16 / 43
第1部
15.
しおりを挟む
穏やかな日々が続いた。
トレシュと散歩をしたり、のんびり話したり。彼が私兵たちに混ざって体を鍛えているところを見ることすら楽しいと思えてしまう。
時々ブランドンと口論になるのは、少し煩わしいが。
トレシュがいない時はリハビリに励んだ。入浴やストレッチを念入りに行い、隠れて筋力トレーニングも始めた。だいぶ体が鈍っていたから。
時間を持て余すと、トレシュの本棚から本を借りた。どれも難しくてよく分からない。
彼と過ごしている時に質問すると、懇切丁寧な解説が聴講できた。本に載っていない豆知識を織り交ぜながら、分かるまで解説してくれる。
話自体は退屈だった。けれど、話している彼の姿に目を惹かれた。
本当に楽しそうに話すのだ。何をしている時よりも目が開き、活き活きとして見える。
トレシュは時々、恩師という人の話をしてくれた。
ヘライオスというその人は、兵士時代の上官で、剣よりも知を、とりわけ宙を好む人だったという話は前にも聞いていた。
そして自分の知を人に教える事が好きだったと、トレシュは困ったように笑いながら話したが、私が思うにトレシュも同類だ。師の影響ということもあるのだろう。よほどお世話になったようだから。
ベッドで本を読んでいると、不意に鳥の囀りが聞こえ、窓辺に駆け寄った。
すぐ側の木の枝に小鳥が止まっていたが、私の姿を見て晴れた空に飛び立って行った。
あれからセスにも会っていない。リリーとは無事に合流できたのだろうか。
セスが療養しろと伝えにきてから、既に20日は経っていた。何事も無ければ2人で孤児院に戻り、子供たちとのんびりしていることだろう。
会いたい。
そう思いつつも、ここを離れがたくなっている自分にも気がついていた。
涼やかな風が頬を撫で、心地よさに嫌気が差す。もじもじと両手の指が絡まった。
ドンドン。乱暴なノック音で、誰がやって来たか分かった。
返事をすると、いつも被せ気味に戸が開く。今回も同じだ。
「お前が暇していないか様子を見ろと、トレシュ様が。」
ブランドンは私と話す時、トレシュを相手にするよりも声がワントーン低い。分かりやすい奴。
トレシュは元々優しかったが、ここのところ前以上に気にかけてくれる。それがブランドンには面白くないのだろう。
しかし面倒に思いながらも適当に誤魔化して報告したりせず、こうして本当に様子を見に来るのだから、そこにこの男の生真面目さが表れていた。
そういう意味では、信頼できる。
「トレシュ様はどちらに?」
「テンティウス様に宴に招かれたのだ。」
バデュバールの城主。
「もう出発されたのですか?」
「なんだ?お前も連れて行ってもらえるとでも思ったか?」
そんなことは思っていない。未だに邸の敷地の外にすら出して貰えないのだから。
だがブランドンは、私にびしっと人差し指を突き付け、構わず続けた。
「自惚れるなよ、シノア。トレシュ様は今こそ恋愛ごっこを楽しんでいらっしゃるが、そもそもお前とは生きる場所が違うのだ。」
十二分に承知している。
「少しすれば帝都にお戻りになる。陛下もトレシュ様を待っておられるからな。その時、お前との関係も終了だ。今からでも1人立ちする準備をしておくことだ。」
そうか。トレシュは帝都へ戻るのか。
無意識に、指が乾いた唇に触れる。
ずっと一緒にいられるわけがない。むしろ姿を消そうとしていたのは私の方なのに、なぜこんなに動揺しているのだろう。
1枚の枯葉になったようだった。焦げ色に変色し、水分も無く、触れたらぱらぱらと崩れそうな程脆いのに、執念深く木にしがみ付いているような、そんな葉に。
こんな風に考えてはいけない。ブランドンの言う通り、もうここを出て行くべきだ。
体も大分動くようになった。体力は落ちたかもしれないが、また鍛えればいいだけだ。
