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第2部
20.
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雨が降っていた。
ぽつぽつと降ってくる雨粒がアトリウムにある水槽の水面に波紋を作り、溜まった水に溶け込んでいく。
その様を延々と眺めていた。
こんな展開を望んでいたわけではない。守りきるはずだった。暗闇で仄かに煌めく月のような彼女を。
シノアの腕から溢れ出る血が地面を赤く染め上げる。そこに転がった、主人から離れた白い腕。
同じ光景が、脳内で何度も繰り返される。
傷口を抑えた手の感覚がいつまでも消えない。
耐え切れず、右手で頭を抱え、乱れた前髪を握り潰した。
うっかり、師匠を恨みそうになる思考に、必死で反駁しなければならなかった。
「1度、退いてみてもいいかもね。」
帝都にある師匠ヘライオス様の邸でそう言われた時、私は敗北感に押し潰され、酷く落胆した。
食堂で丸テーブルを囲いながらも、私も先生も寝そべるようなことはせず、背を丸めて座った。
とてもじゃないが、料理に手を付けるような気分ではなかった。
いくら皇帝陛下の信頼を得ていようと私は成り上がりの新興貴族であり、更には国民の身分差を縮めようとする改革派ということもあって、当然保守派の貴族からの風当たりは強く、執政官とはいえ、決して堅固な立場ではなかった。
隙を見せれば噛み付かれる。そういう状況の中で、連続して保守派の高官が殺されたのは痛手だった。
犯人は分からない。目的も見当がつかない。しかし、改革派筆頭である私が矢面に立たされるのは必至。
それ故に、私の後ろ盾である師匠のそのひと言は、とてつもなく重かった。
「師匠は、保守派ばかりが殺されているのを偶然とお思いですか?」
師匠は茶色い羊毛のようにも見える、伸ばしっぱなしの顎髭を撫でた。
「なんとも言えんね。お前は罠だと?」
そう考えると分かりやすい。
保守派ばかりが狙われているのは改革派の仕業だからだ。改革派筆頭の私に責任を負わせるべきだ。むしろ私が主犯の可能性もある。
そんな風に私の評判に傷を付ければ、簡単に引きずり下ろすことができるのだから。
現に、師匠まで退くべきだと言っている。
けれどそれではこじ付けだ。確たる証拠も無く、私を貶める為の保守派の罠だと言ってしまえば、それは保守派の連中がやっていることと同じになる。
つまり、私に罪を擦り付けられても、現状、言い返す術がないのだ。
「分かりません。可能性はあると思いますが。」
だからこそ、自ら退くのは敗北したようで嫌だった。
成そうとしていた政策はまだ夢半ば。放り出すわけにはいかない。
「もちろん可能性はあるだろうな。だがそれは、別の可能性も然りだ。」
ふと師匠と目を合わせた。師匠は別の可能性を追っているのだ。
「被害者について調べてみたんだ。どんな事をしていたのか、どういった人と会っていたのか、日頃の行いや言動、人物像なんかについてね。」
「何か分かったのですか?」
「共通点があることにはあった。それが事件に結びつくかは分からんがね。」
「教えてください。」
「乱暴者が多かったようだ。」
「乱暴者、ですか。」
「特に奴隷に対してね。」
はっとした。
「それでは、報復ですか?」
「もしくは義賊か。」
確かにそれならば保守派の罠ではなくなる。それどころか派閥同士を争わせ、国を疲弊させようとしているテロの可能性すらある。
「もし本当にそういう理由で事件を起こしているのだとしたら、保守派よりも先にお前が見つけた方が良いと思わんか?保守派ばかりなのが偶然で、実は無差別という線も消えてはおらんがね。そもそもの比率で言えば、保守派の方が多いわけだから。」
師匠の言う通りなら、もし犯人が話の通じる者たちであれば、上手くいけば協力関係を結べるかもしれない。
仮に協力を拒まれ、犯行も止めないということであれば、そのまま捕えてしまえばいい。そうすれば改革派の疑いも晴れ、手柄を立てることで民衆の指示も得つつ、改革派に寝返る者も期待できる。
都合の良過ぎる解釈だ。
しかし、何もかも上手く行くわけではないにしろ、少なくとも私が捜査することによる損害は生じない。
強いて言えば、時間を要するという点だろうか。
「師匠の仰る、”退く”というのは、捜査を申し出、私の考案する政策を一旦止めるということですか?」
「どうするのかはお前の好きにしたらいいが、まぁ、お前が別のことをやり始めたら、保守派の連中も少しは静かになるだろうね。」
「…そう、ですね。」
私はようやく杯に手を伸ばし、ワインを口に流しこんだ。
もし正義を謳っての行動ならば、帝国人ではない可能性が高い。そして国の在り方、とりわけ人種間の問題に不満を抱いている。
俄然、興味が湧いてきた。
やり方は間違っているが、私と同じことを望む者がいるのかもしれない。しかも、強大な帝国相手に楯突く勇気のある者が。
私は師匠から調査資料を頂戴し、自分の邸に帰るなり一目散に目を通した。
殺された人、場所、順番、全て地図に書き起こし、殺され方や遺体発見時の様子と組み合わせたが、分かることは少なかった。
場所は上手くばらけている。帝都でも被害者は出たが、犯人の行動範囲の広さから帝都が本拠地とも思えない。
殺し方は淡白で無駄が無い。戦場で見るような殺し方でもなければ、怨恨のような傷の多さも見られない。
ただ、判明している中で異質だったのが、1番目の被害者とされる官僚だった。
この被害者だけは殺し方が雑だ。発見も早かった。なぜなら見つかった時にはまだ生きていたから。官僚は保護され、治療の末に亡くなった。襲われた時間帯も明るい時間。
他と違って計画性を感じない。ということはつまり、この1件だけ、衝動的だった可能性があるのだ。
この事件が起こったのは3年前。カサム州のとある街。ヒントはカサムにある。
そう考えるといてもたってもいられなくなった。
早急に陛下に申し立て、やや強引にではあったが、カサムに向かう準備を整えた。
この地でシノアと再会したことには運命を感じた。彼女を救い上げることが私の天命なのだと。
傲慢だった。
ひたすら雨の音だけが反響する中、無遠慮に鳴る猛々しい足音が近づいてくる。
顔を見なくても誰だか分かる。ブランドン。彼しかいない。
抱えていた頭から手を離し、左肩のトガを留めている梟をそっと外した。
「トレシュ様、こちらでしたか。」
「シノアの容体は。」
「なんとも言えないようです。意識もありません。」
そうだろうな、と俯いた。あの出血量では、命を落としてもおかしくない。
ブランドンを責めることはできない。彼は職務を全うしただけだ。
そう理解はしているが、まだ顔を見ることはできなかった。
「医師の処置が終わったので、部屋に入ってもいいそうです。」
「分かった。」
私は杖を持つ手に力を込め、一歩一歩、アトリウムを出た。
ぽつぽつと降ってくる雨粒がアトリウムにある水槽の水面に波紋を作り、溜まった水に溶け込んでいく。
その様を延々と眺めていた。
こんな展開を望んでいたわけではない。守りきるはずだった。暗闇で仄かに煌めく月のような彼女を。
シノアの腕から溢れ出る血が地面を赤く染め上げる。そこに転がった、主人から離れた白い腕。
同じ光景が、脳内で何度も繰り返される。
傷口を抑えた手の感覚がいつまでも消えない。
耐え切れず、右手で頭を抱え、乱れた前髪を握り潰した。
うっかり、師匠を恨みそうになる思考に、必死で反駁しなければならなかった。
「1度、退いてみてもいいかもね。」
帝都にある師匠ヘライオス様の邸でそう言われた時、私は敗北感に押し潰され、酷く落胆した。
食堂で丸テーブルを囲いながらも、私も先生も寝そべるようなことはせず、背を丸めて座った。
とてもじゃないが、料理に手を付けるような気分ではなかった。
いくら皇帝陛下の信頼を得ていようと私は成り上がりの新興貴族であり、更には国民の身分差を縮めようとする改革派ということもあって、当然保守派の貴族からの風当たりは強く、執政官とはいえ、決して堅固な立場ではなかった。
隙を見せれば噛み付かれる。そういう状況の中で、連続して保守派の高官が殺されたのは痛手だった。
犯人は分からない。目的も見当がつかない。しかし、改革派筆頭である私が矢面に立たされるのは必至。
それ故に、私の後ろ盾である師匠のそのひと言は、とてつもなく重かった。
「師匠は、保守派ばかりが殺されているのを偶然とお思いですか?」
師匠は茶色い羊毛のようにも見える、伸ばしっぱなしの顎髭を撫でた。
「なんとも言えんね。お前は罠だと?」
そう考えると分かりやすい。
保守派ばかりが狙われているのは改革派の仕業だからだ。改革派筆頭の私に責任を負わせるべきだ。むしろ私が主犯の可能性もある。
そんな風に私の評判に傷を付ければ、簡単に引きずり下ろすことができるのだから。
現に、師匠まで退くべきだと言っている。
けれどそれではこじ付けだ。確たる証拠も無く、私を貶める為の保守派の罠だと言ってしまえば、それは保守派の連中がやっていることと同じになる。
つまり、私に罪を擦り付けられても、現状、言い返す術がないのだ。
「分かりません。可能性はあると思いますが。」
だからこそ、自ら退くのは敗北したようで嫌だった。
成そうとしていた政策はまだ夢半ば。放り出すわけにはいかない。
「もちろん可能性はあるだろうな。だがそれは、別の可能性も然りだ。」
ふと師匠と目を合わせた。師匠は別の可能性を追っているのだ。
「被害者について調べてみたんだ。どんな事をしていたのか、どういった人と会っていたのか、日頃の行いや言動、人物像なんかについてね。」
「何か分かったのですか?」
「共通点があることにはあった。それが事件に結びつくかは分からんがね。」
「教えてください。」
「乱暴者が多かったようだ。」
「乱暴者、ですか。」
「特に奴隷に対してね。」
はっとした。
「それでは、報復ですか?」
「もしくは義賊か。」
確かにそれならば保守派の罠ではなくなる。それどころか派閥同士を争わせ、国を疲弊させようとしているテロの可能性すらある。
「もし本当にそういう理由で事件を起こしているのだとしたら、保守派よりも先にお前が見つけた方が良いと思わんか?保守派ばかりなのが偶然で、実は無差別という線も消えてはおらんがね。そもそもの比率で言えば、保守派の方が多いわけだから。」
師匠の言う通りなら、もし犯人が話の通じる者たちであれば、上手くいけば協力関係を結べるかもしれない。
仮に協力を拒まれ、犯行も止めないということであれば、そのまま捕えてしまえばいい。そうすれば改革派の疑いも晴れ、手柄を立てることで民衆の指示も得つつ、改革派に寝返る者も期待できる。
都合の良過ぎる解釈だ。
しかし、何もかも上手く行くわけではないにしろ、少なくとも私が捜査することによる損害は生じない。
強いて言えば、時間を要するという点だろうか。
「師匠の仰る、”退く”というのは、捜査を申し出、私の考案する政策を一旦止めるということですか?」
「どうするのかはお前の好きにしたらいいが、まぁ、お前が別のことをやり始めたら、保守派の連中も少しは静かになるだろうね。」
「…そう、ですね。」
私はようやく杯に手を伸ばし、ワインを口に流しこんだ。
もし正義を謳っての行動ならば、帝国人ではない可能性が高い。そして国の在り方、とりわけ人種間の問題に不満を抱いている。
俄然、興味が湧いてきた。
やり方は間違っているが、私と同じことを望む者がいるのかもしれない。しかも、強大な帝国相手に楯突く勇気のある者が。
私は師匠から調査資料を頂戴し、自分の邸に帰るなり一目散に目を通した。
殺された人、場所、順番、全て地図に書き起こし、殺され方や遺体発見時の様子と組み合わせたが、分かることは少なかった。
場所は上手くばらけている。帝都でも被害者は出たが、犯人の行動範囲の広さから帝都が本拠地とも思えない。
殺し方は淡白で無駄が無い。戦場で見るような殺し方でもなければ、怨恨のような傷の多さも見られない。
ただ、判明している中で異質だったのが、1番目の被害者とされる官僚だった。
この被害者だけは殺し方が雑だ。発見も早かった。なぜなら見つかった時にはまだ生きていたから。官僚は保護され、治療の末に亡くなった。襲われた時間帯も明るい時間。
他と違って計画性を感じない。ということはつまり、この1件だけ、衝動的だった可能性があるのだ。
この事件が起こったのは3年前。カサム州のとある街。ヒントはカサムにある。
そう考えるといてもたってもいられなくなった。
早急に陛下に申し立て、やや強引にではあったが、カサムに向かう準備を整えた。
この地でシノアと再会したことには運命を感じた。彼女を救い上げることが私の天命なのだと。
傲慢だった。
ひたすら雨の音だけが反響する中、無遠慮に鳴る猛々しい足音が近づいてくる。
顔を見なくても誰だか分かる。ブランドン。彼しかいない。
抱えていた頭から手を離し、左肩のトガを留めている梟をそっと外した。
「トレシュ様、こちらでしたか。」
「シノアの容体は。」
「なんとも言えないようです。意識もありません。」
そうだろうな、と俯いた。あの出血量では、命を落としてもおかしくない。
ブランドンを責めることはできない。彼は職務を全うしただけだ。
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