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第1部
07.
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使用人用の2人部屋にはそれぞれのベッドと、私物を収納する為のチェストが備え付けてある。
一般的な高級邸であれば、使役されている奴隷たちは何人もで雑魚寝をするのだから、それに比べればかなり恵まれている。
普段まとめている髪を下ろし、リラックスしていた私は、ベッドの上できらきらと輝くアクセサリーを1つ1つ並べていた。
枕を脇に避け、お腹を下にした体勢で、本来なら枕のあるべき位置に並べているのだ。
腕輪に、指輪に、髪飾りやネックレス。合計10個。
全て今日、トレシュに貰った物だ。
神殿の帰り、神殿前大広場から伸びている商店大通りを歩き、少しは恋人らしくしないとブランドンに感づかれるからと、あれこれ買い与えられたのだ。
普段から、アクセサリーは身に付けていなかった。
人の記憶に残りやすい目印になるからだ。
しかし恋人らしさの演出に使うのであれば、どれかしらは身に付けるべきなのだろう。
どれも気乗りしない。さて、困った。
「いいなぁ、シノア。そんなに高価な物、いっぱい貰って。」
向かいのベッドに座っているミリーナが、首を伸ばしてこちらを見ていた。
「見る?」
そう訊くと、待ってましたと言わんばかりに素早く近くまで来てしゃがみ込み、その瞳を輝かせた。
「触ってもいい?」
「うん。」
わぁ、すごーい、1つずつ手に持つたびに、小さい歓声が聞こえた。
青い石が埋め込まれた銀の腕輪を手にして、ミリーナの手が止まる。
「ブルーメノウかしら。綺麗ねぇ。」
石の名前かどうかすら分からない私には、その価値は分からなかった。
ただ、トレシュに、君の瞳の色だからと貰った物なので、身に付けるべきはこれだろうか、という感覚があるくらいだ。
「こんなに素敵な物をくださるなんて、シノア、よっぽど愛されてるのね。」
ブランドンにもそう思って貰えたら、トレシュの作戦は成功なのだが。
「あなたは諦めたの?」
「だって全然脈ないんだものー!」
ぷくりと頬を膨らませるミリーナ。
彼女には彼女なりの愛嬌と魅力があるが、如何せんトレシュの身持ちが固い。
私も10年前の関わりがなかったら、こんなに近しい関係を築くことは不可能だっただろう。
「正攻法じゃだめね。」
ぽつり呟いたミリーナの瞳に、ぼんやりと青い石が映っている。その様子がどこか虚ろに見えた。
彼女からしたら私は目の上のたんこぶだ。
余計な揉め事に巻き込まれないように、少し距離を置くべきかもしれない。と、言っても、同室なのはどうしようもないのだが。
「ねぇシノア、これ、1つちょうだいよ。ご主人様の目には入らないようにするから。ね?ね?」
リスのように目をくりくりとさせるミリーナから、腕輪を取り上げた。
「これはだめ。他のなら。」
「え、本当?」
感じが良くなかったかもしれないと思ったが、特に気を悪くした様子もなく、ミリーナは並べられた他のアクセサリーを熱心に観察し、その内の金のチェーンネックレスを手に取った。
あざといとも受け取れるような上目遣いで、「これは?」と可愛らしい声を出す。
並べたアクセサリーの中で、ずいぶんと派手な物を選んだミリーナに、少しだけ呆れた。
さすが、トレシュの愛人の地位を狙っていただけある。
首を縦に動かせば、彼女の瞳は一層輝き、「ありがとう、シノア!」と愛嬌たっぷりの笑みを見せた。
腕輪だけ枕元に置き、残りのアクセサリーは、チェストにそのまましまった。
アクセサリーを収納しておくような小箱など持っていないのだ。
チェストに高価な物があることを知っているのは、私とミリーナのみ。
もし盗まれても、犯人はミリーナだとすぐ分かる。が、欲しいと言った物をあげたのだ。わざわざ欲をかいたりはしないだろう。
それぞれ就寝の準備をしてから灯りを消して、彼女の寝息が聞こえてから、私も瞼を閉じた。
翌日、さっそく腕輪を付けてトレシュの元へ仕事に行くと、彼はすぐに気が付き、優しく目を細めて褒め言葉をくれた。
演技か素か判別しにくい。
