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第2部
31.
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大雨だ。
シノア達が出立した日は確かによく晴れていたのに、昨日から激しく叩きつけるような雨が降り続けている。
雨粒は大きく、地面や建物を殴りつけるような音に、不安を掻き立てられる。
シノア達は大丈夫だろうか。山は越えられただろうか。もしかしたら山中で身動き取れない状況なのではないか。雨に濡れて風邪を引いたりしていないだろうか。荷がダメにはなってはいないだろうか。
次から次へと嫌な考えが胸中で渦巻く。
突然の来客があったのは、そのさらに翌日のことだった。
雨は少し弱まっているものの、依然として振り続けている。
寝室で大人しく本を開いていると、機敏なノック音と共にガザリが入ってきた。
「トレシュ様、テンティウス様より急使が。」
確信に近い予感があった。この大雨で、テンティウス殿からの急使ともなると、何か大変なことが起こったに違いない。水害の可能性が高い。
急ぎ、主室へ向かう。
急使は池にでも落ちたかのように全身ずぶ濡れで、羽織ったマントから水を滴らせていた。私の姿を確認するなり、切羽の詰まった表情を浮かべながらも、丁寧に頭を下げた。
「トレシュ様、急な来訪で申し訳ございません。どうかこちらをお目通しください。」
そう言って渡されたのは、テンティウス殿からの書簡だった。端的に言えば協力要請だ。
「ペーリエ河が氾濫を?」
「はい。近隣の村が少なくとも3か所被害を受け、その内の1か所は丸々呑み込まれてしまいました。」
バデュバールにこそ被害はないが、ペーリエ河とは近くの山から南に下り、半島にある港町まで続いている河だった。
つまり、シノアとセスが行く道のりにある河なのだ。
しかもその道中の村が、3か所も被害を受けたという。
背筋が凍りついた。
「テンティウス様が警備隊を引き連れ、最北の村に対策本部を設置し、仮設の避難所を用意しました。できれば人手と、それから食糧や必要物資の援助をして頂きたいとのことです。」
「勿論だ。すぐに準備しよう。テンティウス殿は自ら現地へ出向いておられるのか?」
「はい。主要都市である港町と迅速な連携をとる為、現地にて直接指揮をとられております。」
「分かった。では私も現地へ出向こう。」
「地図はございますか?」
ガザリへ視線を向けると、ガザリはすぐに地図を広げた。
急使がバデュバールのすぐ下に書かれた山々に人差し指を置き、「この山中を通る最短道路は大きく崩れており、通れません。」と言うと、彼の人差し指はバデュバールから山々を避けながら「村へはこちらの遠回りのルートを行かねばなりません。」と南下した。
「崩れている、と言うと…。」
「土砂崩れです。またいつ起こるか分かりませんので、山へは絶対に入ってはいけません。」
不安で気道が狭くなり、声を出すことができずに、返事をする代わりに小さく何度か頷いた。
急使には、準備をする間、体を休めるようにと部屋を用意し、ガザリの班に穀物倉庫を開けさせ、準備を任せた。
「あいつらは大丈夫でしょうか…。」
ぽつりと溢すブランドンに、私は言葉を返す余裕もなかった。
もし出発したままの、あのゆったりとした速度でいたのなら、まだ山を抜けていないだろう。途中で馬に乗り、速度を上げたのなら山を抜けたかもしれないが、そうすると洪水の被害域にいることになる。そこで助かったのなら、避難所にいるはずだ。それとも雨でも構わず歩みを進め、私が考えているよりもずっと先にいるのだろうか。
不安で手に力が入らない。自分の目で確かめなければ。
協力要請に早急に対応する為、了承の返事を出す代わりに、すぐ翌日に、あるだけの応急物資を荷馬車へ詰め込み、ブランドンの班と共に第一便として出発した。
後日、ガザリの班が第二便として必要物資を届ける手筈だ。
運良く雨が止んでくれたので、第一陣の進みは順調だった。
とはいえ遠回りをしなければならなかった為、少しでも早く届けようと小休憩以外は止まらずに、丸1日かけて目的地の村へと到着した。
そしてその頃には再び雨が降り出していた。
現地は想像以上に悲惨だった。
村は半壊状態にあり、そこから少し離れた位置に対策本部と避難所のテントが設置されていた。
避難所へはその村の住人ばかりではなく、他の被害を受けた村人たちも収容されていた為に人が密集しており、皆ぼろぼろの格好をしていた。
そうなってくると、今度は疫病の危険性が増してくる。
先にテンティウス殿に会おうと対策本部のテントへ入ると、テンティウス殿もまた酷く憔悴している様子だった。
「おお、トレシュ殿、来ていただけましたか。」
隈を作ったテンティウス殿と固く握手を結ぶ。
「まず至急用意できた応急物資を持ってきました。後日、より多量な物資が届きます。」
「助かります。特に食糧や医療品が追いつかず、困っていました。」
「微力ながら、ご助力致します。」
テンティウス殿は力無く微笑み、頷いた。
