夕月の欠片

daru

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第1部

08.

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 細い裏路地を全速力で駆け、行く手を阻もうとする自分より背の高い石屏を身軽に乗り越えた。
 着地するなり後ろを振り向き、腰の後ろに隠していた小型ナイフを素早く抜き取ると、同じく乗り越えてこようとしている男の首を狙って投げつけた。

 男が短く汚い悲鳴を上げて落ちてきたと思うと、そのすぐ後ろからもう1人の男が塀を乗り越えて来た。

 乱れたくるくるの黒髪に、濃い髭面。知らない男だ。

 髭男が繰り出してくる拳を右に左にと避け、低い姿勢で懐へ潜り込み、手首に近い手の平の厚い部分、手根部で思い切り髭男の顎を弾いた。

 髭男はくらくらと3歩後ずさる。そのすきに髪を留めていたピンを引き抜き、右手に構えた。
 さらさらと解けた髪が背に流れる。

 息を荒くする髭男。武器を持たないのは、私を拉致する為だろうか。

 髭男は、ちっ、と舌打ちを鳴らし、警戒しながら近づいてくる。

「女、何者だ?」

 どうやら私の正体を知らずに狙っているらしい。

 私は瞬時に距離を縮め、男の髭面を右手で打った。
 男の右腕が飛んでくるのを身を屈めて避け、頭上を通り過ぎた男の右腕、上腕を素早く刺した。

 今度は男の左足が繰り出された。向かってくる膝を左手で弾きながら内大腿部を刺し、蹴られた反動を利用してくるりと身を翻しながら、男の右脚の後大腿部を刺し、距離を取った。

 ふらつきながらもこちらを振り返る男の頭上に、どこからか飛び降りてくる男の影が目に入った。

「セス。」

 呼んだ時には、既に髭男の顔が地面に叩きつけられていた。

「シノア、どういう状況だ?」

 髭男はぴくりとも動かない。

 私は最初に殺した男の方へ向かった。

「街でぶつかって、裏路地へ連れてかれたの。」

 わざと肩をぶつけてきたんだと思う、と言いながら、男の首からナイフを抜き取り、男の服で血を拭った。

 セスは髭男を足で転がし、血を流す顔をまじまじと見つめた。

「ごろつきか、もしくは人攫いかな。」

 かもね、と頷く。

「その男、生きてるの?」

 セスが髭男の首元に指を当て、離した。

「脈はある。」

「顔も戦う姿も見られてる。生かしておけない。」

「分かった。訊くことを訊いてから俺が処理する。」

 だから、と立ち上がって、私に細いロープを投げ、私は難なくキャッチした。

「なんか運ぶ物を調達してくるから、しばっといて。」

 言われた通りにする。手を後ろで縛り、足も縛る。ついでに意識が戻っても騒がれないように、口に布を突っ込みロープを噛ませるようにして結んだ。

 しかし、セスはなかなか戻ってこない。セスがいるはずの宿まで、そう遠くはないはずなのだが。
 ざわざわと不安になった頃、ようやくセスが馬を引いて現れた。

「遅い。」

「悪い。道中で洗濯物を運んでる女が転んで足を挫いて、そいつの仲間がいるっていう洗濯場まで送ってたんだ。」

 セスはお人好しだ。特に、女子供に甘い。
 イラッとしても仕方がない。

 大きな小麦袋に縛った髭男を入れ、脚が三角になるように、なるべく小さくして詰め込み、馬に乗せた。

 やって来た場所は、街外れの山岳にある洞穴だった。馬も優に出入りできる広さがある。
 入り口付近にはちょろちょろと湧水が流れ、利便も良さそうだ。

「良い場所だね。」

「そうだろ?下の方に舗装された道もあるから、ここは誰も通らねぇんだ。」

 ならず者以外はな、とどや顔をしながら、奥まで進み、馬の背から雑に袋を降ろすと、そのまま放置して、肩をぐるぐると回しながら私のいる入口の方へ戻ってきた。
 腰かけるのにちょうどいい岩があり、セスはそこへ寄りかかるようにして座った。