いつ見ても余裕綽々といった様子のトレシュが、眉根を寄せてため息を吐いたのは、質素な身なりの下層民たちとの面会を終わらせた後だった。
貧しい民が施しを求めに権力者の邸に並ぶのは、帝都では珍しくない光景だった。
権力者にとってはただの人気稼ぎの偽善であろうが、貧しい者たちが救われるのは間違いない。
卑しいアーク帝国にもましな文化があるものだと感心していた。
しかし、意外にもトレシュは良い顔をしていなかった。
情け深い人間ならば、喜んで施しを与えそうなものだが、それどころか、トレシュは頼もうとした仕事を断った1人の男に、少しの小銭も渡さずに帰した。
優しいとばかり思っていたが、淡泊な一面もあるようだ。
未だ、面会を受け入れた主室の椅子から動こうとしないトレシュに、ブランドンが歩み寄る。
「トレシュ様、お疲れですか?お休みになられるのなら、シノアを下がらせましょうか?」
つくづくブランドンには嫌われている。
トレシュは私に視線を移し、じっと見つめたかと思うと、いや、と首を横に振った。杖を手に取り立ち上がり、重々しかった表情を和らげた。
「シノア、中庭に行こうか。」
次いで、「君は来なくていいよ、ブランドン。」とも。
お陰でブランドンの鋭い眼差しを一身に受けるはめになった。ざまあみろ。
中庭は邸のほぼ中央にあり、こじんまりとしている。
十字の通路で分けられた4つのエリアを、背の低い植物が緑に彩っている。外周は腰より低い石塀で囲まれ、その石塀の上に一定間隔で置かれた支柱が屋根を支えている。
あまり派手に飾られてはいないが、1つだけ、大人の上半身程の大きさの彫刻が石台に飾られている。
赤子を抱いた女性の彫刻。その表情からは母の慈愛が見て取れた。
トレシュはその彫刻を横切り、十字路には入らず、外周通路の石塀に腰を掛けた。庭に視線を投げ、今まで息を止めていたかのように、胸いっぱいに空気を吸い込み、吐いた。
私はその傍らで、屋根の縁で鳴く小鳥にちらりと目をやった。
「シノア、この邸をどう思う?」
「立派だと思います。」
「そうではなく、人間関係の構造についてだよ。」
また小難しい話を始めるぞ、と身構えたのが自分でも分かった。
「普通、こういう高級住宅には奴隷がいるだろう。働くのは奴隷で、自由民はもっと娯楽を求める。」
「使用人を募集しているという話を聞いた時、珍しいな、とは思いました。」
「私は奴隷を所有していなくてね。所有、という言葉を使う事自体、好きではないんだが。帝都の邸でも、家事は仕事を求める者に頼んでいるんだよ。」
帝国人にも、奴隷を人間として見れる人がいるのだな、と感心した。
「貴族も自由民も、中には奴隷自身も、奴隷を卑しいと蔑む。けれど、シノアは考えたことがあるかい?」
「何をですか?」
「この国は、奴隷失くして社会は成り立たない。」
ピチチッ、と小鳥が賛同するかのように飛び立った。
「城や神殿を掃除し、綺麗に保っているのは奴隷だ。商人が商売をする為の荷を運んでいるのも、農作業や採掘作業を行うのもそうだし、医師として働く者や経理を任される者も少なくない。」
要するに、主人にやれと言われれば、なんでもやるのが奴隷なのだ。
「知識や技術のある奴隷は高く売れるからと、高等な教育を受けさせる奴隷商もいるんだ。おかしな話だろう?奴隷は人として大切な高度な学を身に付け、それを活かして働く。一方、帝都の自由民の生活は配給頼り。もちろん日々忙しく働いている者もいるが、娯楽ばかり求める者も少なくない。」
価値ある人間はどちらだろう?と問いかけてきたグリーンアッシュの瞳に見据えられ、無意識のうちにごくりと唾を飲みこんだ。
自分も下手をしたらその身分になっていたであろう手前、奴隷制度を好ましく思ったことなどないが、帝国の自由民と比べたこともなかった。
トレシュは帝都にいた時のできごとを、1つ話してくれた。今日のように庇護を求めに来た、貧民の話だった。
貧民の男はトレシュのように片足を引きずった男で、働くこともできないからと、恵みを求めにきたらしい。
そこでトレシュは、自分の邸の掃除人をしないかと持ちかけた。しかしそれに対し、男は怒りを示した。