ナイジェルたちの元に戻れば、こんな感情も消えていくだろう。すぐ元通りだ。
「お、おい、聞いているのか?まさかとは思うが、泣いたりはするなよ。俺は真実をだな…。」
黙り込んだ私に、ブランドンがたじたじとし、声量がどんどん下がって行く。
「置いて行かれたくせに。」
ぼそっと言うと、ブランドンの怯んでいた目はすぐに吊り上った。
「何?!」
お前も置いて行かれたから、今、ここに、いるのではないか。
ふいと顔を背けた。
「俺はお前の護衛を命じられたのだ!」
つまり、お留守番だ。
「護衛ということは、ずっとここにいるのですか?」
ブランドンは、私の一言一句にイラつくようだった。
「邪魔なら出ていく!」
「お願いします。」
これでもかというほど目尻を吊り上げ、拳を固く握ったブランドンは、ズカズカと部屋から出ていき、荒い鼻息を鳴らして、荒々しく戸を閉めた。
俺とて来たくて来たわけではないと、ぶつくさ言っているのも聞こえた。
私はベッドに腰掛け、ため息を吐いてから、そのまま後ろに背を倒した。
何も視界に入れたくなくて、目の上に手を乗せた。
頭が重い。いや、重いのは心だ。矛盾した欲望が体を重くしている。
ひと眠りしよう。
目が覚めたら手紙を書いて、ほんの少しの荷をまとめ、そうしたら、新月のように闇に紛れて消えるのだ。
「新月。」
ぽつりと溢して鼻で笑った。
月に例えるなんて、まるでトレシュの真似ではないか。
笑ったふりをして歯を食いしばった。体を横向きにして、顔を布団に埋める。
いろいろなことを考えた。
トレシュと出会った時のこと。再開した時のこと。ミリーナのことやブランドンのこと。そして、ナイジェルと出会い、セスと共に業を背負った時のこと。
トレシュへの想いは既に誤魔化しようがないほど膨らんでいる。けれど、ナイジェルのことを考えれば、おのずとその想いに背を向けることができた。
私はナイジェルを裏切ったりしない。絶対に。
トレシュと散歩をしたり、のんびり話したり。彼が私兵たちに混ざって体を鍛えているところを見ることすら楽しいと思えてしまう。
時々ブランドンと口論になるのは、少し煩わしいが。
トレシュがいない時はリハビリに励んだ。入浴やストレッチを念入りに行い、隠れて筋力トレーニングも始めた。だいぶ体が鈍っていたから。
時間を持て余すと、トレシュの本棚から本を借りた。どれも難しくてよく分からない。
彼と過ごしている時に質問すると、懇切丁寧な解説が聴講できた。本に載っていない豆知識を織り交ぜながら、分かるまで解説してくれる。
話自体は退屈だった。けれど、話している彼の姿に目を惹かれた。
本当に楽しそうに話すのだ。何をしている時よりも目が開き、活き活きとして見える。
トレシュは時々、恩師という人の話をしてくれた。
ヘライオスというその人は、兵士時代の上官で、剣よりも知を、とりわけ宙を好む人だったという話は前にも聞いていた。
そして自分の知を人に教える事が好きだったと、トレシュは困ったように笑いながら話したが、私が思うにトレシュも同類だ。師の影響ということもあるのだろう。よほどお世話になったようだから。
ベッドで本を読んでいると、不意に鳥の囀りが聞こえ、窓辺に駆け寄った。
すぐ側の木の枝に小鳥が止まっていたが、私の姿を見て晴れた空に飛び立って行った。
あれからセスにも会っていない。リリーとは無事に合流できたのだろうか。
セスが療養しろと伝えにきてから、既に20日は経っていた。何事も無ければ2人で孤児院に戻り、子供たちとのんびりしていることだろう。
会いたい。
そう思いつつも、ここを離れがたくなっている自分にも気がついていた。
涼やかな風が頬を撫で、心地よさに嫌気が差す。もじもじと両手の指が絡まった。
ドンドン。乱暴なノック音で、誰がやって来たか分かった。
返事をすると、いつも被せ気味に戸が開く。今回も同じだ。
