夕月の欠片

daru

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第2部

34.

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 頭痛が酷く、右膝に右ひじを立て、その手で頭を支える。

「トレシュ様、水です。」

 ブランドンが渡してきた杯を左手で受け取り、ひと口喉へ流し込むと、「うっ。」と呻き、再び頭を抱えた。

「大丈夫ですか?」

 私の前で膝を付き、心配そうな声を出すブランドンに答えることもままならない。

「このままお休みになったのですか?」

 このまま、というのは、座ったまま、つまり足をベッドから下ろしたまま、上半身だけ横になって寝ていた姿勢のことなのか。それとも、床に落ちているワイン杯とその中身の話だろうか。

「足に痛みはありませんか?」

 どうやら姿勢のことらしい。

「…大丈夫だよ。それより、床を汚してしまったな。」

「そんなことは気にせず、今日はお休みになっていてください。」

 こんな時間に起こしておいて。

「申し訳ありません、こんなお時間に。俺だけ出たかったので、ご助言を頂きたく。」

 ガザリの帰りを待ち、帰り支度をするだけなのに、何をしようというのか。

「どこへ。」

 酒焼けした低い声でそう訊くと、ブランドンはベッドの上に地図を広げた。

「どこが良いでしょうか。」

「うん?」

「あの2人が生きていたと仮定した場合、見つかりそうな場所はどこだと思いますか?」

 すぐに言葉が出てこなかった。そもそも私の中で、生きていると仮定することが難しくなっている。

「あの2人は森育ちなのですよね?ケットの森はなかなか険しい山だったと記憶しています。その中に村があり、そこで育ったというのなら、森や山の知識も豊富に持っているのではないでしょうか。」

 なるほど。ようやくブランドンの言わんとしていることが伝わった。

「山の様子を見て、前もって危険を察知した、か。」

「はい。危険を予測して、どこか道から外れた場所に避難したのでは、と。」

「確かに、河の氾濫はともかく、土砂災害には前兆があると聞いたことがある。」

 困った。根拠の無い期待で、胸が高鳴り始めている。

「その前兆に気づき、港町とは別の方面に避難していたとしたら…。」

「その場合、どの辺にいるでしょうか。」

 すぐに思いつくはずがなかった。というのも、どの位置でその前兆に気がついたのか、というのも分からないし、そもそも私がこの山自体を熟知していない。土地勘が無い。

「馬が怯えて逃げてきたことを考えると、実際に近くで何かが起こったことは間違いない。」

「2人は土砂が崩れている場所にいたということですね。」

「加えて、危険を察知していたと仮定するのなら、察知していたにも関わらず馬に乗って先を急がなかった、もしくは馬が2人を落として2人が怪我をしたという可能性が考えられる。」

「どちらにせよあまり遠くへはいない?」

「それでもすぐに見つからないということは、動けない状況なのかもしれない。」

「怪我が濃厚ですか…。」

「動けないほどの怪我をしているのなら、洞穴かどこかで休んでいるかもしれない…が。」

 あくまでも生きていればの話だ。

「分かりました。土地勘のある者に洞穴やそういう休めそうなところはないか訊いて、その周辺と、土砂崩れが起きている場所周辺を重点的に探してきます。」

「山に…入るのか?」

「さすがに土砂災害もそろそろ落ち着いているでしょうし、ガザリは港町を探しに行ったのですよね?ならばあいつが戻るまで、私は近場を探します。」

 ブランドンは、私がシノアに想いを寄せることを良く思っていなかったはずなのに。
 心強い声に、再び目頭が熱くなった。

「早い時間に申し訳ありませんでした。ゆっくりお休みください。」

 さも当然かのように平然と地図を畳み、部屋を出ようとするブランドンを呼び止めた。

「ブランドン、ありがとう。」

「…俺はトレシュ様の右腕だと自負しているのです。こんな時こそ使ってください。」

 困ったような笑顔を浮かべて頭を下げるブランドン。その背を最期まで見送った。

 高揚が止まず眠気などどこかへ飛んでしまったが、酷い頭痛だけは根強く残り、言われた通りベッドに横になって休むことにした。

 脳を揺さぶられているような痛みに、額に手を当てて固く目を瞑る。
 ブランドンはシノアたちを見つけられるだろうか。ガザリはどうだっただろう。頭の中で何度も同じ考えが巡る。
 頭痛は、一縷の望みにしがみ付こうとする私と、最悪に備えようとする私が、互いに怒鳴り合っているかのように感じた。