それは奴隷の仕事じゃないか。自分は足が悪いだけで、奴隷のような扱いを受ける謂れは無い、と。
その出来事もあってトレシュは元老院からも顰蹙を買い、変人扱い。帝都では苦労をしたらしい。
「この国を船に例えるならば、とてもじゃないが海に浮かぶ形はしていない。最下層にいる奴隷たちが、必死に侵入してくる水を掻き出してくれているだけなんだ。その奴隷たちがいなくなれば、間違いなく沈むだろう。」
「皇帝陛下に近しい人が、そんなことを言ってもいいんですか?」
「陛下は私に賛同してくれているんだ。」
皇帝がそんなことでいいのか。あちこち戦争を起こして国土を広げておきながら、沈む船とは。
「先帝は外にばかり目を向けていたからね。今の陛下は内政を重んじておられる。だからこそ陛下は私に耳を傾けてくださるし、私も陛下の御為に力を尽くせる。」
はっとした。
今のは隠居生活をしている人の物言いではない。まだ皇帝の為に尽力しているような言い方だ。
やはりただの隠居ではない。何か目的があるのだ。
気が引き締まると同時に、何かが胸をチクリと刺した。
「少しずつだけど、国を変えていこうとしてるんだよ。一応ね。」
希望があるように聞こえるのに、それを言う表情が陰っているのは、上手くいっていないということだろうか。
「難しいんですか?」
私の問に、トレシュは力無く笑った。
「新しいことをしようとする改革派の前には、必ず、伝統やら慣例という壁が立ちはだかるものなんだよ。」
静かに中庭を眺めるトレシュに何か言おうと頭を捻ったが、何の言葉も掛けられず、腹部の前で重ねていた指をもじもじと動かした。
難しいことは分からないが、奴隷の扱いをどうにかしたいと考えている彼に、反発する勢力があるのだろう。
そんな人間、たくさんいるに決まっている。
トレシュの言うように、商業、農業、採掘業、家事業や技術者、奴隷はありとあらゆる場所で使われている。
じわじわと、胸を刺していた痛みが広がってくる。
もしナイジェルに、トレシュを殺せと言われたらどうしよう。
この男は殺すべきではない。
バデュバールの城主を見逃したように、この男もまた敵たりえない人物だということを、ナイジェルに伝えたい。
そうしたらナイジェルは受け入れてくれるだろうか。
一般的な高級邸であれば、使役されている奴隷たちは何人もで雑魚寝をするのだから、それに比べればかなり恵まれている。
普段まとめている髪を下ろし、リラックスしていた私は、ベッドの上できらきらと輝くアクセサリーを1つ1つ並べていた。
枕を脇に避け、お腹を下にした体勢で、本来なら枕のあるべき位置に並べているのだ。
腕輪に、指輪に、髪飾りやネックレス。合計10個。
全て今日、トレシュに貰った物だ。
神殿の帰り、神殿前大広場から伸びている商店大通りを歩き、少しは恋人らしくしないとブランドンに感づかれるからと、あれこれ買い与えられたのだ。
普段から、アクセサリーは身に付けていなかった。
人の記憶に残りやすい目印になるからだ。
しかし恋人らしさの演出に使うのであれば、どれかしらは身に付けるべきなのだろう。
どれも気乗りしない。さて、困った。
「いいなぁ、シノア。そんなに高価な物、いっぱい貰って。」
向かいのベッドに座っているミリーナが、首を伸ばしてこちらを見ていた。
「見る?」
そう訊くと、待ってましたと言わんばかりに素早く近くまで来てしゃがみ込み、その瞳を輝かせた。
「触ってもいい?」
「うん。」
わぁ、すごーい、1つずつ手に持つたびに、小さい歓声が聞こえた。
青い石が埋め込まれた銀の腕輪を手にして、ミリーナの手が止まる。
「ブルーメノウかしら。綺麗ねぇ。」
石の名前かどうかすら分からない私には、その価値は分からなかった。
ただ、トレシュに、君の瞳の色だからと貰った物なので、身に付けるべきはこれだろうか、という感覚があるくらいだ。
「こんなに素敵な物をくださるなんて、シノア、よっぽど愛されてるのね。」
ブランドンにもそう思って貰えたら、トレシュの作戦は成功なのだが。
「あなたは諦めたの?」
「だって全然脈ないんだものー!」
ぷくりと頬を膨らませるミリーナ。
彼女には彼女なりの愛嬌と魅力があるが、如何せんトレシュの身持ちが固い。