「酷い状況ですが、ちゃんと休めていますか?テンティウス殿が体を壊しては状況が悪化します。」
テンティウス殿は表情に影を落とし、椅子に座りこんだ。実は、と声を低くする。
「娘がこちらに向かっていたのです。」
「確か、帝都から1年ぶりに帰って来ると…。」
「はい。…その娘が途中、港町に寄り、そこからバデュバールへ向かっていたところだったのです…。」
そう言って頭を抱えるテンティウス殿は、最悪の状況を考えているようで、よどんだ表情を浮かべていた。
「港町との連絡は取れているのですか?」
「道路が浸水してしまっており、迂回路を行かせています。」
「では、まだ港町を出ていないやもしれません。」
「…いいえ。」
テンティウス殿はゆっくりと、首を横に振った。
「馬車が…見つかったのです。横転した…うちの家門が入った馬車が…。」
「…ご遺体を確認されたのですか?」
そう訊くと、テンティウス殿の目から涙が流れた。「いいえ。」と答えた声は震えていた。
「馬と、護衛のものは少し離れた場所で見つかりましたが、…娘と侍女は…。」
そこで嗚咽が漏れ、言葉を続けられなくなった。
遺体が見つかっていないのならまだ望みはある。が、ほとんど絶望的な状況で、不用意に希望を持たせるようなことは口にできなかった。同情すると同時に、自分にも同じ絶望が忍び寄ってきている気配を感じる。
テンティウス殿の肩に手を添える。
「物資はこちらで管理してもよろしいですか?」
「…はい。よろしくお願い致します。」
「テンティウス殿、少し休まれた方が良い。」
添えた手で肩を2回軽く叩き、そっとその場を後にした。
外へ出てブランドンと合流する。
「避難所を確認して来ました。数は700人弱程度。今の所、伝染病患者は出ておりませんが、食糧の配給に偏りがあり、不満が溜まっているようです。」
「偏り?」
「赤子の母と子供、年配者が優先で、元気な若者たちが食事にありつけていないようです。」
「持ってきた分で少しは賄えると思うから、炊事担当に話を通しておいて。」
「はい。」
「あの2人は?」
ブランドンは口を噤み、首を横に振った。
「…そうか。」
2人は村に到着していなかった。
胸の真ん中が寒くなり、右手で押さえると、鼓動が大きく鳴る。
嫌な予感を追い出すように深呼吸をした。
大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。
あの2人は死線を何度も越えてきた。きっと大丈夫だ。上手く危機を躱したはずだ。
一難去ってまた一難。その場にうずくまりたくなる衝動をどうにか抑え、杖で踏ん張った。
どうか無事でいてくれ。心からそう願った。
シノア達が出立した日は確かによく晴れていたのに、昨日から激しく叩きつけるような雨が降り続けている。
雨粒は大きく、地面や建物を殴りつけるような音に、不安を掻き立てられる。
シノア達は大丈夫だろうか。山は越えられただろうか。もしかしたら山中で身動き取れない状況なのではないか。雨に濡れて風邪を引いたりしていないだろうか。荷がダメにはなってはいないだろうか。
次から次へと嫌な考えが胸中で渦巻く。
突然の来客があったのは、そのさらに翌日のことだった。
雨は少し弱まっているものの、依然として振り続けている。
寝室で大人しく本を開いていると、機敏なノック音と共にガザリが入ってきた。
「トレシュ様、テンティウス様より急使が。」
確信に近い予感があった。この大雨で、テンティウス殿からの急使ともなると、何か大変なことが起こったに違いない。水害の可能性が高い。
急ぎ、主室へ向かう。
急使は池にでも落ちたかのように全身ずぶ濡れで、羽織ったマントから水を滴らせていた。私の姿を確認するなり、切羽の詰まった表情を浮かべながらも、丁寧に頭を下げた。
「トレシュ様、急な来訪で申し訳ございません。どうかこちらをお目通しください。」
そう言って渡されたのは、テンティウス殿からの書簡だった。端的に言えば協力要請だ。
「ペーリエ河が氾濫を?」
「はい。近隣の村が少なくとも3か所被害を受け、その内の1か所は丸々呑み込まれてしまいました。」
バデュバールにこそ被害はないが、ペーリエ河とは近くの山から南に下り、半島にある港町まで続いている河だった。
つまり、シノアとセスが行く道のりにある河なのだ。
しかもその道中の村が、3か所も被害を受けたという。
背筋が凍りついた。
「テンティウス様が警備隊を引き連れ、最北の村に対策本部を設置し、仮設の避難所を用意しました。できれば人手と、それから食糧や必要物資の援助をして頂きたいとのことです。」
「勿論だ。すぐに準備しよう。テンティウス殿は自ら現地へ出向いておられるのか?」
「はい。主要都市である港町と迅速な連携をとる為、現地にて直接指揮をとられております。」
「分かった。では私も現地へ出向こう。」
「地図はございますか?」
ガザリへ視線を向けると、ガザリはすぐに地図を広げた。
急使がバデュバールのすぐ下に書かれた山々に人差し指を置き、「この山中を通る最短道路は大きく崩れており、通れません。」と言うと、彼の人差し指はバデュバールから山々を避けながら「村へはこちらの遠回りのルートを行かねばなりません。」と南下した。