「ブランドンのことは聞いたか?」

 私がトレシュに聞いた内容と同じ情報を、セス達も掴んだらしい。

「国の軍団兵を辞して、トレシュの私兵として動いているみたいね。」

「任期が終わってねぇのに。」

「皇帝から許可を得たらしい。」

 他の任務を命じられたのか、ただトレシュについて行きたかったのかは分からないけれど。
 ブランドンのトレシュに対する忠誠心を考えると、後者の可能性も十分ある。

「ただの隠居について行くなんて理由で、皇帝が許可したってのか?」

「それだけど、ただの隠居ではなさそう。トレシュは、まだ皇帝に仕えているような言い方をしてた。」

「じゃあ、何の為にこんな僻地に?」

「そこまでは、まだ…。」

 2人で考えるように俯き、しばらく沈黙が続いた。
 湧き水の流れる音と、時々、馬が鼻を鳴らす音も響いた。

「ま、とりあえず伝えとくよ。どうするべきかはナイジェルが考えるだろ。」

「そのことだけど。」

 自然と口から出てしまい、咄嗟に口を指で抑えた。

 妙な罪悪感を覚えたが、何も知らないセスは首を傾げた。

「なんだ?」

 私は何を言うつもりで口を挟んだのだろう。

 トレシュは殺さない方が良い。なぜ?トレシュは悪い人じゃないから。悪い人ってどんな人?さっき私を襲ってきたような人?そうだ、あんな奴らは死んで当然だ。では今まで殺してきた帝国の役人たちは?死んで当然だったか?そんな奴らもいた。奴隷を酷く扱ったり、他人の妻を娶ったり。それは全員だった?

 分からない。ナイジェルの指示に従っただけだから。
 でもきっと間違いではなかったはず。ナイジェルが言うのだから。

 ふと、トレシュの声が聞こえた。

 “考えることを止めちゃいけないよ。”

「シノア?どうした、何かあるのか?」

 セスの声に、はっとした。
 自分と同じ色の瞳をじっと見つめる。

 セス、私達は自分で考えて行動していると言えるだろうか。

 きゅっと唇を締めてから、口を開いた。

「トレシュには、手を出さない方が…良いと、思う。」

 セスが目を丸くする。

「根拠は?」

「根拠は…なんとなく。」

「はぁ?」

 セスが訝しがる気持ちも分かる。しかし、感覚的なこの想いをどう伝えたら良いか、私にも分からなかった。

「国の事を考えてる…人だから…。」

 セスはしかめっ面で私に人差し指を向けた。

「お前、あの男と寝たのか?」

 はぁ?今度はこちらが言う番だ。下世話なことを考えないで、と。

「あの男に絆されたんだろ。」

「違う。」

「寝たら情が湧くのは分かる。」

「違うってば。」

「だったら意味なく庇うようなこと言うなよ。」

 でも、トレシュは本当に悪い人間ではないのだ。殺しても良いなんて思えるような人間ではないのだ。
 いや違う。殺したくない。死んでほしくないのだ。

「国の事を考えてるだと?そんなもん知るかよ。シノア、俺は、この国がどうなろうが、知ったこっちゃない。」

 私だってそうだ。そうだったはず。

 眉間に力が入り、俯くことで下に落ちてきた髪を耳に掛けた。

「惚れたのか?」

 私の人生に関わることのない言葉を聞いて、きっ、とセスを睨み付けた。

「違うって言ってるでしょ。」

「だったら余計な事を考えるな。どうするかはナイジェルが決めるんだ。」

 分かっている。ナイジェルは頭が良い。
 ナイジェルに任せておけば間違いない。田舎村出身の私たちとは違うのだ。

 でもセス、私たちは本当に考えなくていいのだろうか。
 私たちはそうすることで、全ての責任をナイジェルに押し付けているのではないだろうか。
 ナイジェルと同じ業を背負うと決めたのに、結局、全てを背負わせてしまっているのではないだろうか。

 指が落ち着きをなくし、もじもじと絡み合う。

 胸のざわつきは晴れなかったが、私はそれ以上セスと言い合うのをやめた。

 ナイジェルが判断しくれたら良い。トレシュは殺す必要がないと。
 そして、もう探らなくて良い、手を引いて良いと、そう指示を出してくれることを望んだ。

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