夕月の欠片

daru

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第1部

06.

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 神殿に入ると、独特な静けさと冷たい空気に、どこか責められているような感覚を覚えた。

 恐らく気のせいだ。
 気のせいだと分かっていても、後ろを振り向きたくなった。私が歩いた場所に、血の足跡ができているのではないか。そんな不安が募る。
 もちろんそんな物、あるわけがないのだが。

 早く出たい。居心地が悪い。

 しかし、祭壇の奥に佇む大きなメローニネナ女神像を見つめるトレシュの横顔は恍惚とし、すぐには動かなさそうだった。

 私が彼のことを見ていると気がついたのは、女神像を眺めるのに満足したらしい彼が、私を見た瞬間に目があったからだ。

 彼は真面目な表情をしていたのをすぐに崩し、目線を合わせるように首を傾け、にこりと笑った。

「ごめんね、退屈だった?」

「あ、いえ。」

「それとも私の顔が面白かった?」

「え?」

「ずっと見ていたみたいだから。」

 そうだっただろうか。
 そうだったかもしれない。

 私は早く出たいのに、何が面白いのか、トレシュがいつまでも一心に女神像を見つめているから。

「シノアはお祈りしなくていいの?」

「私は大丈夫です。」

 神に祈ったところで何がどうなるというのか。
 もしメローニネナがこの神殿を気に入っているとしたら、カサムが滅ぼされる前に助け船を出したはずだ。

「神の存在を信じてない?」

「そういうわけでは…。」

「神を憎んでる?」

 神殿で、それも女神像の前で、なんてことを訊くんだこの男は。

 咄嗟にきょろきょろと辺りを見回した。ちょうど神殿内に1人の背の曲がった老人が入ってきたので、どきりと心臓が跳ね、慌てて女神像に背を向けた。

「もう出ましょう、ご主人様。」

 トレシュは素直に動いてくれたが、この話を終わらせてくれる気はなさそうだった。

「悪いことだとは思わないよ。」

 トレシュの言葉には反応せずに、女神像に向かっていく老人と黙ってすれ違った。

 カツン、カツン、と鳴るトレシュの杖音が、私を責め立てているように感じる。
 振り向いたらメローニネナに指を差されているのではないかと、額際が暑くなり、じわりと汗が吹き出た。

 扉も無い出口から一歩外へ踏み出ると、さらりと吹く風が心地良い。額の熱を冷ましてくれる。

 トレシュを睨みつけるわけにもいかず、なるべく平静を装った。

「誰かに聞かれたらどうするおつもりですか。」

 特に、神殿というところは、管理者が国の役人だ。
 不信仰者だからと罰を受けることはないだろうが、良い顔はされないに決まっている。
 悪目立ちはしたくない。

「少し歩こうか。」

 相変わらず落ち着いた口調でそう言うと、トレシュは5段ある階段の最上段に杖と左足を降ろす。
 すかさず彼の右手を取り、支えた。

 話の続きは階段を降りて、ふぅー、と軽く一息吐いてから始まった。

 コツ、コツ、と鳴る音に、私は静かについて行く。

「神を憎むということは、神を信じている心の現れだ。だってそうだろう?神の存在を信じていなかったら、憎むも何も無いのだから。」

「だから、憎んでもいいんですか?」

「神に愛されようと寄付に勤しむよりは、ましだと思うよ。寄付をして喜ぶのは、神ではなく管理担当の役人だからね。」

「祈ることは無駄ですか?」

 無駄とは言わないけれど、とトレシュはちらりと私の顔を見てから続けた。

「祈りというのは、結局のところ自分との対話だ。それに神を利用するというのは効率的かもしれないが、何もかも神任せにしてしまう危険性もある。」

 真っ直ぐ護衛の待つ広場へ向かうのかと思えば、トレシュは石畳の道から外れ、土舗装された小道に曲がった。

「広場に戻らないのですか?」

「きれいに整備された薬草園があるらしいから、見に行こう。」

 トレシュがそう言うのだから、ついて行くしかない。草に興味はないけれど。

「それで、全て神任せにしてしまう危険性というのは?」

 うーん、とトレシュが考える間、一筋の風が私と彼を追い抜かし、少し先に広がる円形に整備された草花を揺らした。
 神聖な感じがするのは、それらが全て薬草だと分かっているからだろうか。

