夕月の欠片

daru

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第1部

09.

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 なぜだか頭が重たい。体がだるい。
 気を抜くと、目を閉じて横になってしまいそうだ。

 セスはもうナイジェルの元へ向かっただろうか。

 今日出発して、寄り道したりしなければ、5日後には着くはずだ。
 カサム州から南東に位置するローニヤンという町。その外れの丘にぽつんと立っているのが、私達の第二の故郷であり本拠地でもある、サータナリヤ孤児院だった。

 この邸の使用人になってから1ヶ月と少し。その間ナイジェルに会っていない。
 孤児院の院長を務めるナイジェルは、今日も波打つ赤毛を揺らして子供たちや家畜の世話をしているに違いない。

「シノア。」

 聞こえて、少し経ってからトレシュの声だと気がついた。

「シノア?」

 目が覚めるようだった。トレシュに呼ばれていたのだ。何度も。

 私は慌てて顔を上げた。

 円形のテーブルを囲うように設置された長椅子。そこにのんびりと横たわっているはずのトレシュが、上体を起こしていた。

「シノア、大丈夫かい?」

「あ、申し訳ありません。」

 蔓棚で陽光を遮った室外食堂。
 トレシュは昼食を摂っているところだった。昼食といっても、ブドウ酒を飲みながら焼き菓子をつまんでいるだけだが。

 いつも会話しながらゆっくりと食べる為、今も何か話しかけられていたのかもしれない。

「体調が悪いの?」

「大丈夫です。」

 彼は手の平を上に向け、4本の指をくいくいと動かした。
 呼ばれるままに歩み寄ると、急に腕を引っ張られ、彼の胸元に倒れ込む形になってしまった。

「すみません!」

 すぐに体を離すと、今度はトレシュのごつごつとした厚い手が私の額を覆った。その熱が心地よく、瞼が勝手に閉じてしまう。
 トレシュの手の熱に、意識が溶けて行く。

「少し、熱いかな。」

 その言葉は耳に入ったが、頭にまでは届かなかった。

 風邪などめったに引かないのに、よりにもよってトレシュの前で。失態だ。

 かなり前に、リリーが熱を出した時のことが頭を過ぎった。
 リリーは私たちの妹のような存在だ。

 いつも頼りになるナイジェルが、仲間の体調不良にはめっきり弱い。
 不安が募る気持ちは分かる。ローニヤンの町に着いてすぐ、同行していた仲間1人を亡くしてしまったから。けれどナイジェルのそれは、そもそも看病に慣れていないことに起因していた。はっきり言って、ポンコツだ。
 ナイジェルは寝込むリリーの横で散々狼狽えた後、皆の母役であるマニャに部屋を追い出された。

