりなのだろう。
「シノアったら、自信があるんでしょう。金髪碧眼、ご主人様の好みそのままの容姿だものね。」
トレシュの好みの女性が金髪碧眼というのは有名な話だった。奴隷商や娼婦宿を訪ねては、そういう女性を探しているらしい。
だからこそ、その特徴を受け持つ私が、この任務を任されたのだ。
噂通り、その容姿なら誰でも良いということであれば、私も楽に仕事がこなせるだろう。
トレシュの目に留まる必要はあるが、今日でなくてもいい。アピールして近づくよりも自然に出会う方が効果的だろう。
私は今までに帝国の要人を幾人か暗殺してきた。指示をくれるナイジェルと、幼馴染のセスと一緒に。
逃げたがっていたカサム人奴隷を逃がしたこともあったし、多くの奴隷を酷使する作業場の主人を殺したこともあった。
それを思えば、主人の気を引きながら使用人の仕事をこなすのというのは、慣れないことではあるが、束の間の休息のようなものだった。実に平和的だ。
「いいわよ、私だけ可愛い髪飾り付けちゃうからね。」
ぷくっとわざとらしく頬を膨らませてから、にかっと歯を見せたミリーナは、こんな生業の私なんかよりも、ずっと眩しく魅力的に見える。
その背を見送り、白いシーツを干していく。
ふと空を見上げた。
太陽が眩しい。身体に注がれる日差しが心地よい。こんな風に思うのはいつぶりだろうか。
まだカサムが小国として存在していた、森のすぐ近くの村で過ごしていたあの頃、干された洗濯物の周りでセスと追いかけっこをしたことを思い出した。
子ども同士でふざけ合い、ロープが千切れたのだったか、それとも解けたのだったか、とにかくたくさんの洗濯物を汚して、こっ酷く叱られた。
セスとどちらが悪いか罪を擦り付け合い、どちらの頭にも鉄槌の拳が落とされ、共に泣き、共に笑った。
身も心も、もうあの頃には戻れない。
遠い記憶に蓋をして、空になった籠を手に取った。
すたすたと歩みを進めて、風に靡くシーツの列から抜けた時、どん、と衝撃を受けた。
誰かとぶつかったのだ。
「すみません。」
とっさに頭を下げると、視界には逞しい足を見せるブーツサンダルに、細かい模様の入った杖先。
それだけで分かってしまった。
「ご主人様!申し訳ございません!」
再度、深々と頭を下げる。
トレシュは左脚が不自由で、杖をついている。これも前情報として入っていたことだった。
なんたることだ。初日からこんな失態を冒すとは。
昔のことを思い出し、気が緩んでしまったか。
「大丈夫だ。私の方こそ、うろうろ歩き回ってすまなかったね。」
顔を上げてくれと言われるまま、恐る恐る視線を上げた。
杖をついているものの、背筋は伸び、すらりと高く、筋肉質だ。
それに綺麗な身なりをしているからか、50歳とは思えない若々しさがある。
くしゃりと乱れた亜麻色の髪が、八の字に眉尻の下がった優しそうな顔立ちによく似合っていた。
なるほど、ミリーナの気合も入るわけだ。
「お怪我はございませんか?」
無いことは一目瞭然だが、儀礼上、訊いておく。
すると、その男はふっと目を細めた。
「杖をついているからって、女性とぶつかったくらいで怪我をするほどやわではないよ。」
「申し訳ございません、そういう意味では…。」
「ふふ、分かっているよ。」
なんだか独特の雰囲気を持つ男だ。
とはいえ、悪印象でなかったのならこの接触は好都合。
何か褒めて、話しを広げてみるべきか。
そう試みようとした矢先、部下なのか護衛なのか、剣を腰に差した30代くらいの男が彼を呼びに来た。
筋肉が逞しく膨れ上がっている。
「こちらにいらしたのですね。」
「ブランドン。中庭を歩いていたら、ここまで来てしまってな。」
「今日はもう足を休ませてはいかがですか。」
「私の足は3本あるのだから、心配無用だ。」
謎だ。
杖を入れても1本機能していないのだったら、どのみち2本ではないか。
ブランドンと呼ばれた男の深いため息で、日々の気苦労が窺える。
そしてその男に、敵意とも感じられる鋭い視線を向けられ、私はなんでもないようにさっと頭を下げ、それを躱した。
「散策は明日にして、今日は室内でお過ごしください。」
今度は主人がため息をこぼした。
「やれやれ、あまり老人扱いしないでくれ。」
「貴方が老人に見える人なんていませんよ。足の為にです。」
ぶつくさ文句を言いながらも、彼はブランドンに促されるまま去っていった。
一度振り返ったので、お辞儀を返した。
初接触はどうだっただろうか。
私に興味を持ってくれただろうか。
杖をつき、左足を引きずる後ろ姿が小さくなるのを見届け、深いため息が出た。
この、のんびりとした緊張感の無い暮らしは、毒だ。
私が人にぶつかるなんて、今までではありえないことだった。
既に標的も現れたのだ。気を引き締め直す必要がある。
私を懐柔でもするかのように、暖かな陽光を降り注ぐ天体にうんざりし、邸の影に入って、その壁に背を預けた。
ひやりとした感覚が、肌に馴染んだ。
それもそのはず、ようやくこの別邸の主人が到着したのだ。
1ヶ月前、帝都に住んでいる主人がやって来るということで、新たな住込みの使用人募集があった。
私もそこで雇って貰った1人だった。
本来、富豪は多くの奴隷を所持し、家事や身の回り世話を奴隷に任せるものだが、わざわざ自由民の中で募集を掛け、雇っているのだから、任務の標的とはいえ好感が持てた。
帝都の本邸から送られてきた者もおり、主人の人柄等も使用人の間に広まっていた為、皆一丸となって主人の到着を心待ちにしていたのである。
その邸の主人というのが、強大なアーク帝国の執政官だった男、トレシュ。
皇帝から厚い信頼を受けているにも関わらず、御年50になるやいなやその官職を辞任し、ここ、カサム州の主都バデュバールへと来訪した。
よりにもよって帝国の要人が、なぜカサムの地で隠居生活などしようというのか。
カサム州は10年前に帝国に滅ぼされた元小国なのだ。
邸の使用人として潜入しトレシュの目的を探るのが、今回の私の仕事だった。
「シノア!何しているの、こんな所で?」
私と同じく新規雇用された栗色の髪を綺麗にまとめたミリーナが、馴れ馴れしくも勢いよく腕を掴んできた。
彼女とは同室で、ことあるごとに話しかけられる。
それにしても、何、とはおかしな質問だ。洗濯物干場なのだから洗濯物を干しているに決まっている。
「ご主人様が敷地内をあちこち見物していらっしゃるのよ?おめかししないと!」
「私は大丈夫。」
ミリーナは主人に可愛がられれば贅沢な暮らしができると思っているようだった。
実際、トレシュは独身であるし娼婦宿にも足を運ぶような軽い男らしいが、それでいて縁談を何度も断っているというのだから身持ちは固い。
彼女はどのように近づくつもりなのだろう。
「シノアったら、自信があるんでしょう。金髪碧眼、ご主人様の好みそのままの容姿だものね。」
トレシュの好みの女性が金髪碧眼というのは有名な話だった。奴隷商や娼婦宿を訪ねては、そういう女性を探しているらしい。
だからこそ、その特徴を受け持つ私が、この任務を任されたのだ。
噂通り、その容姿なら誰でも良いということであれば、私も楽に仕事がこなせるだろう。
トレシュの目に留まる必要はあるが、今日でなくてもいい。アピールして近づくよりも自然に出会う方が効果的だろう。
私は今までに帝国の要人を幾人か暗殺してきた。指示をくれるナイジェルと、幼馴染のセスと一緒に。
逃げたがっていたカサム人奴隷を逃がしたこともあったし、多くの奴隷を酷使する作業場の主人を殺したこともあった。
それを思えば、主人の気を引きながら使用人の仕事をこなすのというのは、慣れないことではあるが、束の間の休息のようなものだった。実に平和的だ。
「いいわよ、私だけ可愛い髪飾り付けちゃうからね。」
ぷくっとわざとらしく頬を膨らませてから、にかっと歯を見せたミリーナは、こんな生業の私なんかよりも、ずっと眩しく魅力的に見える。
その背を見送り、白いシーツを干していく。
ふと空を見上げた。
太陽が眩しい。身体に注がれる日差しが心地よい。こんな風に思うのはいつぶりだろうか。
まだカサムが小国として存在していた、森のすぐ近くの村で過ごしていたあの頃、干された洗濯物の周りでセスと追いかけっこをしたことを思い出した。
子ども同士でふざけ合い、ロープが千切れたのだったか、それとも解けたのだったか、とにかくたくさんの洗濯物を汚して、こっ酷く叱られた。
セスとどちらが悪いか罪を擦り付け合い、どちらの頭にも鉄槌の拳が落とされ、共に泣き、共に笑った。
身も心も、もうあの頃には戻れない。
遠い記憶に蓋をして、空になった籠を手に取った。
すたすたと歩みを進めて、風に靡くシーツの列から抜けた時、どん、と衝撃を受けた。
誰かとぶつかったのだ。
「すみません。」
とっさに頭を下げると、視界には逞しい足を見せるブーツサンダルに、細かい模様の入った杖先。
それだけで分かってしまった。
「ご主人様!申し訳ございません!」
再度、深々と頭を下げる。
トレシュは左脚が不自由で、杖をついている。これも前情報として入っていたことだった。
なんたることだ。初日からこんな失態を冒すとは。
昔のことを思い出し、気が緩んでしまったか。
「大丈夫だ。私の方こそ、うろうろ歩き回ってすまなかったね。」
顔を上げてくれと言われるまま、恐る恐る視線を上げた。
杖をついているものの、背筋は伸び、すらりと高く、筋肉質だ。
それに綺麗な身なりをしているからか、50歳とは思えない若々しさがある。
くしゃりと乱れた亜麻色の髪が、八の字に眉尻の下がった優しそうな顔立ちによく似合っていた。
なるほど、ミリーナの気合も入るわけだ。
「お怪我はございませんか?」
無いことは一目瞭然だが、儀礼上、訊いておく。
すると、その男はふっと目を細めた。
「杖をついているからって、女性とぶつかったくらいで怪我をするほどやわではないよ。」
「申し訳ございません、そういう意味では…。」
「ふふ、分かっているよ。」
なんだか独特の雰囲気を持つ男だ。
とはいえ、悪印象でなかったのならこの接触は好都合。
何か褒めて、話しを広げてみるべきか。
そう試みようとした矢先、部下なのか護衛なのか、剣を腰に差した30代くらいの男が彼を呼びに来た。
筋肉が逞しく膨れ上がっている。
「こちらにいらしたのですね。」
「ブランドン。中庭を歩いていたら、ここまで来てしまってな。」
「今日はもう足を休ませてはいかがですか。」
「私の足は3本あるのだから、心配無用だ。」
謎だ。
杖を入れても1本機能していないのだったら、どのみち2本ではないか。
ブランドンと呼ばれた男の深いため息で、日々の気苦労が窺える。
そしてその男に、敵意とも感じられる鋭い視線を向けられ、私はなんでもないようにさっと頭を下げ、それを躱した。
「散策は明日にして、今日は室内でお過ごしください。」
今度は主人がため息をこぼした。
「やれやれ、あまり老人扱いしないでくれ。」
「貴方が老人に見える人なんていませんよ。足の為にです。」
ぶつくさ文句を言いながらも、彼はブランドンに促されるまま去っていった。
一度振り返ったので、お辞儀を返した。
初接触はどうだっただろうか。
私に興味を持ってくれただろうか。
杖をつき、左足を引きずる後ろ姿が小さくなるのを見届け、深いため息が出た。
この、のんびりとした緊張感の無い暮らしは、毒だ。
私が人にぶつかるなんて、今までではありえないことだった。
既に標的も現れたのだ。気を引き締め直す必要がある。
私を懐柔でもするかのように、暖かな陽光を降り注ぐ天体にうんざりし、邸の影に入って、その壁に背を預けた。
ひやりとした感覚が、肌に馴染んだ。
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