夕月の欠片

daru

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第1部

16.

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 森の中を走っていた。セスと一緒に、幼い頃から出入りしている慣れた森の中を、必死に、息を切らしながら。

「シノア、もっと早く走れ!」

 疲れ果て、もう脚が言うことを聞かない私の手を、セスが引っ張る。
 私は呼吸をするのも精一杯で、言葉を発することができなかった。

 いや、言葉を発せなかったのはそればかりの理由ではない。
 頭の中で繰り返される光景が、私に声を忘れさせたのだ。

 藁葺き屋根に広がる火。あちこちで鳴る金属音。帝国軍の雄叫びに村人たちや家畜の悲鳴。それらが頭の中で木霊した。

 夜は2人で体を寄せ合った。食料は木の実や雑草で凌ぎ、時々セスがウサギやリスを仕留めると、私が御馳走を作った。
 村の心配をするとセスが口を噤むので、あまり話題に出さないようになった。

 10日を過ぎたころ、日を数えるのを止めた。
 何日も歩いた。森を抜け、母たちが言っていたように川に沿って首都に向かう。たぶん、北へ。

 村から出たことがなかった私は、恐らくセスもだが、本当にバデュバールへ向かっているのか自信が無かった。
 言われた通りに進んでいるが、あと何日歩けば辿り着くのか、まるで分からなかった。

 ナイジェルの乗った小舟と遭遇したのは、そんな時だった。

 何か食べ物はないかと声を掛けられたのだ。私は保存食として持っていた木の実を広げ、セスは魚を捕って全員分の食糧を確保した。

 ナイジェルは私の6歳上の18歳だった。太陽のように眩しい赤毛は多少汚れていたものの、上質な服を着て、いかにも貴族という出で立ちだった。ただ、物腰は柔らかい。

 小舟の同乗者は、ぽっちゃりとした中年女性のマニャに、痩せこけた女性、アウローラと赤子のナッザリオ。みんな質素だが、私やセスに比べれば、その衣服は汚れてはいるものの上質だった。
 そして、どちらもナイジェルに敬語を使っている。

 本当はもう1人、護衛を務めていた男がいたらしい。しかしその人は矢傷が原因で死んでしまったという。

 ナイジェルは、首都へは行くなと言った。この国は既に陥落した。ナイジェルたちは首都から逃げてきたのだと。

 目的地を失くした私とセスは、自然とナイジェル一行についていった。
 聞けば、故カサム小国の地を離れて帝国人になりすますという予定でいるらしい。

 そんなに簡単に行くだろうかと思っていたが、ナイジェルは頭が良く、統率力があった。
 悪天候であったり、帝国軍に遭遇したりと、途中途中に訪れるピンチを冷静に切り抜けた。

 問題は国境、すでにカサム小国は滅びたのだからそう呼ぶのは間違いかもしれないが、とにかく故カサム小国との境を越えた先の町、ローニヤンで起こった。

 アウローラが病にかかったのだ。発熱し、動くことも困難となり、早くちゃんとした場所で休ませなければならない。

 医師に診せる為のお金は、ナイジェルが私物を換金して用意した。カサムの通貨はカサム人とばれてしまう為に使えないらしい。

 医師は良かった。診察し、薬もくれた上に、赤子まで診てくれた。しかし宿が困難だった。

 いかにもよそ者である私たちが病人を連れていると知るや否や、宿泊を拒否された。

 帝国人は冷たいのだなという印象を持った。
 私たちの村、ケット村だったら、もし旅人が病人を連れて来ても、隔離はするかもしれないが、寝所は用意しただろう。おせっかいな母たちが、相手方が恐縮するほど世話を焼いたに違いない。

 ナイジェルとセスが宿探しをしている間、私たちは町の外れでナッザリオを抱っこし、ひたすら揺らした。
 マニャがアウローラの看病をしているが、その表情は険しい。

 ナイジェルとセスが帰って来たのは、日が落ちる頃だった。
 町中の宿屋、裕福そうな邸、集合住宅や少し離れた場所にある孤児院まで頼み込みに行ったが、受け入れ先は見つからなかったと肩を落とした。