私も10年前の関わりがなかったら、こんなに近しい関係を築くことは不可能だっただろう。
「正攻法じゃだめね。」
ぽつり呟いたミリーナの瞳に、ぼんやりと青い石が映っている。その様子がどこか虚ろに見えた。
彼女からしたら私は目の上のたんこぶだ。
余計な揉め事に巻き込まれないように、少し距離を置くべきかもしれない。と、言っても、同室なのはどうしようもないのだが。
「ねぇシノア、これ、1つちょうだいよ。ご主人様の目には入らないようにするから。ね?ね?」
リスのように目をくりくりとさせるミリーナから、腕輪を取り上げた。
「これはだめ。他のなら。」
「え、本当?」
感じが良くなかったかもしれないと思ったが、特に気を悪くした様子もなく、ミリーナは並べられた他のアクセサリーを熱心に観察し、その内の金のチェーンネックレスを手に取った。
あざといとも受け取れるような上目遣いで、「これは?」と可愛らしい声を出す。
並べたアクセサリーの中で、ずいぶんと派手な物を選んだミリーナに、少しだけ呆れた。
さすが、トレシュの愛人の地位を狙っていただけある。
首を縦に動かせば、彼女の瞳は一層輝き、「ありがとう、シノア!」と愛嬌たっぷりの笑みを見せた。
腕輪だけ枕元に置き、残りのアクセサリーは、チェストにそのまましまった。
アクセサリーを収納しておくような小箱など持っていないのだ。
チェストに高価な物があることを知っているのは、私とミリーナのみ。
もし盗まれても、犯人はミリーナだとすぐ分かる。が、欲しいと言った物をあげたのだ。わざわざ欲をかいたりはしないだろう。
それぞれ就寝の準備をしてから灯りを消して、彼女の寝息が聞こえてから、私も瞼を閉じた。
翌日、さっそく腕輪を付けてトレシュの元へ仕事に行くと、彼はすぐに気が付き、優しく目を細めて褒め言葉をくれた。
演技か素か判別しにくい。
いつ見ても余裕綽々といった様子のトレシュが、眉根を寄せてため息を吐いたのは、質素な身なりの下層民たちとの面会を終わらせた後だった。
貧しい民が施しを求めに権力者の邸に並ぶのは、帝都では珍しくない光景だった。
権力者にとってはただの人気稼ぎの偽善であろうが、貧しい者たちが救われるのは間違いない。
卑しいアーク帝国にもましな文化があるものだと感心していた。
しかし、意外にもトレシュは良い顔をしていなかった。
情け深い人間ならば、喜んで施しを与えそうなものだが、それどころか、トレシュは頼もうとした仕事を断った1人の男に、少しの小銭も渡さずに帰した。
優しいとばかり思っていたが、淡泊な一面もあるようだ。
未だ、面会を受け入れた主室の椅子から動こうとしないトレシュに、ブランドンが歩み寄る。
「トレシュ様、お疲れですか?お休みになられるのなら、シノアを下がらせましょうか?」
つくづくブランドンには嫌われている。
トレシュは私に視線を移し、じっと見つめたかと思うと、いや、と首を横に振った。杖を手に取り立ち上がり、重々しかった表情を和らげた。
「シノア、中庭に行こうか。」
次いで、「君は来なくていいよ、ブランドン。」とも。
お陰でブランドンの鋭い眼差しを一身に受けるはめになった。ざまあみろ。
中庭は邸のほぼ中央にあり、こじんまりとしている。
十字の通路で分けられた4つのエリアを、背の低い植物が緑に彩っている。外周は腰より低い石塀で囲まれ、その石塀の上に一定間隔で置かれた支柱が屋根を支えている。
あまり派手に飾られてはいないが、1つだけ、大人の上半身程の大きさの彫刻が石台に飾られている。
赤子を抱いた女性の彫刻。その表情からは母の慈愛が見て取れた。
トレシュはその彫刻を横切り、十字路には入らず、外周通路の石塀に腰を掛けた。庭に視線を投げ、今まで息を止めていたかのように、胸いっぱいに空気を吸い込み、吐いた。
私はその傍らで、屋根の縁で鳴く小鳥にちらりと目をやった。
「シノア、この邸をどう思う?」
「立派だと思います。」
「そうではなく、人間関係の構造についてだよ。」
また小難しい話を始めるぞ、と身構えたのが自分でも分かった。
「普通、こういう高級住宅には奴隷がいるだろう。働くのは奴隷で、自由民はもっと娯楽を求める。」
