夕月の欠片

daru

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第1部

17.

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 ノックの音に飛び起きた。

 ずいぶんと寝入ってしまっていたらしい。部屋も外もすっかり暗くなっていた。

 コン、コン。再度、ノック音。

 トレシュだ。トレシュは持っている杖で戸を叩くため、ノック音が他の者と違って分かりやすい。
 反射的にまとめていた乱れた髪を直そうと両手で探った。無理そうだと判断し、すぐに解いて指で梳く。

「シノア、私だ。」

「あ、はい。待ってください。」

 衣服に乱れはないか確認しながら駆け寄り、うねった髪を撫でながら戸を開けた。

 トレシュがオイルランプを片手に立っていた。オレンジ色の灯りがトレシュの顔を下から照らしている。
 酒もたらふく飲んだのだろう。独特な甘い香りを纏っていた。

「悪いね、こんなに遅くに。」

「いえ、お戻りだったんですね。」

「あぁ、うん。入ってもいいかい?」

 トレシュが杖の柄を室内に向けたので、私は戸を大きく開き、彼を通した。
 ランプを持っているとはいえ、暗い部屋にトレシュが入ってきたことに、少しばかり胸がざわつく。

「椅子を用意してもらえるかい?」

 杖の先が窓辺へ向いている。窓辺で話したいのだろうか。素直にそこへ2脚用意した。
 ありがとうと眉尻を下げて座ったので、私もそうする。

「シノア、空を見ててごらん。」

 その通り見上げる。
 晴れているようで星がよく見える。

 月でも見せたいのかと思ったが、満月でもなく半分近く欠けており、肉付きの良いオレンジのひと欠片のようだった。
 トレシュは一体何を見せたいのだろう。

「何かあるんですか?」

「テンティウス殿の邸でね、中庭に面した食堂トリクリニウムから流星が見えたんだ。シノアは見たことある?」

「ありません。けど、1度流れたからと、何度も流れるものではないのでは?」

「宴会場で2度、帰り道で2度見かけたんだ。」

 流れ星を1日で何度も見かけることなどありえるのだろうか。
 考え込んだ私を見て、トレシュはくすりと笑った。

「時々ね、一夜でたくさん見られる日があるんだ。」

「そんな日があるんですか?」

「うん。1年の内に何回かあるんだよ。理由は分からないけれど、師匠せんせいがそれを観測していてね、今年もそろそろだって、この前手紙が届いていたことを思い出した。」

 どうやら今日がその日らしい、と空に目を向けるトレシュをランプの灯りがゆらゆら照らし、彼自身が星のように輝いて見えた。
 少し見とれた後、その思考を消すようにくしゃりと頭を掻き、私も視線を空に投げた。

 刹那、空に一筋の光が走った。

 あ、と声が漏れ、指を差そうとした矢先に、別の場所にもう一筋。
 同時にトレシュと顔を見合わせた。眩しいほどの笑顔に怯み、言葉を失う。

 私もこんなに無邪気に目を輝かせているのだろうか。そう思うと途端に羞恥に襲われた。

「見た?」

「あ、はい。」

 気恥ずかしさに勝てず、空に視線を戻した。

「初めて見ました。本当に一瞬で、感動する暇もありませんね。」

 けれど確かに陽の感情が湧き上がっている。

「それがまた魅力的だろう?私たちの高揚を置いてけぼりにして、さっさと消えてしまうんだ。もう1度出会いたいと思わずにはいられない。」

「ふふ、恋をしているみたいですね、トレシュ様。」

 私が笑うと、トレシュも同意するかのように笑った。
 トレシュが笑うと私も嬉しい。

 ふと、何かお返しをしたくなった。
 ここに来てからというもの、たくさんの物を与えて貰ってばかりだったから。

「トレシュ様はどの星が好きですか?」

「星?」

 トレシュは「そうだな。」と右手の拳を軽く口に当てて空を眺めると、控えめに空を指差した。

「ありきたりだけど、北極星ポラリスかな。」

北極星ポラリス?」

 私が首を傾げると、立ち上がったトレシュに手を引かれ、私も立ち上がった。顔と顔が至近距離まで近づいたので、大きく心臓が跳ねた。
 トレシュはそのまま私の手を使って明るい星を指差した。