 不意に額に温かい手が乗せられた。
 ふと目を開くと、金髪の碧い瞳の少女が私を見下ろしている。

「あ、起きた。」

「シノア…?」

 私の額から手を離し、後ろを向く彼女に手を伸ばそうとするが、身体が全く動かない。

 でこぼこの壁に囲まれたそこは薄暗く、身体の下には土の感触がある。陽の入る穴の向こう側には木々が見えるが、ところどころ焼け焦げ、青々とした生命力は見られない。

 シノアはその小さな体で、試行錯誤しながら私の左脚の包帯を換えているようだった。
 不思議と痛みは感じない。

「助けてくれたの?」

「殺すわけにはいかないし。」

「ありがとう。」

「別にお礼を言わなくても。死んでたら金目の物を貰っていたし。」

 非情な事を淡々と話すので、呆気にとられ、笑みがこぼれた。

「それは…ごめんね、と言うべきかな?」

 シノアは子供らしい可愛い声で、「変な人。」と声高らかに笑った。

「お腹空いてる?」

「どうだろう。空いている、かも。」

「何も持って来て無いけど。」

「期待しちゃったよ。」

「起きると思わなかったから。明日は何か持ってきてあげる。」

 一瞬、肝が冷えた。
 この土地はカサム小国であり、私は敵国の兵士なのだ。この子は純粋に助けてくれたのかもしれないが、大人たちに見つかれば、死は免れないだろう。
 この子が他の人に私の存在を話した時点で、私の命は尽きることになる。

 この子と話すのは楽しいが、お互いの為には突き放した方が良い。

「無理しなくていいよ。」

「そんなこと言われても、ここで私が見放して死なれたら、すごい後味悪い。」

「私は帝国軍の兵だ。君が私を助けたことを他の誰かに知られたら、君も良く思われないよ。」

 シノアはガラス玉のような目を丸くしてから、得意気に歯を見せた。

「バレずにやるから平気。」

 そうだ、とシノアは唐突に立ち上がり、颯爽と洞穴を出て行った。
 思いついたら即行動。子供らしく落ち着きのない少女を微笑ましく思った。

 シノアは服の裾を掴みながら戻って来ると、私の腹の上で裾を手放し、私の腹の上にぱらぱらと細かい物が散らかった。
 ひと目でそれが食べられそうな木の実であることが分かった。

 シノアは赤い実を自分の口に運び、「うん、旨い。」と漏らすと、次に私の口元に運んでくれた。素直に口を開き、その実を受け入れ、噛むと、たちまち口内に甘酸っぱい味と爽やかな香りが広がった。

「ん、いける。」

 率直な感想を伝えると、シノアは可笑しそうに肩を揺らした。

「帝国軍って、ろくなもん食べてないんだね。」

「君も旨いと言っただろう。」

「子供舌。」

 私に人差し指を向けて、ケタケタと可愛らしい声で笑う少女を見ていると、不思議な気持ちになった。

 子供の声など久しく聞いていなかった。
 戦場ばかり駆け巡っていた私の耳に入るのは、猛々しい雄叫びや、剣のぶつかる金属音。矢が飛び交う音に、火が大地を呑み込んで行く音。そればかりだ。

 そんな私に、泰平の象徴かのようなその光景は、乾いた大地に雨が染み込むように心に安らぎをもたらした。

 もし帝国軍が勝利を収めたら、この笑顔は消え失せてしまうのだろうか。
 国力の差は大きい。帝国側の勝利は固い。

 そうなったら彼女はどうなるだろう。

 田舎の集落だと見逃されたら運が良い。
 そうでなければ、帝国側の都合で捕虜になり、奴隷にされ、道具として扱われるか、男共の慰み者にされるか。それは許せない。そんなこと、あっていいはずがない。

 彼女の笑顔を守りたい。

 小さなシノアの頬に手を伸ばそうとした時、ドン、ドン、と強めのノック音が聞こえ、瞬時に目が覚めた。
 私は寝ていたのだ。柔らかいベッドの上で見慣れた天井を見上げている。

「トレシュ様、お目覚めですか?!」

 ブランドンの部下の声だ。鍵は閉めていないのに、勝手に入ってこないところに、ブランドンよりも丁寧さを感じる。

 私は上体を起こし、目を擦った。頭痛は少し和らいでいた。

「入っていいよ。」

 すぐに戸を開けて入室した兵に時間を訊くと、とっくに昼は過ぎたという。そして床のワインが片付けられていることに気がついた。
 手を広げ、親指と中指でこめかみを指圧する。随分と寝入ってしまった。

「トレシュ様、班長が戻りました!すぐにお越しください!」

 彼はブランドンの部下であるから、つまり彼の班の長はブランドンということになる。

 ブランドンは早朝に山を捜索しに出て行った。そのブランドンが夕刻前には戻り、部下が急いで私を呼びに来たということは。
 ようやく眠気が吹き飛び、頭の中の霧が晴れた。

 呼びに来てくれた兵の手を借りながら、急いでベッドから出て早いリズムで杖をついた。
 トガすら身に付けずに、ラフな格好で門へ向かう。

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