 山羊のミルクが手に入ったことが、不幸中の幸いだった。お陰でずっと不機嫌だったナッザリオの腹を満たすことができた。

 日が沈んでいくのと比例して、皆の表情も暗くなっていく。そんな中、ナイジェルが立ち上がった。

「もう1度行ってくる。」

 宿探しに、ということなのだろう。セスもすかさず立ち上がり「俺も。」と名乗り出たが、これをナイジェルは手で制した。

「もう暗いから、セスは皆のことを頼む。」

 そう言われると、セスも大人しく残るしかなかった。
 少し安心できたのは、ナイジェルが眉間に力を込めたような強い眼差しを見せたからだ。こういう目をしたナイジェルは、有言実行、必ず成果を出してくれる。

 だいぶ時間がかかった。どこかで危険な目に合っているのでは。もしかして私たちを置いて行ってしまったのでは。
 暗闇の中、そんな不安が湧き始めた頃、ナイジェルはようやく戻ってきた。それも、小さなロバの荷馬車を牽いて。

 さすがナイジェルだと、私たちは手を取り合った。

 目的地は丘にぽつんと建てられたサータナリヤ孤児院だった。院長が遠出をするらしく、その間の留守を預かる約束で受け入れてくれたらしい。
 それなら昼間の内に言えよな、とセスが愚痴を溢し、ナイジェルが遠慮がちに笑った。

 ナイジェルは疲れているようだった。
 当然だ。1日中宿を探しまわり、こんな夜中まで孤児院の院長を説得してくれていたのだから。

 孤児院は静まり返っていた。子供たちはすっかり寝入っているらしい。
 院長とやらもすでに出掛けた後のようで、出迎えも無かった。

 私たちはひとまず、空いている部屋に静かに入った。1室はアウローラとナッザリオ、看病兼世話役のマニャ。隣室に私とセスとナイジェルが入った。

 私たちの部屋にベッドはなかったが、長椅子が2つあったので、そこに寝ることにした。

「1つはナイジェルが使って。」

 私が言うと、ナイジェルは笑顔で「私はまだ寝ないから。」と遠慮した。どうしても疲れた様子のナイジェルに使って欲しかったのだが、彼は一向に折れないので、仕方なく私が使わせてもらうことにした。

 もう1つの長椅子はセスが使い、早々に寝息を立てている。
 私は横になってはいたが、いつまでも窓の外を眺めるナイジェルを、じっと見ていた。

 いつまで起きているつもりなのだろう。

 かなり時間が経ってから、彼は唐突に、しかし音を立てず窓から離れた。私は咄嗟に目を閉じる。 
 足音の動きでなんとなく、私とセスが寝ている事を確認しているように感じた。

 部屋から出た気配を察知して目を開き、素早く起き上がる。なるべく足音を立てないように気を付けながら、戸に駆け寄って、ナイジェルの後を追おうとした。
 途端、腕を掴まれた。

 悲鳴を上げそうになったのを手で口を押さえ、なんとかとどめた。

「どこ行くんだ、シノア?」

 セスだった。

「ナイジェルがどこかへ行くみたいだから。」

「つけるのか?」

「様子が変なの。」

 セスも同様に感じていたのか、もしくは私を説得できないと思っているのか、特に反対もせず、むしろ先行した。

 ナイジェルは足早に廊下を移動し、外へ出た。
 先ほど病人女性を乗せたロバの馬車に、別の荷物を乗せている。何かは分からない。大きな袋で、重そうにしていた。

 私とセスは互いに顔を見合わせ、肩を竦めた。

 進み始めた方向は、理解不能だった。
 私たちが来たカサムの方角でも、町の方でもない。ぽつぽつと木が立つ以外、何もない丘の先へとロバを牽いて行った。
 
 1キロメートルは歩いただろうか。昼間なら、遠くに孤児院がぽつんと見えるくらいの距離だろう。
 ナイジェルは止まったかと思うと、次は荷馬車からスコップを取り出し、地面を掘り始めた。静まり返った空気に、ザクッ、ザクッと地面の刺される音が不気味に響く。

「あいつ、何やってるんだろう?」

「分からないけど…。」

 ナイジェルが働いているのなら手伝うべきではないか、そう考えるより早くセスが近寄って行った。私も続く。

「ナイジェル。」

 セスが呼ぶと、暗い中でも分かるほどナイジェルが驚愕の表情を浮かべた。大きく見開いた瞳に、松明の炎が映る。

「寝て…なかったのか?」

「何やってんだよ、1人で抜け出して。」

 ナイジェルが言葉を失ったように、うんともすんとも言わないので、私は首を傾げ、ちらりと荷馬車に目をやった。

 大きな袋の正体が気になる。そこに手を伸ばすと、「だめだ!」とナイジェルが声を荒げたが、私は構わず袋の口を開いた。

 息を呑んだ。声も出ない程驚き、猫のように後ろに飛びのいた。同じく驚いたセスが、私を庇うように肩を抱いた。

 手が震えたが、気を落ち着かせて、もう1度袋に目をやった。

 開いた袋の口から、人間の頭が見えている。
 乱れた髪。目を見開き、唇はひび割れだらしなく開いている。ぴくりとも動かない。死んでいるのだ。

「院長…なのか?」

 セスがごくりと唾を飲み込んだ。セスは遺体の顔を知っていたのだ。

 ナイジェルは俯き、手の甲で額の汗を拭った。
 否定しないところを見るに、間違いないらしい。

「お前が殺したのか?」

 ナイジェルは少しの間を空けてから口を開いた。

「この男の着ている服は良質なウールだし、装飾品も身に付けている。一方、孤児院の子供たちを見た時、随分と貧相だった。衣服は汚れ、身体も細い。」

 静かな声だった。何の感情も乗っておらず、ただ文章を読み上げた、そんな感じだ。

 私とセスは訳が分からず顔を見合わせたが、静かに聞いていた。

「こういう慈善事業をしている者は、大概、裕福な者から援助を受けている。そうではない場合、院長も質素ななりをしているはずだ。」

「つまり?」

 セスが口を挟んだ。

「つまり、この男は恐らく寄付金を私欲に使い、子供たちの世話を疎かにしていた偽善者だ、ということだ。」

 だから殺されて当然の男だ。そう言いたいのだろう。

 私がそれについて何も言わないのは、ナイジェルが淡々と話すその様子が、罪悪感に打ち勝とうとしているように感じたからだ。たぶん、セスも。

 ナイジェルは私たちの為にこの男を殺したのだ。寝床を用意する為に。アウローラの養生の為に。私たちのこれからの生活の為に。その為に人を1人殺し、その罪を1人で背負おうとしている。

 眉間にしわが寄り、目頭が熱くなった。

 私は衝動的に遺体の横にあったスコップを手に取った。ナイジェルの側へ行き、歯を食いしばって地面を掘った。

「シノア…。」

 ナイジェルが驚いたように溢した。

「スコップはもうねぇのか?」

 そう訊いたセスにも、同様に名を口にする。

「納屋になら…まだあったけど…。」

 ナイジェルがたどたどしく答えると、セスはすぐに踵を返し、孤児院の方向へ走って行った。

 涙を拭いながら、黙々と地面を掘っていると、「シノア、無理するな。」とナイジェルが苦々しい声を出すので、「手を動かして。」と淡々と返した。

 セスが戻って来ると、穴掘りはますます捗った。

 3人で十分な深さまで掘り、先に2人に押し上げてもらうと、次はナイジェル、セスの順番で穴から出てきた。

 遺体を袋のまま荷馬車から引きずり下ろし、穴へ放り込み、今度は穴に土を戻していく。

 手は豆だらけで血が滲み、ようやく作業が完了した時、東の空がうっすらと明るくなってきていた。
 美しいとは思えなかった。ただ、この場所を照らさないでくれと、それだけを願った。
 空の明るさが増すごとに、私たちの影は濃くなった。

 3人で座り込み、肩呼吸でその方角を見つめた。誰も、何も言わなかった。

 何も言えなかったのだ。

 ナイジェルは悪くない。そんなことを言えば、ナイジェルは悪いことをしたと言っているようなものだ。
 このことは3人の秘密だ、なんて口に出さなくても分かりきっている。

 私にできることは、ナイジェルの罪を共に背負うことくらいだった。
 ナイジェルの決断を支持し、共に同じ道を歩むと決めた。

 孤児院を乗っ取ったことで、貧相だった子供たちはどんどん元気になった。

 思いのほか笑って暮らせた。セスとナイジェルがいれば無敵だった。なんでもできた。
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