 僅かに口角が上がる。

「良い夢を見ているようだな。」

 耳元に落ちてくる声にはっとして目を開いた。そうしてから意識が飛んでいたことに気がついた。

「すみません、私…。」

 顔を上げると、すぐ近くにトレシュの顔が。
 私はトレシュの胸にもたれかかり、抱きしめられるような形で頭を撫でられていたのだ。

 事態を把握するや否や、全力でトレシュの胸を押し返し、体を離した。

「す、すみません。」

 くすりと聞こえたが、トレシュの顔を見る余裕はなかった。
 熱のせいか、顔が熱くてたまらない。

「シノア、今日は部屋へお帰り。」

「いえ、大丈夫です。」

「私が心配なんだよ、シノア。自室に戻りたくないのなら、私の部屋に行こうか?」

 聞き間違いかと思い、トレシュの顔を覗くと、眉をハの字下げ、楽しげに輝く笑顔が見えた。

「一緒のベッドで休む?」

「トレシュ様!」

 声を荒げたのはブランドンだ。頑張れ、ブランドン。

「昼間っから破廉恥なことを仰らないでください!」

「夜まで待てと?」

「トレシュ様!」

 ブランドンは声が大きいだけで役に立たないと思い、そっとトレシュから距離を置いた。

「すみません。部屋に、戻ります。」

 身の危険を感じたせいか、随分と弱々しい声になってしまった。

 トレシュの手が伸びてきて、再度、私の頭を優しく撫でた。

「そうしてくれ。」

 トレシュがブランドンの脇にいた兵士を呼び、その兵士に自室まで送って貰った。

 ベッドに倒れ込むように体を沈めると、疲れがどっと押し寄せてきた。

 先程まで重かった頭には痛みが伴った。
 目を閉じると、ふわふわと上下の感覚がなくなり、その浮遊感で気持ちが悪くなる。

 ナイジェルの言うこと、セスの言うこと、トレシュの言うこと。今まで言われた言葉が、群を成して頭の中に渦巻いている。

 どれが正しくて、どれが間違っているのか見当もつかず、掬い取るべき言葉が分からない。

 そうしている内に、1つずつ、ゆっくりと、真っ暗な湖に沈んでいく。

 一切の光が無いそこにはさざ波も立たず、次第に自分も沈んでいることに気がつくが、抗うことはせず、その沈降に静かに身を任せた。

 カタン、という物音で目が覚めた。いつの間にか寝ていたのだ。

 音の正体はミリーナだった。薄暗い中、彼女が棚の上にコップと瓶を置いたのだ。

 まだ体は重かったが、無理矢理、上体を起こした。

「ミリーナ、今は夜?」

「起きたのね、シノア。もう真夜中よ。」

 窓の外は確かに暗い。窓辺に置かれた蝋燭が闇に負けないように奮闘している。

「こんな時間まで起きてたの?」

「シノアが起きるのを待っていたんじゃない。」

 ぷくっと頬を膨らませるのはおなじみだ。

「ご主人様に言われたのよ。シノアが起きたら薬を飲ませるようにって。」

 ミリーナはさっそく薬瓶の中身をコップに注いでいた。

「大丈夫。寝たら治るから。」

「だめよ。ちゃんと飲ませるようにって、仰せつかってるんだから。」

 できれば他人に貰った物を口にしたくなかったが、主人であるトレシュの名前を出されては、頑なに拒むのは難しい。

 はい、と無邪気にはにかむミリーナから、仕方なくコップを受け取った。
 一瞬ためらい、意を決して一気に飲み干した。

「よしよし、偉いわねぇ。」

 ミリーナはからかうように歯を見せ、コップを回収した。

「ありがとう。」

「いいのよ、お礼なんて。」

「それよりも、体調はどう?」

 大丈夫、そう言おうとした時、違和感を覚えた。
 手に力が入らない。見ると、小刻みに震え、拳を握ることすらできない。

 何事かと考える暇もなく視界が傾く。その端に映ったミリーナの上がった口角に、ようやく毒を飲まされたのだと気がついた。

 ドクドクと心臓がうるさく暴れまわり、全身から汗が噴き出る。声を出すこともままならない。

 ミリーナはそんな私の傍らにしゃがみこみ、厭らしい笑みで私の頬を撫でた。

「思ったよりも効きが早いわね。体が弱っていたからかしら。」

 静かに立ち上がり、窓を開け、黒いフードで顔を隠した男がするりと侵入してきた。

「誰にも見られていないわね?」

「もちろんです。」

「毒の廻りが早いみたいなの。丁寧に扱って。」

「分かりました。」

 なぜミリーナが私を。まさか本当にトレシュの指示なのでは。

 動悸がうるさく、頭がまともに働かない。

 いや狙われていたというのなら他の理由もありうる。昨日、街で襲われた件だ。
 もしかするとあれもミリーナの仕業だったのかもしれない。でも、何の為に。

 どうにかしなければと焦燥感に駆られたが、動かない体ではどうすることもできず、次第に視界もぼやけてきた。

 意識が朦朧とする中、耳に直接声が入ってきた。

「すぐに死んじゃだめよ。」

 どうやら私は拉致されるらしい。使い道は分からないが、死なれては困るようだ。

 そんなことをぼんやりと考えている内に、再び真っ暗な湖へと戻って来ていた。
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