「使用人を募集しているという話を聞いた時、珍しいな、とは思いました。」
「私は奴隷を所有していなくてね。所有、という言葉を使う事自体、好きではないんだが。帝都の邸でも、家事は仕事を求める者に頼んでいるんだよ。」
帝国人にも、奴隷を人間として見れる人がいるのだな、と感心した。
「貴族も自由民も、中には奴隷自身も、奴隷を卑しいと蔑む。けれど、シノアは考えたことがあるかい?」
「何をですか?」
「この国は、奴隷失くして社会は成り立たない。」
ピチチッ、と小鳥が賛同するかのように飛び立った。
「城や神殿を掃除し、綺麗に保っているのは奴隷だ。商人が商売をする為の荷を運んでいるのも、農作業や採掘作業を行うのもそうだし、医師として働く者や経理を任される者も少なくない。」
要するに、主人にやれと言われれば、なんでもやるのが奴隷なのだ。
「知識や技術のある奴隷は高く売れるからと、高等な教育を受けさせる奴隷商もいるんだ。おかしな話だろう?奴隷は人として大切な高度な学を身に付け、それを活かして働く。一方、帝都の自由民の生活は配給頼り。もちろん日々忙しく働いている者もいるが、娯楽ばかり求める者も少なくない。」
価値ある人間はどちらだろう?と問いかけてきたグリーンアッシュの瞳に見据えられ、無意識のうちにごくりと唾を飲みこんだ。
自分も下手をしたらその身分になっていたであろう手前、奴隷制度を好ましく思ったことなどないが、帝国の自由民と比べたこともなかった。
トレシュは帝都にいた時のできごとを、1つ話してくれた。今日のように庇護を求めに来た、貧民の話だった。
貧民の男はトレシュのように片足を引きずった男で、働くこともできないからと、恵みを求めにきたらしい。
そこでトレシュは、自分の邸の掃除人をしないかと持ちかけた。しかしそれに対し、男は怒りを示した。
それは奴隷の仕事じゃないか。自分は足が悪いだけで、奴隷のような扱いを受ける謂れは無い、と。
その出来事もあってトレシュは元老院からも顰蹙を買い、変人扱い。帝都では苦労をしたらしい。
「この国を船に例えるならば、とてもじゃないが海に浮かぶ形はしていない。最下層にいる奴隷たちが、必死に侵入してくる水を掻き出してくれているだけなんだ。その奴隷たちがいなくなれば、間違いなく沈むだろう。」
「皇帝陛下に近しい人が、そんなことを言ってもいいんですか?」
「陛下は私に賛同してくれているんだ。」
皇帝がそんなことでいいのか。あちこち戦争を起こして国土を広げておきながら、沈む船とは。
「先帝は外にばかり目を向けていたからね。今の陛下は内政を重んじておられる。だからこそ陛下は私に耳を傾けてくださるし、私も陛下の御為に力を尽くせる。」
はっとした。
今のは隠居生活をしている人の物言いではない。まだ皇帝の為に尽力しているような言い方だ。
やはりただの隠居ではない。何か目的があるのだ。
気が引き締まると同時に、何かが胸をチクリと刺した。
「少しずつだけど、国を変えていこうとしてるんだよ。一応ね。」
希望があるように聞こえるのに、それを言う表情が陰っているのは、上手くいっていないということだろうか。
「難しいんですか?」
私の問に、トレシュは力無く笑った。
「新しいことをしようとする改革派の前には、必ず、伝統やら慣例という壁が立ちはだかるものなんだよ。」
静かに中庭を眺めるトレシュに何か言おうと頭を捻ったが、何の言葉も掛けられず、腹部の前で重ねていた指をもじもじと動かした。
難しいことは分からないが、奴隷の扱いをどうにかしたいと考えている彼に、反発する勢力があるのだろう。
そんな人間、たくさんいるに決まっている。
トレシュの言うように、商業、農業、採掘業、家事業や技術者、奴隷はありとあらゆる場所で使われている。
じわじわと、胸を刺していた痛みが広がってくる。
もしナイジェルに、トレシュを殺せと言われたらどうしよう。
この男は殺すべきではない。
バデュバールの城主を見逃したように、この男もまた敵たりえない人物だということを、ナイジェルに伝えたい。
そうしたらナイジェルは受け入れてくれるだろうか。
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