 綺麗。素直にその言葉が頭に浮かんだ。

「君の出身は、ケット村で合っている?」

 薬草園に目を奪われた隙を突かれ、「なぜ知っているのですか?」と問う声が上ずった。

「命の恩人を探していたと言ったろう。あの森周辺のことは調べたんだ。」

「そう、でしたか。」

 怪しまれて探られたのではないことに、少しだけ安堵した。

「狩猟を生活の主としていたのだろう?」

「はい、そうですね。」

「例えば、狩に出て、ことごとく獲物を逃がしてしまったとする。悪いのはメローニネナか?今日は神の機嫌が悪かったと、そう言うだろうか?」

「ことごとく逃がしてしまうのであれば、腕の問題もあると思いますが。」

「その通り。その者は恐らく、何かがいけなかったんだ。それを考えずに神のせいにしていては、狩猟の腕は磨かれない。」

 トレシュの言わんとしていることが、分かるようで分からない。

「しかし、父は信仰心の厚い人でしたが、村一番の狩人で、女神メローニネナの加護があると言われていました。」

「それは加護ではなく、父君の実力だ。その実力に奢ることなくさらに腕を磨くことができたところは、信仰心の厚さが一役買ったのかもしれないけれどね。」

「よく分かりません。」

 薬草園の通路は大きい石畳になっており、そこに足を踏み入れると、トレシュの杖が再びリズムを叩き出した。
 石畳の通路は左右、それから円の中心に向かって伸びている。この薬草園を上から見たら、おそらく蜘蛛の巣のように見えるだろう。

 中心には井戸があり、草花の世話係であろう奴隷がちょうど水を汲んでいた。奥にはしゃがみこんでいる奴隷も見える。

 トレシュは3周あるうちの1番外側の通路を歩くことに決めたらしい。右に伸びる通路へ歩みを進めた。

「つまりね、私が危惧しているのは、神を理由に考えることを放棄してしまうことだ。」

 よく分かりません、と2度目は言いたくなかった。

「君の父君は神の加護があろうとなかろうと、狩猟に関して研究、工夫を怠らなかったのだろう。腕の良さに奢らず、油断しなかったんだ。」

「そうだと思います。」

「でも中にはね、自身の腕に自信があると、しかも神の加護がついているなんて言われたら、少しくらい手を抜いても大丈夫、なんとかなるだろう、と考える人もいる。」

 ふと、自分が使用人として潜り込んだ時のことが頭に浮かんだ。

 ナイジェルに言われるままに潜入し、前情報として聞いていたトレシュの好みの容姿であるから簡単に取り入れるだろうと思い込み、もし怪しまれても容易に逃亡できるという自信があった。

 果たして私は自分で考えて行動できているのだろうか。

「考えることを止めちゃいけないよ、シノア。」

 心の声に返事をされたのかと思い、どきりと心臓が跳ねた。 
 トレシュがそよそよとゆれる細い草を見ていて助かった。たぶん、表情を取り繕えていなかった。

 気を引き締めるように、唇をきゅっと結んだ。

 暫く沈黙が続いた。
 杖のリズムと、風に揺れる植物たちの擦れ合う音だけが聞こえる。

 黙々と作業をしている奴隷たちの存在感は薄く、世界にトレシュと2人きりでいるような、妙な心地良さに襲われた。

 その静寂を破ったのはトレシュだった。

 突然足を止め、「シノア。」と真面目な顔をして振り返った。

「なぜ私の愛人になりたいなんて言ったんだ?」

 困った。そこは流してもらえたとばかり思っていたからだ。
 とは言っても普通、愛人にと願うのは、訊くまでもなく好意を持っているからではないだろうか。

「君から私への、異性としての好意は感じない。」

 この男は心が読めるのだろうか。

「贅沢な要求もしてこない。困った男に付け回されているのでは、とも思ったが、今日の君からそういうことへの警戒心も見て取れない。」

 今新しい理由を考えているのだから、どんどん取り除かないで欲しい。

「君が私の恋人になって、得したことは何なんだい?」

 2人きりで話ができるような、まさに今この状況が得なのだ。

 ふと、ナイジェルが言っていたことを思い出した。
 無理にあれこれ嘘を重ねなくていいと。大部分は真実を語り、必要な所だけ隠せばいいと。

「すみません、こういう事には疎くて。恋愛をしたことが無いんです。」

「君のような綺麗な子が、と言いたいところだけど、確かに慣れてはいなさそうだ。」

「ただ話をしたかったんです。話す機会を、作りたかったんです。」

 10年前のように、と言ったのはだめ押しだった。
 ちらりと彼の様子を窺うと、目尻に優しい皺を作り、ははっと笑った口から白い歯が見えている。

 どうやら喜ばせることに成功したらしく、彼の左手が私の頭を一撫でし、離れた。

「私も君と話していると楽しいよ。」

 満足したのか、トレシュの3本足が再び動き出した。その後ろ姿に、爽やかな風景がよく似合う。

 嘘はついていない。話す機会、トレシュから情報を引き出す機会を作る為に愛人になりたいと言ったのだ。

 咎められることもなく穏便にそのポジションを維持できたのだから、今の会話は大成功だ。
 ナイジェルに報告したら、さすがだシノア、そう言って満面の笑顔を見せてくれるに違いない。 

 それなのに、心が沈むように感じるのはなぜだろう。
 まるで後ろに引っ張られているかのように足が重く、たかが数歩先にいるだけのトレシュがとても眩しく、遠く感じるのは。
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