「あの星だよ。こぐま座の尻尾の先の。」

「あ、あれが好きなんですか?」

「好きというか、少し特別だから。」

 トレシュは手を下ろして私の手を離した。

「特別?」

「あの星は動かないんだよ、他と違って。だから、あの星が見えている方角が北だとすぐに分かる。」

 利便性か。それは好きとは違うと思う。

「星も良いけれど、私はやっぱり月が好きだな。」

 日頃、よく私を月に例えるトレシュ。今のは違うと分かっていても、勝手に頬が弛んだ。

 それなら、と言ってオレンジ欠片のような下弦の月を指差す。

「あの月を、トレシュ様に差し上げます。」

「え?」

「いつでも、好きな時に好きなだけ眺めて良いですよ。」

「好きなだけ…。」

 納得したのか、きょとんと眉尻を下げながら空を見上げるトレシュが可笑しかった。

 困惑して当然だ。月を見上げる権利など誰でも持っている。私がこんなことを言わずとも、彼ならいくらでも眺めたに違いない。
 それを真面目に受け取ろうとしている姿に笑いが込み上げた。

「ふっ、あははっ。」

 私が笑い出すと、トレシュも可笑しそうに歯を見せ、腹に手を当てた。

「嬉しいですか?」

 顔を覗きこむようにして悪戯に訊くと、トレシュの僅かに細めた目が一層の優しさを帯び、彼の左手が私の頬に伸びた。
 熱を帯びた厚い手が、撫でるように片頬を包む。

 そして、額にキスを落とされた。

「皇帝陛下でも、これほどの贅沢は経験ないだろうね。」

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 頬の上を滑るトレシュの指先が私の耳を掠め、慣れない変な感覚に、体の中心から熱が放出されたようだった。
 うす暗くて助かった。たぶん顔が、熟れたトマトのように赤くなっている。

「ここのところ、君の視線が熱を帯びているように感じているんだけど、私の気のせいかな。」

 気のせいではない。が、隠しているつもりだったのに。

 顔を見られたくなくて、手の甲を口に押し付けるようにして隠すと、トレシュの右手でその手を剥がされた。

「シノア。」

 優しい声で囁かれ、観念するように顔を上げると、ランプの炎を映した瞳がそれは穏やかに細められている。

 私もトレシュの名を呼びたかったが、そんな隙も無く、手際よく腰を引かれ身体が密着した。

 頬を撫でていた手が首の後ろに回ったかと思うと、次の瞬間、トレシュの唇と私の唇が触れていた。驚くべきは、自然と彼を受け入れていたことだ。
 柔らかい感触と、アルコール臭の吐息に酔いしれそうになる。
 舌を絡め、うっすらと開いた視界に、恍惚としたトレシュの瞳が映ると、すぐに脳が何者かに支配された。さらに強く彼の舌を求め、目を閉じると同時に、彼の背に腕を回した。

 唇が離れた時には、すっかり体が熱くなっており、互いの目が蕩けていた。

 もう1度短いキスをし、僅かに見つめ合うと、トレシュに手を引かれるままベッドに移動し、2人で身を沈めた。

 羞恥心はすぐに快感に呑み込まれた。
 トレシュに求められていることが、触れてもらえることが嬉しい。彼が呼吸を乱し、感じてくれていることが嬉しい。

 互いに肌をすり寄せ、何度も名を呼び合い、歓びに身を震わせた。

 デザートはトレシュの甘い囁きだった。
 横になり、後ろから抱きしめられながら、蜜のように甘い言葉が耳に流し込まれた。

「シノア、ずっと私の側にいてくれ。」

 トレシュは寝付く前にそう言ったが、私は答える事ができなかった。

 トレシュの願いは叶えられない。私が帰るべき場所はナイジェルとセスがいる場所なのだから。
 それなのに、すぐ後ろで聞こえる規則正しい寝息にすら心を乱される。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 トレシュの腕の中で身を捩り、彼の裸体と向かい合う。

 知らなかった。自分の中にこんなに制御できない感情があるなんて。
 笑顔を見るだけで胸に何かが満たされる。触れると触れた箇所からじんと熱くなり、その熱が心地よく、もっと欲しくなる。

 頭が勝手に彼との未来を思い描こうとし、打ち消すように固く目を閉じた。
 そっと開いて、目を閉じたままの彼を見つめた。

 猫のように柔らかい頭髪。ハの字の眉毛。度重なる苦労を感じさせる目元の皺。形の良い鼻に、縦皺の入った薄い唇。
 片足が不自由ながら、時々私兵たちに混ざって鍛えている身体は、若々しく逞しい。

 彼の頬を撫で、年齢を隠せない首筋から鎖骨までそっとなぞり、胸元に顔を埋めた。
 じんと目の奥が熱くなる。

 これは名前を付けてはいけない感情だ。

 ここに来るべきではなかった。
 こんな感情、知りたくなかった。トレシュに会いたくなかった。

 喉の奥で何かがつかえ、ひりひりと痛む。
 トレシュの胸元にキスをして、堪えきれずに涙が零れた。

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