「崩れている、と言うと…。」
「土砂崩れです。またいつ起こるか分かりませんので、山へは絶対に入ってはいけません。」
不安で気道が狭くなり、声を出すことができずに、返事をする代わりに小さく何度か頷いた。
急使には、準備をする間、体を休めるようにと部屋を用意し、ガザリの班に穀物倉庫を開けさせ、準備を任せた。
「あいつらは大丈夫でしょうか…。」
ぽつりと溢すブランドンに、私は言葉を返す余裕もなかった。
もし出発したままの、あのゆったりとした速度でいたのなら、まだ山を抜けていないだろう。途中で馬に乗り、速度を上げたのなら山を抜けたかもしれないが、そうすると洪水の被害域にいることになる。そこで助かったのなら、避難所にいるはずだ。それとも雨でも構わず歩みを進め、私が考えているよりもずっと先にいるのだろうか。
不安で手に力が入らない。自分の目で確かめなければ。
協力要請に早急に対応する為、了承の返事を出す代わりに、すぐ翌日に、あるだけの応急物資を荷馬車へ詰め込み、ブランドンの班と共に第一便として出発した。
後日、ガザリの班が第二便として必要物資を届ける手筈だ。
運良く雨が止んでくれたので、第一陣の進みは順調だった。
とはいえ遠回りをしなければならなかった為、少しでも早く届けようと小休憩以外は止まらずに、丸1日かけて目的地の村へと到着した。
そしてその頃には再び雨が降り出していた。
現地は想像以上に悲惨だった。
村は半壊状態にあり、そこから少し離れた位置に対策本部と避難所のテントが設置されていた。
避難所へはその村の住人ばかりではなく、他の被害を受けた村人たちも収容されていた為に人が密集しており、皆ぼろぼろの格好をしていた。
そうなってくると、今度は疫病の危険性が増してくる。
先にテンティウス殿に会おうと対策本部のテントへ入ると、テンティウス殿もまた酷く憔悴している様子だった。
「おお、トレシュ殿、来ていただけましたか。」
隈を作ったテンティウス殿と固く握手を結ぶ。
「まず至急用意できた応急物資を持ってきました。後日、より多量な物資が届きます。」
「助かります。特に食糧や医療品が追いつかず、困っていました。」
「微力ながら、ご助力致します。」
テンティウス殿は力無く微笑み、頷いた。
「酷い状況ですが、ちゃんと休めていますか?テンティウス殿が体を壊しては状況が悪化します。」
テンティウス殿は表情に影を落とし、椅子に座りこんだ。実は、と声を低くする。
「娘がこちらに向かっていたのです。」
「確か、帝都から1年ぶりに帰って来ると…。」
「はい。…その娘が途中、港町に寄り、そこからバデュバールへ向かっていたところだったのです…。」
そう言って頭を抱えるテンティウス殿は、最悪の状況を考えているようで、よどんだ表情を浮かべていた。
「港町との連絡は取れているのですか?」
「道路が浸水してしまっており、迂回路を行かせています。」
「では、まだ港町を出ていないやもしれません。」
「…いいえ。」
テンティウス殿はゆっくりと、首を横に振った。
「馬車が…見つかったのです。横転した…うちの家門が入った馬車が…。」
「…ご遺体を確認されたのですか?」
そう訊くと、テンティウス殿の目から涙が流れた。「いいえ。」と答えた声は震えていた。
「馬と、護衛のものは少し離れた場所で見つかりましたが、…娘と侍女は…。」
そこで嗚咽が漏れ、言葉を続けられなくなった。
遺体が見つかっていないのならまだ望みはある。が、ほとんど絶望的な状況で、不用意に希望を持たせるようなことは口にできなかった。同情すると同時に、自分にも同じ絶望が忍び寄ってきている気配を感じる。
テンティウス殿の肩に手を添える。
「物資はこちらで管理してもよろしいですか?」
「…はい。よろしくお願い致します。」
「テンティウス殿、少し休まれた方が良い。」
添えた手で肩を2回軽く叩き、そっとその場を後にした。
外へ出てブランドンと合流する。
「避難所を確認して来ました。数は700人弱程度。今の所、伝染病患者は出ておりませんが、食糧の配給に偏りがあり、不満が溜まっているようです。」
「偏り?」
「赤子の母と子供、年配者が優先で、元気な若者たちが食事にありつけていないようです。」
「持ってきた分で少しは賄えると思うから、炊事担当に話を通しておいて。」
「はい。」
「あの2人は?」
ブランドンは口を噤み、首を横に振った。
「…そうか。」
2人は村に到着していなかった。
胸の真ん中が寒くなり、右手で押さえると、鼓動が大きく鳴る。
嫌な予感を追い出すように深呼吸をした。
大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。
あの2人は死線を何度も越えてきた。きっと大丈夫だ。上手く危機を躱したはずだ。
一難去ってまた一難。その場にうずくまりたくなる衝動をどうにか抑え、杖で踏ん張った。
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