「お前が暇していないか様子を見ろと、トレシュ様が。」
ブランドンは私と話す時、トレシュを相手にするよりも声がワントーン低い。分かりやすい奴。
トレシュは元々優しかったが、ここのところ前以上に気にかけてくれる。それがブランドンには面白くないのだろう。
しかし面倒に思いながらも適当に誤魔化して報告したりせず、こうして本当に様子を見に来るのだから、そこにこの男の生真面目さが表れていた。
そういう意味では、信頼できる。
「トレシュ様はどちらに?」
「テンティウス様に宴に招かれたのだ。」
バデュバールの城主。
「もう出発されたのですか?」
「なんだ?お前も連れて行ってもらえるとでも思ったか?」
そんなことは思っていない。未だに邸の敷地の外にすら出して貰えないのだから。
だがブランドンは、私にびしっと人差し指を突き付け、構わず続けた。
「自惚れるなよ、シノア。トレシュ様は今こそ恋愛ごっこを楽しんでいらっしゃるが、そもそもお前とは生きる場所が違うのだ。」
十二分に承知している。
「少しすれば帝都にお戻りになる。陛下もトレシュ様を待っておられるからな。その時、お前との関係も終了だ。今からでも1人立ちする準備をしておくことだ。」
そうか。トレシュは帝都へ戻るのか。
無意識に、指が乾いた唇に触れる。
ずっと一緒にいられるわけがない。むしろ姿を消そうとしていたのは私の方なのに、なぜこんなに動揺しているのだろう。
1枚の枯葉になったようだった。焦げ色に変色し、水分も無く、触れたらぱらぱらと崩れそうな程脆いのに、執念深く木にしがみ付いているような、そんな葉に。
こんな風に考えてはいけない。ブランドンの言う通り、もうここを出て行くべきだ。
体も大分動くようになった。体力は落ちたかもしれないが、また鍛えればいいだけだ。
ナイジェルたちの元に戻れば、こんな感情も消えていくだろう。すぐ元通りだ。
「お、おい、聞いているのか?まさかとは思うが、泣いたりはするなよ。俺は真実をだな…。」
黙り込んだ私に、ブランドンがたじたじとし、声量がどんどん下がって行く。
「置いて行かれたくせに。」
ぼそっと言うと、ブランドンの怯んでいた目はすぐに吊り上った。
「何?!」
お前も置いて行かれたから、今、ここに、いるのではないか。
ふいと顔を背けた。
「俺はお前の護衛を命じられたのだ!」
つまり、お留守番だ。
「護衛ということは、ずっとここにいるのですか?」
ブランドンは、私の一言一句にイラつくようだった。
「邪魔なら出ていく!」
「お願いします。」
これでもかというほど目尻を吊り上げ、拳を固く握ったブランドンは、ズカズカと部屋から出ていき、荒い鼻息を鳴らして、荒々しく戸を閉めた。
俺とて来たくて来たわけではないと、ぶつくさ言っているのも聞こえた。
私はベッドに腰掛け、ため息を吐いてから、そのまま後ろに背を倒した。
何も視界に入れたくなくて、目の上に手を乗せた。
頭が重い。いや、重いのは心だ。矛盾した欲望が体を重くしている。
ひと眠りしよう。
目が覚めたら手紙を書いて、ほんの少しの荷をまとめ、そうしたら、新月のように闇に紛れて消えるのだ。
「新月。」
ぽつりと溢して鼻で笑った。
月に例えるなんて、まるでトレシュの真似ではないか。
笑ったふりをして歯を食いしばった。体を横向きにして、顔を布団に埋める。
いろいろなことを考えた。
トレシュと出会った時のこと。再開した時のこと。ミリーナのことやブランドンのこと。そして、ナイジェルと出会い、セスと共に業を背負った時のこと。
トレシュへの想いは既に誤魔化しようがないほど膨らんでいる。けれど、ナイジェルのことを考えれば、おのずとその想いに背を向けることができた。
私はナイジェルを裏切ったりしない。絶対に。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる