夕月の欠片

daru

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第1部

02.

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 標的に再接触する機会は、早々に訪れた。

 夕食後、トレシュが私室にお酒と果物を持ってくるように言づけたので、ミリーナが気合を入れて届けに向かったのだが、そのミリーナが口を尖らせて私の元へ来たのだ。

「シノアのことを呼んでいたわよ。」

 驚きのあまり目をしばたたいた。
 洗濯物を干していた時に1度会っただけなのに。

 やっぱり金髪じゃないとだめなんだわと嘆くミリーナに、女を見る目がないだけよと励まして、目的の人物の私室へと向かった。

 速まる鼓動を落ち着かせるように息を吐き、目の前の扉を見据える。

 気に入られたのなら成果は上々。
 男に触れられることは慣れていないが、どうにか我慢するしかない。

 ごくりと唾を飲み込み、戸をノックした。

 どうぞ、という声を聞いて、意を決して足を踏み入れた。

「お待たせ致しました、ご主人様。私をお呼びだと伺いました。」

 トガを外したラフなトゥニカ姿で長椅子に寛ぎ、銀のワインカップを片手に持ったその男は、私を見るなり目を丸くし、首を伸ばした。

「君がシノア?」

「はい。」

「そうか、シーツを干していた君が。」

 どういうことだろう。私の顔も知らずに私のことを呼んだのだろうか。

 トレシュは1人で「そうか。」と納得している。

 何が何やら。

「まぁ座って。果物でも食べて寛いで。」

 1度は断ったが、いいから座ってと念を押されたので、手で示された場所、標的と約90度の角度で向かい合う、小さな丸テーブル横の椅子に腰を下ろした。

 丸テーブルにはフルーツの盛り合わせ。

 勧められるままにブドウに手を伸ばし、1粒、口に含む。乾いた口内に転がってきた甘さが緊張を紐解こうと一気に広がる。
 私は緩みそうになる頬を懸命に引き締めた。

 その間、彼の視線は真っ直ぐに私へと注がれていた。

「出身はカサム?」

「いいえ、ここから南東に位置する田舎町です。」

「ご両親は?」

 なんだこれは。まるでこの邸の求人に応募した時の面接のようだ。
 わざわざ私に訊かなくとも、管理長に訊けば分かることではないか。

「おりません。孤児院の出は、お気に召さないでしょうか?」

 あながち嘘ではなかった。
 10年前の戦争でカサム小国からアーク帝国に逃れてからは、孤児院で過ごしたのだ。

「いや、そうではないが。」

 本当に気にしてはいなさそうだが、何か言いたげな表情ではある。

 グリーンアッシュの瞳にじっと見つめられると、なんだか何かを見透かされそうな気がして、私は自然と視線を落とした。

「本当にカサム人ではないのか?」

 ああ、そういうことか。
 ここはカサムの地。カサム人が紛れ込んでもおかしくない。事実、私だって本当のことを言えばカサム人なのだ。

 要するに、新しく雇用した使用人が、ひいては好みである金髪碧眼の私が、ちゃんと帝国人であることを確認したいのだろう。

 胸が悪くなるのを押さえ、堂々と帝国人であることを告げようとしたが、次の言葉に、私の頭の中は真っ白になってしまった。

「君ではないのか?10年前、カサムの森で私を助けてくれたのは。」

 瞼が大きく開き、男の顔を真っ直ぐに見つめる。

 10年前、確かに私は森で1人の兵士を助けた。顔は覚えていないが、あの兵士は血や泥や煤ですっかり汚れており、たとえ覚えていたとしても、今、目の前にいる人物との照合は難しいだろう。

 あの時、兵士は名前は教えてくれなかった。もし死ぬことになっても、悲しむことのないようにと。

 ただ、確かな共通点がある。
 左脚の怪我。トレシュの左脚は不自由で、杖が必要不可欠だった。

「やっぱり、君だろう。」

 嬉しそうに微笑まれ、ふと気が緩みかけたが、すぐに拳と共に結び直した。

「いえ、私は帝国人です。」

 戦後、カサム人の多くは処刑されるか、奴隷にされるかの2択だった。
 焼き討ちに合った村から逃げのびた私とセスは、道中でナイジェルに出会い、彼の機転で国境を越え、帝国人として生きてくることができたのだ。
 カサム人とばれて良い事など何もない。

 しかし、もはやどんな言い訳も彼には通じなかった。 

「そうやって生きてきたんだね。」

 静かな声でそう言うと、「カサム人を探しても見つからないわけだ。」とぽつり呟いた。

「探していたのですか?」

「当然だろう。命の恩人だ。」

 その誠実で優しい眼差しが、ようやく過去に出会った兵士の眼差しと重なった。

 あの兵士と過ごした時間は、とても心が弾んだ記憶がある。
 敵国の兵士とは思えないほど打ち解けたのは、私が子供だったこともあるのだろうが、単に彼自身の人柄が大きかったのではないか。

「捕虜や奴隷、娼婦宿まで、金髪碧眼のカサム人を探して回ったんだ。」

「何の為に。」

「君の為にできることを、精一杯考えると約束しただろう。」

 私は視線を落とした。艶めくフルーツとは反対に、光を失ったであろう自分の姿が想像できる。

 手遅れだ。

 村が帝国軍に焼かれたことも、両親を火の海に置いてきたことも、セスと必死で森を駆けたことも、死に物狂いで国境を越えて居場所を作ったことも、辛い、なんて一言では言い表せない。生命のぎりぎりのところで、今まで培ってきた道徳心を地に投げ捨てたのだ。

 積もりに積もった黒い感情は、アーク帝国が存在する限り、いや、たとえ滅びようとも消える事はないだろう。

 傷を撫でるような優しい言葉にさえ、心は動かない。

「遅くなったね。」

 寂しそうに目を細める彼に、あの頃と変わらない優しさを感じる。
 きっとあの頃のまま、気高い心を持ち合わせているのだろう。私とは違う。

 左側が欠けた月はこれから満ちゆく月だと、彼は言った。
 彼は左脚の機能を失い、代わりに権力と富が満ちたのだろうか。
 それが良かったのかどうかも、今の私には判別できない。

「何か私に頼み事はないか?」

「頼み事ですか?」

「何でもいいんだ。できる限り叶えてあげるよ。」

 ここでカサムに来た理由を訊くのは悪手だろう。何か事情があるのなら、探りを入れたと疑われてしまう。

 相手が知っている者だったとしても、関係ない。私の仕事は、彼の信用を得て情報を聞き出すことだ。
 ならば、私の取るべき行動はまた会う口実を作ることだ。

「すぐには思いつきません。」

「困っていることは?私が何かしてあげられることはない?」

「今のところは。」

 そうか、とトレシュは残念そうに指先を顎に添えた。

「何か思い付いたら、またお伺いしてもいいですか?」

 こうして次も会える約束をしつつ、頼み事とやらも熟慮して利用させてもらえばいいのだ。

 トレシュも笑顔を見せている。

「もちろん。いつでも頼ってくれ。」

「ありがとうございます。」

 良くやった、と自分自身を褒めてやりたいところだったが、結局こんな風に口実作りなどする必要はなかったらしい。
 また話し相手に誘っていいかと、彼の方から申し出があったのだ。

 もちろんすぐに了承した。
 
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